about him

俳優・勝地涼くんのこと。

『ムサシ』(2)-7(注・ネタバレしてます)

2016-10-24 01:46:38 | ムサシ
・戦いに先立ち武蔵が下手ぎわの「大界外相」と書いてある石を持ちあげて動かし、「邪魔になるかもしれんなこれは」と向こうに放り出す。
この「大界外相」の意味がわからなかったので調べてみたら、お寺の中の清浄な世界と俗な人間界を分ける結界石のことだそう。そんな大切なものを「邪魔」扱いで崖下に捨てるなよ(笑)。あなた宝蓮寺の作事奉行なんだから、自分で設置したんでしょうに。
ともかくこれで結界が破れたせいで、幽霊たちが化けていられなくなったわけか──と思いかけたが、これはおかしい。結界が破れたせいでこれまで寺内部に入れなかった幽霊たちが力を得る、姿を現すというならわかるが、その逆で結界石が機能している間は幽霊たちは平気で人間に化けお堂の中まで入っていたのである。不浄なはずの幽霊たちが結界が機能してる時こそ力を発揮しているとは?
しかも(偽)沢庵の口ぶりだと自分たちが自由に活動できるように結界を張ったのは彼だという。本来の寺の結界とは別に彼が結界を張った?としても武蔵が石を落とすことで破れた結界は寺本来のものであって沢庵の結界ではないだろうに、なぜここで幽霊たちが弱体化するのか。
あるいは武蔵が落とした「大界外相」の石は沢庵がすり替えた別物だったのか。その場合寺の結界内(というか境界線)に立ち入って結界石に触ったことになるわけだが・・・。しょせん本性は人斬りの武蔵のしつらえた結界石など形ばかりで何の効力もなかったということだろうか?
あと考えられるのは、戯曲のト書きには武蔵の落とした石はただ「下手ぎわにあった沢庵石大の石」(「沢庵」石というあたり偽沢庵の結界との関連を示唆してるようでもある)としかないから、井上さんとしてはこの石に寺の結界石としての意味合いを持たせるつもりはなかった(たまたま武蔵がどかした石が沢庵の張った結界の石だったというつもりでいた)ものを、蜷川さんがお寺の結界石として演出してしまったために起こった齟齬という可能性だろうか。
脚本がギリギリで、なんと武蔵と小次郎以外のキャラクターがみな死人だと知らないまま稽古を進めていた(!)というくらいだから、(※28)蜷川さんの方で用意した大道具に井上さんのチェックが間に合わなかったというのはありえるかもしれないが、初日は仕方なかったとしても石の大道具くらいなら簡単に差し替えられそうだし、ましてこれは再演である。つまりもとの脚本にはなかった設定ながら、井上さんは武蔵がどかした石を宝蓮寺本来の結界石とすることを問題とはしなかったわけだ。
じゃあどうして、寺の結界が壊れると沢庵の結界まで壊れるのか。寺の結界が機能しているのに、むしろその間こそ幽霊たちが堂々人間に化けていられたのはどうしてなのか。・・・どうしてなんでしょうね(苦笑)。

・そのとき怪鳥の鳴くような声が背後から聞こえてくる。タイミング的には結界を壊され、人間の姿を保てなくなった亡霊たちの悲鳴だったんでしょうか。
この後も寺のあちこちや竹林が次々倒れていきますが、いかに雷が鳴るような悪天候とはいえ寺が壊れるほどではない。これも結界が壊されたために、これまで結界内部にあった一種の仮想空間(後でわかるようにこの中では時間が通常通り流れていないので、空間的に結界が張られてるだけでなく時間的にも周囲と切り離された世界だった)が崩壊しはじめたということなんでしょう。ラストではお寺も竹林も元通りでしたしね。

・小次郎が鞘を捨てたことについてやりとりをしつつ、互いににじり寄りいよいよ刀を交えようという瞬間に、背後から宗矩と沢庵の幽霊が現れて二人の刀を押さえる。「生きよ~」「死ぬな~」という二人の声に続いて、寺のセットが二つに割れて男女七人の幽霊がさらに現れる。
武蔵は二刀を抜いて、小次郎は太刀で幽霊たちを次々斬っていく。勝ち残った者が敵の正体を見やぶるはずが、結局相手のことはさておいて共に幽霊に立ち向かっている。
まあ敵の正体がなんと幽霊、超自然の存在だったとあっては(狐や狸に化かされるのだって十分超自然現象だけども)、しかも自分たちに向かってこられれば、まずはそちらを斬り捨てようとするのが自然ではありますが。

・幽霊たちは皆踊るようなゆっくりした動き。音楽に合わせて念仏が流れる。その音楽も教会音楽風のオルガンに和楽器の音を絡めた見事な和洋折衷。
斬られながら「殺すなァ~」「殺されるなァ~」と叫ぶ平心と忠助。端から出た乙女が「もったいないのにィ~」。反対からまいが「たいせつなのにぃ~」。さらには乙女の父の敵だったはずの三人組まで「わからずや~」「阿呆~」とつぎつぎ叫んでいる。
斬っても死なない幽霊たちを相手にいつしか背中合わせになる武蔵と小次郎。すっかり共同での戦闘態勢。幽霊たちが出てくるまでの幸せそうな様子を思えば、せっかくの勝負によくも水を差したと怒ってもいいくらいですが、さすがに幽霊相手に口論を挑みはしなかった。

・倒れた竹が持ち上がって元通りになり、二人を半円に囲むようにした幽霊九人はみな手を合わせてじっと立っている。一時の混乱が収まり、ちゃんと話しあえる状態に復したことがこの静かな様子でわかります。

・沢庵が「さきほど、武蔵どのは、そこの結界石を崖下にお落としになりましたな」「そのために結界が破れて、もはや沢庵さまに成り澄ますことができなくなりました」。
そのためこんな姿で失礼いたします、と手をぶらりとした幽霊定番のうらめしやポーズ。外見も経帷子に天冠のわかりやすい幽霊姿です。そしてもはや口調が沢庵ではない。
バックに幽霊たちのなんまんだぶの合唱。この合唱、ちょっと催眠効果でもあるんでは。小次郎が「第十八位」にやられた時も武蔵以外の全員が「なんまんだぶ」唱えてたし。

・沢庵を皮切りに幽霊たちが自分たちの死因について告白する。沢庵は、貧乏寺のため寄進を募ろうと二十一日間の断食に挑んだが十九日目で力尽きて死んだと語る。
ここでバックの「なんまんだぶ」の声が高くなる。「途中で止めていれば、その先、いささかでありましょうと世間さまのお役に立てたのに、お金欲しさに命をむだに捨ててしまいましたー」。と泣き声に。
「幽霊さえも寄りつかないような貧乏寺」という形容がすごい(笑)。しかしこれまでの堂々たる沢庵の物腰と全く別人。六平さんの演技が光っています。

・ついで宗矩が、自分は朝比奈切り通し下で畑を打っていたが、関ヶ原で戦があると聞いて血をたぎらせて先祖の鎧を引っ張り出し、立派な戦国武将になって帰ってくるぞと(このへんすごく声が涸れてますが、意識的に裏声なのかほんとに声涸れてるのか)、息子を二人、父方のおじ、それにはとこ(呼ばれると幽霊の群れから該当者が前へ出て一礼する)など「一族郎党引き連れて出かけて行き、着いたその日に鉄砲で打たれましたー!家名を上げようとして命を落とした粗忽者です~」。
先祖の鎧を引っ張り出し、というからには元々は武家の出身だったということか。他の幽霊が皆鎌倉近辺で死んでいて、地縛霊としてこの地に出てくる必然性があるのに対して、関ヶ原で命を落とした宗矩の一族はこれに当てはまらない。だから居住地を朝比奈切り通し下にすることで魂が生まれ故郷に戻ってきたことにしたんでしょうが、逆に言えばなぜ関ヶ原で死んだ設定にしたのだろう。
戦で亡くなった人間も幽霊のうちに加えたかったのか、史実でも吉川英治『宮本武蔵』でも武蔵は若い頃に関ヶ原で戦ってるので、彼らと武蔵に一応の因縁付けをしたかったものか。
そして「一族郎党引き連れて」出かけたという形で幽霊たちの告白数人分を一エピソードで片付けてしまう(笑)。はとこまで持ち出す無理矢理感で笑いを取りつつ、参籠禅のメンバー以外の、観客に馴染みの薄い面々の話をさらりと略してしまう。手練の技です。

・平心が出て「わたくしは逗子の山の中で、石を研ぎ鏡をこしらえていました」と告白。ここで武蔵がはっとしたように反対方向を見ている。おそらく鏡職人というところから、例の鏡が一つに合わさった謎に関わってると察したからでしょう。

・「女房どのが、毎日のように、「貧乏はもういや」とこぼしますので、いまに見てろよと、お供をして(ここで宗矩を差す)出かけましたが、着いたその日に鉄砲でやられました。こんな姿で迷っていますと女房どののあの小言も、天上の音楽のようであったなあと、なつかしく思い出されるのです~」と続ける平心。
先の説法の女房にせっつかれて強盗殺人を行なった男に重なるものがあります。きっとあの時説法しながら女房どのを思い出していたことでしょう。

・まいは、自分は八幡宮の白拍子だったが、静御前と舞の手を争って敗れ、悔しさのあまり弁天池に身を投げたという。「一つしかないいのちを~軽はずみでございました」。
静御前と同時代に生きたとなると400年以上も前の人間、沢庵は不明だが他の幽霊たちが皆ここ十数年の死者なのに比べて一人だけずいぶん古い。彼らと出会う前は何百年も一人でさまよっていたのかな・・・。

・乙女は「父の見せ物小屋で、女歌舞伎や若衆歌舞伎を観て育ちました。やがて筋書きを書くのが好きになり、ある若衆歌舞伎一座のために脚本を案じましたところ、座頭から「あんた下手ねー!」(この時の台詞回しが前後と全く声色が違ってユーモラスで良い)と突き返され、口惜し泣きしながら、月夜の由比ヶ浜を歩いているうちに、ふと気がつくと、もう海の底におりました~」と泣き崩れる。
「ふと気がつくと」というからまいのように明確な自殺ではなく、悔しさのあまり回りが見えてなさすぎて海に落ちた(それも死ぬまで落ちたことにも気づかなかった)という一応は事故死のようです。
若衆歌舞伎が流行ったのは女歌舞伎が禁止された寛永六年(1629年)からで、物語の主な舞台となる元和四年(1618年)よりも後なのだが、調べると慶長八年(1603年)に出雲のお国がかぶき踊りを創始した直後から存在はしていたようなので、乙女の死は慶長八年以降、「女歌舞伎や若衆歌舞伎を観て育った」というから慶長八年に十年前後プラスしたあたり─3、4年前に亡くなったといったところでしょうか。おそらく幽霊たちの中では一番の新参ですね。

・「生きていたらもっとたくさん書けたのにー!・・・でも、このたび、このお芝居の脚本を書くことができて、少しはホッとしております」と言う乙女。この「生きていたら~」という心の叫びは『ムサシ ロンドン・NYバージョン』上演時にすでに井上さんが故人になっていたことを思い合わせると、つい井上さん自身の叫びのように聞こえてしまう(同じような感想を記した劇評も見かけました)。
そして武蔵と小次郎が口々にあげていた〈宝蓮寺で起きた全ての事柄に自分たちに決闘をやめさせようとする意志が働いている〉その理由がここではっきりする。やはり具体的な筋書きを作った人間がいたわけですね。

・ここでぱっと画面が明るくなり武蔵と小次郎ははっと顔を見合わせる。そして後ろを振り向くと二人の前に幽霊たちが揃って土下座。
まいだけすぐ顔をあげ「生きていたころは、生きているということを、ずいぶん粗末に、乱暴に扱っておりました」。ついで宗矩が顔をあげて「しかしながら、いったん死んでみると、生きていたころの、どんなにつまらない一日でも」「どんなに辛い一日でも」(中略)「とにかくどんな一日でも」「まばゆく、まぶしく輝いて、見える~!」。
武蔵は小次郎からの決闘申し込みを受けたさいに「生死の境に立っているときのあの命の高鳴り、すぐに死なねばならなくなるかもしれない、しかしこの瞬間だけは体全体を使っていきいきと生きている。あのときの沸き立つような命の瞬間がまた味わいたくて、おぬしに止めを刺さなかったのかもしれないな」と語っている。
死がすぐ傍らにあるからこそ、今生きているという生命の輝きをひしひしと感じることができる。それゆえ自ら望んで死地に立とうとする武蔵や小次郎の生き方に対して、すでに死んでいる自分たちから見れば、死と紙一重のスリルなど求めるまでもなく、ただごく当たり前に生きているだけで生命は輝いているのだと幽霊たちは主張する。
井上さんは、生ある者の輝きを描くため対比的に死者を頻繁に登場させるそうで(※29)、『イーハトーボの劇列車』(初演1980年)や『頭痛肩こり樋口一葉』(初演1984年)で幽霊を出したのもそれゆえなのだそう(※30)
この〈ただ生きているだけで人生は素晴らしい〉ことをもって、好んで生死の境に立ちたがる人間を否定するのには個人的に異論がありますが、それについては(3)で述べようと思います。

・「このまことを、生きている方々に伝えないうちは、とうてい成仏できません」「けれど、これまでどなたも、このまことに耳を傾けようとはなさらなかった」「それで、こんなふうに、迷ったままでおりますー!」と全員で頭を下げ、「うーらーめーしーやー」と体を起こしておなじみの幽霊ポーズ。
しかし「これまでどなたも(中略)耳を傾けようとなさらなかった」と言うが、すぐ後の「こんどこそはうらめしや、なんて古くさいやり方ではなく」という台詞からすると、今までは普通に幽霊らしく人前に出て「このまこと」を訴えようとしてきたっぽい。・・・耳を傾けようとしなかったのは話の内容どうこうではなく話聞く前に怖さで逃げ出したんじゃあ?

・この鎌倉に日本一を競い合って著名な剣客が二人訪れたので、「こんどこそは、うらめしやなんて古くさい(「古くさい」という時のいかにもバカにしたような言い方が面白い)やり方でなく」「このまことを、生きている方々のお好きなお芝居仕立てにくるみ込み」「一生懸命、相勤めましたー」と全員で頭を下げる。
「一生懸命、相勤めました」という言葉といい動きといい、歌舞伎の口上のようです。

・沢庵が、「今朝早く」小次郎がこの佐助ヶ谷に足を踏み入れた瞬間に「わたしが」宝蓮寺一帯に結界を結んだと言う。
今朝早く?小次郎が現れてから三日経ってるはずなのに。最初は台詞の言い間違いかと思いかけましたが、このあとで本物の沢庵たちがやってくるので、つまりは本当はまだ参籠禅最初の朝、武蔵と小次郎は時間を超えた結界の中で数時間の間に三日分の夢を見せられてたということだろう。結界を張るのが沢庵を演じた幽霊の役回りだったのは、生前僧侶だっただけに他幽霊たちより法力のようなものが上回っていたのか。
不思議なのは小次郎が佐助稲荷に出かけたシーン。宝蓮寺と佐助稲荷は近所のはずではあるが、宝蓮寺一帯に張った結界は佐助稲荷までも含んでいるのか。結界石が寺の境内にあるあたり、宝蓮寺の敷地だけが結界内なのかと思ったのだが。
もっとも小次郎は「宵祭りでにぎやかだった」と語っていたが本来はまだ朝のはずなので佐助稲荷も時間の流れ方が違う、つまりは結界内ということになろう。ということは「宵祭りでにぎやかだった」というのも小次郎が幻を見てたわけか。そのわりには宵祭りで購入した(としか考えられない)狐のお面─実体のあるものを寺に持ち込んでいるのが謎。あのお面、その後出てこないからやっぱりあれも幻だったのだろうか?
この佐助稲荷に行ったエピソード、さして必要性がないにもかかわらず再演のために脚本が詰められたときもそのまま残ったから、なんかもっと裏の意味があったりするんじゃあ?と勘繰ったりしてます。

・幽霊たちは、これからここにくる予定の方々に化けてあの手この手で二人を戦わせまいとした、二人が戦わないでくれれば成仏がかないますとそろって頭を下げる。「お二人がお命を大切になさることで、わたしたちを成仏させてください~」「成仏を~成仏を~」。
結局最後は泣き落としじゃないか。しかも武蔵と小次郎の命を惜しんでいるようなことをさんざん言ってきたくせに、最終的には自分たちが成仏したいがために二人に決闘をやめさせようという・・・要は自分たちの都合に武蔵と小次郎を付き合わせようとしてるわけで(戯曲には、乙女が「このお芝居の脚本を書くことができて、少しはホッとしております」と語るシーンの後のト書きに、武蔵と小次郎が乙女の名乗りにギョッとした、「そこへ付け込み、亡霊九人、ここを先途と訴える」とある。つまりは彼らの動揺に付け込んで、ここぞとばかり泣き落としにかかったわけだ)。
・・・実はこの場面にこそこの作品の真のテーマがあるような気もしますが。

・ここで浅川甚兵衛が小次郎の鞘を拾って背後から差し出す。このときの捨て猫のような目が何とも(笑)。小次郎は鞘と武蔵の顔を見比べつつ鞘を受け取り、武蔵も刀をしまう。
そろって刀を納めた瞬間のちゃりんと鍔の鳴る音と同時に、幽霊たちが「ありがとうございます~」「なんまんだ~」と口々に唱える。刀を納めた時の二人の胸中はどんなものだったのだろう。

・他の幽霊たちがゆっくり立ち上がり後ろへ去ってゆく中、宗矩は一人近づいてきて、「あの『孝行狸』という謡曲のことだが、おしまいまで仕上がっているんだよ」と穏やかに切り出す。
本物の宗矩が将軍家の政治顧問という上流社会の人間だけに能に堪能なのはわかるとして(史実もそうだし)、生前一介の百姓だった偽宗矩が能に詳しいのはちょっと意外。幽霊になってからまいに教わったんだろうか。
何にせよ能にも『孝行狸』の筋にも興味なさげな武蔵と小次郎にしてみれば〈だからなに?〉という話である。戯曲でも宗矩の台詞に対する武蔵と小次郎の反応は「・・・・・・?」になってました(笑)。

・宗矩いわく、「カチカチ山に帰った子狸は、仇のウサギをスパッと二つに切った。すると、ウサギの上半分が鵜になって、下半分は(この時点で客席から笑いが起きている。先が読めたからだろう)鷺になって(ここでもっと笑い)、空高く飛び去っていった。めでたしめでたし」。客席上空を指して夢見るような調子で語る宗矩がいい味です。
ところでこのウサギがウとサギに分かれるオチですが、江戸後期の黄表紙あたりにでもありそう、いや実際こんな筋の話があったような?と調べてみたら、井上さんのエッセイの中に答えがありました。朋誠堂喜三二による黄表紙『親敵討腹鼓』(おやのかたきうつやはらつづみ)(※31)です。
内容は「カチカチ山」の後日談で、兎に親を殺された子狸が仇討ちのため兎を付け狙い、兎を斬ると上半身が鵜になり下半身が鷺になってどこかへ飛んでいく、というもので、これが『孝行狸』の元ネタなのは明らかです(もっとも『孝行狸』は大分『親敵討腹鼓』の内容を削ぎ落としていて、その落とし方がキモだったりするのですがそれは(3)で)。
若い頃吃音に悩んでいた井上さんは、『黄表紙百種』という本に収録されていたこの作品で初めて黄表紙というものに触れて、その言葉遊びの馬鹿馬鹿しさに衝撃を受け、「馬鹿なもの、ムダなことにも値打ちがあるのだ。だから、自分もそんなに立派な人間になろうとしなくてもいいのではないか」と気持ちがうんと楽になったといいます(※32)
これは井上さんについての伝記的研究本では必ずといっていいほど取り上げられる有名なエピソードであり、当然評論家の方々は『孝行狸』の元ネタが『親敵討腹鼓』なのに気づいていたはずですが、不思議と浅見の限り誰もこの事に言及していない(※33)。有名な話だからこそわざわざ取りあげるまでもないと思ったのか?・・・おそらくは扱いに困った結果として黙殺したんじゃないかと類推してるのですが、そのあたりも(3)で書こうと思います。

・語り終えた宗矩が、無言のままの(呆れてた?)二人にありがとうと手を合わせて去ったあと、今度は平心が近づいてきて、「二つに割れた鏡が、ぴったり一つになりましたよね」と小次郎に話しかける。
先に宗矩がウサギがウとサギの二つに分かれる話をした直後に、今度は二つに割れたものが一つになった話。もっとも平心が種明かししたように一つになったうちの半分は偽物だったわけですが。

・鏡は小次郎が水垢離をしてる間にこっそり寸法をとってまいが持ち出した方をこしらえたと聞いて胸を押さえる小次郎。「生きているころは、これでも腕のいい鏡職人だったんですよ」と平心。
彼も乙女同様に、今回生前鍛えた腕を振るう機会を得たことで、いくらか充足感を得られただろうか。無言で見つめる二人に「ありがとう」と手をあわせる場面の笑顔には心なし〈やりきった〉感がうかがえました。

・平心が去った後に小次郎の足下に鏡の半分が落ちる。さっき探したときは見つからなかったものが元々の姿に返って手元に戻ってきた。哀切なメインテーマが流れる中、無言で立ち尽くしたままの二人。小次郎の目の淵から伝ったのは汗なのか、それとも涙だろうか。
寺のセットも元通りになり、一種の異次元から本来あるべき場所へ戻ってきた、物語の環が閉じようとしているのを暗示しています。

・はっとしたように武蔵は寺を振り返り、小次郎も落とした鏡を拾い上げて大事にしまう。二人とも無言のまま襷を外し鉢巻きも外す。
寺の床に刀を置いて、そのまま旅支度を始める二人の動きがシンクロしていて、終始無言なのも合わせ、何も言わずとも通じ合える二人の絆を感じさせます。

・脚絆をつける途中で小次郎が、実は失神した時にどこかの勅願寺に迎えられてお飾りの住持にでもさせられるのかと思った、それならそれでのんびり暮らすのも悪くないとふと思ってしまったと打ち明ける。
巌流島の決闘のさいについ不戦勝を願ってしまったのもそうですが、強い敵と戦うこと、それによって自分を高めてゆくことに価値を置く武蔵に対して、小次郎の方は名誉を得るための道具として剣を用いている節がある。たまたま養父が小太刀の使い手だったために剣の道を選んだだけで、他のルートを使って名誉を得られるならそれでも構わなかったのでは。
お飾りに過ぎなくても退屈でも名誉ある立場に惹かれてしまったあたりが大分俗物ですが、死に近接したところに常に身を置こうとするより「のんびり暮らすのも悪くない」と考えるほうが人として健全なのかもしれません。

・「・・・しかし、いま何位くらいだろう?」「・・・なにが?」「皇位継承順位のことだ」。芝居だったのがわかってるのにまだ言うのか、どれだけ未練がましいのかとつい笑ってしまった。小次郎本人もちょっと照れくさそうにしてます。

・「そうだな、この国には三千万の人が住んでいるといわれているが、二人とも一千五百万位ぐらいではないのか。まあ、ごく当たり前の人、というところだ」。「そうだな・・・」と静かに納得した風の小次郎。
彼がおそらくは幼少期からずっと抱えてきた、そして剣士としてのモチベーションでもあった名誉欲を捨てた。彼が剣客ではなく普通の人として生きてゆくきっかけとなるやりとりです。

・これからどこへ行く?と聞かれた武蔵は「北の方のどこか、山間の荒地に鍬でも打ち込もうか。もう三十五だ、そろそろ人の役に立つようなことも考えないとな」と答える。おぬしはどこへゆくと聞かれた小次郎は「越前あたりの寺の軒下でもかりて、境内の草むしりでもはじめるか。雨の日は、武蔵にならって書を読もう」。
ただ「書を読もう」だけでなく「武蔵にならって」という言い回しに、小次郎の中で武蔵はもはや敵ではなく畏友というべきポジションにあるのが滲み出ていて、なんだかほっこりします。「武蔵にならって書を読もう」と言うときの小次郎の声もどこか優しい響き。
しかし一種難事業に挑もうとしてる武蔵はともかく、小次郎は余生のごとくである。武蔵に「まだ二十九ではないか。老け込むなよ」と言われるわけです。
ところでこの二人の年齢ですが、巌流島での決闘当時は武蔵が29歳、小次郎が23歳。つまり井上さんは二人の再会を六年後に持ってくることで、小次郎が当時の武蔵の年齢になるよう図った。今の小次郎が自分と同じ年だった頃の武蔵に追いつけたかを浮き彫りにするための工夫でしょう。
剣の腕的にはどうかわかりませんが、人間性については、当時の武蔵の方が大人だったんじゃないかという気がする。小次郎にとって武蔵はいつまでも追いつけない目標、かつて武蔵がいた地点にたどり着いたと思ったら武蔵はさらに前に進んでるという「アキレスと亀」的な関係なんじゃないですかね。

・蝉時雨の中、鐘の音とともに客席を通って本物の平心らが登場。浅川甚兵衛ら一味も茶の宗匠風の格好。
沢庵と平心が「これこれ、武蔵よ、どこへ行くのだ」「これから始まるのですよ、開山式が」と止めるが、「急に思い立ったことがあります」と武蔵はあっさりかわす。家光さまが一度おぬしと会いたがっている、終わったら江戸へゆかぬかと誘う宗矩にも「それはまた、別の機会に」と取り合わない。
一方まいは小次郎を側で眺めまわしてから「こちらのお方は?」と武蔵に尋ねる。本物のまいは小次郎に何の思い入れもないはずですが、一度は彼女(と同じ姿の幽霊)を母と呼んだ小次郎は居心地悪げ。まあそれ以前に「佐々木小次郎」と名乗るわけにもいかないだろうし(なぜ生きてるのか、宿敵武蔵となぜ一緒にいるのかなど説明が難しい)。

・少し間があって「友人です」と武蔵は答える。小次郎は驚いた顔で武蔵を見るが、正直武蔵から友人と呼ばれること、自分も彼を素直に友人と思えることが嬉しかったんじゃないかな。

・乙女が「ぶしつけながら、お名前は」と尋ねるのに応えず武蔵に近づいた小次郎は「からだをいとえ」と告げる。「おぬしも達者でな」。ごくシンプルな言葉の中に相手に対する万感の思いが籠もっている。
左右に分かれ客席へ降りて去る二人。「おい武蔵、将軍家指南役の口がかかっているのだぞ」と呼びかける宗矩の声にも振り返らない(※34)。武蔵に将軍家指南役の口がかかってる(宗矩が推挙した?)というと、宗矩はどうするつもりだろう。兵法指南役は武蔵に譲って自分は政治顧問に専念するつもりだろうか。
ところで、もし幽霊たちが介入せず〈幻の4日間〉を体験する前の武蔵だったならどう反応しただろうか。この芝居の武蔵は世俗的名誉には関心が薄そうに見えるが、史実の武蔵は大名家への仕官を望んで全国行脚していたようだし、将軍家指南役となれば喜んで(あるいは謹んで)受けたかもしれない。その場合、「争いごと無用」を標榜する宗矩から「ここに父親を騙し討ちにされた女がいる。それを見ないふりしなさいというのが、柳生新陰流ですか」の武蔵に指南役が変わることで※18にあるような幕府の政策にも影響が生じたかもしれない。自分たちが成仏したいがための幽霊たちの行動がなければ、歴史が大きく変わっていたのかも。

・「去るものは去り来るものは来る。これ人間世界の実相なり」。沢庵に言葉に周囲も一礼し、平心が冒頭部と全く同じ寺開きの挨拶を行うところで幕が閉じる。物語の円環が完全に閉じた充足感のようなものがあります。



※28-「新作だから、スタートから台本がすべてあるわけではない。やっていて結末は誰もわからなかった。稽古で誰も死んだ人間が劇をやっているとは思っていない。台本が届いて「えー!みんな死んでいたんだ!」ってびっくりした(笑)」(蜷川幸雄「井上ひさしを伝える」、『悲劇喜劇』、2013年1月号)。何たる出たとこ任せ。新国立劇場で初演された“東京裁判三部作”や『紙屋町さくらホテル』『箱根強羅ホテル』の時は、井上さんは台本に先んじて詳細なプロットを書いた端から(こちらも相当締め切りに遅れながら)劇場担当者にFAXで送っていたのに(『初日への手紙 「東京裁判三部作」ができるまで』(白水社、2013年)『初日への手紙Ⅱ 『紙屋町さくらホテル』『箱根強羅ホテル』のできるまで』(白水社、2015年)参照)。井上戯曲の新作を上演するって、つくづく強心臓でなきゃ勤まりませんね。

※29-「扇田さんはご存じだと思いますけれども、ぼくは生命の輝きを死の世界にちょっと足を踏み入れたところから書くと成功するんです。照射し合う中からドラマを取り出すという方法論があると思います。一つだけではちょっと足りない。構造体としては危なっかしい。」(聞き手・扇田昭彦「物語と笑い・方法序説」、扇田昭彦責任編集『井上ひさし』、白水社、2011年)

※30-「いろいろやり残して途中で死んで行った人たちが、この世でまだ生きている人たちになんか言う、そういうスタイルに非常に凝り固まっているというところがぼくにはありまして、ですから宮沢賢治の生涯を扱った『イーハトーボの劇列車』も死んだ農民の話なんですが、こんどの『頭痛肩こり樋口一葉』もお化け。同じことなんです。 ここまで生きてきたが、自分にはできなかった、けれどもこれから生きる人たちに自分の失敗を語ろう、自分たちが消えて行くことで逆に生きている人たちに未来をつくっていく、消えて行くものがいるから生きているものがいる、そういう際立たせ方で生きている人たち、つまり観客に、「まだ未来はありますぞ」ということを訴えかけるのが、芝居の場合、非常に有効なんです。 それは日本の歌舞伎も、極言すれば半分くらいそれでできていますから──死んでまた生まれ変わって、死んでと、できていますから──それは演劇のもっている基本的な枠組みのひとつのような気がします。」(井上ひさし・大江健三郎・筒井康隆『ユートピア探し 物語探し』、岩波書店、1988年)

※31-日本ペンクラブ編・井上ひさし選『児童文学名作全集 1』(福武文庫、1987年)収録。

※32-「わたしのとっての戯作」(井上ひさし『パロディ志願』、中公文庫、1982年所収)、「恐怖症者の自己形成史」(井上ひさし『さまざまな自画像』、中公文庫、1982年)、「著者から読者へ わかれ道」(井上ひさし『京伝店の烟草入れ 井上ひさし江戸小説集』、講談社文芸文庫、2009年)ほか、様々なエッセイでこのエピソードは語られています。今回の引用は「わたしにとっての戯作」「わかれ道」の両方(引用部分は全く同文)から。

※33-唯一、今村忠純「最上は、井上ひさしの新作」(『悲劇喜劇 3月号』、早川書房、2010年)が「これが『黄表紙百種』からかりていたものだったこともやはり忘れてはならないだろう。仇討をギャグにしてみせる工夫こそ「ムサシ」のもう一つの大事だったのだから。」という言い方で元ネタの存在に触れている。


※34-武蔵に「将軍家指南役の口がかかっている」というのは『丹治峯均筆記』(正式名称は『武州傳来記』)中の「兵法大祖武州玄信公傳来」の記述が元ネタかと思われます(「武州兵法、将軍家達、上聞、可被召出御沙汰アリトイヘトモ、柳生但馬守殿、御師範トシテ常住御前ニ侍席セラル、武州、柳生カ下ニ立ンコトを忌テ、若年ヨリ仕官ノ望ナク、髪ソラス爪トラス、法外ノ有様ナリ、御免ヲ奉蒙度旨達而御断申上ラル、兵法御覧ノ御沙汰モコレアルトイヘトモ、柳生ヲ御尊敬被成カラハ、我兵法備台覧テモ益ナシトテ、コレモ御断被申上、但州モ曽テ吹挙ナキトカヤ、武州カ繪ヲ御覧被成度ヨシニテ、御屏風ノ繪ヲ被仰付、武蔵野ニ月出タル所ヲ御屏風一ハイニ書テ差上ラレシトイヘリ」)。『武州傳来記』は福田正秀『宮本武蔵研究第二集 武州傳来記』(星雲社、2005年)の「附録 『武州傳来記』原文翻刻(全)」で全文を読むことができる。同書は長らく内容の信憑性が疑われていたこともあり、ほとんど名のみ知られた存在だった『丹治峯均筆記』の正式名称や信頼性を明らかにした本であり、同エピソードはもっぱら宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂『宮本武蔵』を通じて知られていたらしい。この顕彰会本は1909年4月に初版発行(発行所は金港堂書籍株式会社)、当時巌流島の決闘で有名な剣客としてしか知られてなかった武蔵の実像を伝えようと、熊本の有志による遺蹟顕彰会が編纂し国文学者・池辺義象が調査執筆したもので、のちの武蔵研究の基礎資料となり、吉川英治『宮本武蔵』がこの本を多く参考にしたことでも有名。復刻版(原文と現代語訳版の両方)が熊日出版から2003年に刊行されているが、現代語訳版では上記エピソードについて「武蔵の兵法は将軍家の耳にも達し、召し抱えるという話もあったけれども、将軍家が(指南役の)柳生但馬殿を重く用いておられる以上、自分の兵法をご覧に入れても無益であると言って、武蔵は招きに応じなかった。それなら画を御覧になりたいとのことであったので、武蔵は、野原に太陽が出てきたところを屏風いっぱいにかいて献上したという。」(「第八章 逸事」)と記述している。


11/14追記-※34を追加しました。