about him

俳優・勝地涼くんのこと。

『ムサシ』(3)-9(注・ネタバレしてます)

2016-12-30 02:49:59 | ムサシ
もちろん基本的には井上さんは笑いを肯定する立場に立っている(※56)(※57)(※58)。それはチェーホフを主人公にした芝居『ロマンス』(初演2007年)に強く表れている。
従来悲劇とみなされがちだったチェーホフの戯曲が喜劇として書かれていることとチェーホフが「笑い」をどう捉えていたかを描いたこの戯曲の精神は、第八場の「わらう わらい わらえ それが ひとを すくう」というストレートな歌詞の歌に象徴されている(※59)
『黙阿弥オペラ』(初演1995年)の中で夢破れて入水自殺しようとした四人組が、彼らを追い詰めた憎い相手の残した立て札も一緒に沈めようとして格闘する仲間の姿のおかしさにやがて笑いだしてしまい、「腹ァ抱えて笑いながら死ねるやつがいたら、こりゃよほどの達人だぜ」「笑っているうちにスーッと死ぬ気が失せてしまいましてね」と生き直す決意をするくだり(※60)は、まさに「それが ひとを すくう」の好例だろう。

一方で笑いの残酷さを描き出しているのが『シャンハイムーン』(初演1991年)のワンシーン。主人公の魯迅が知人の須藤医師と、学生時代に見て人生最大の衝撃を受けたニュースのスライド─ロシアのスパイだと疑われた中国人が斬首される場面─について語り合う場面がある。
魯迅「まわりをぐるりと見物の中国人が取りかこんでいたでしょう、みんな、薄ぼんやり笑って。同胞が殺されようとしているときに、笑うやつがあるもんか。」(中略)須藤「わたしのみたスライドでは、まわりを取りかこんでいたのは日本軍の将校だった。生命がひとつ、この世から消えようとしているのに笑いながら一升瓶のまわしのみをしていた。人間の死は酒の肴ではない。わが武士道はどこへ行った!?」(※61)
斬首そのものの残虐さもさることながら、ただまわりを取り囲んで見物していただけでなく「笑いながら」見ていた事実が、見物人の残酷さとこの映像に対する魯迅と須藤二人の衝撃を増幅させている。本来笑うべきないところで笑う─追従笑いにせよ嘲笑・哄笑にせよ─ことのグロテスクさをこの短いエピソードは端的に提示してみせているのだ。

そして井上さんにとって笑いとはまず身を守るためのものだった。井上さんは自身が吃音だった経験に基づき「たいていの吃音者は、この厄介な状況を抜け出すと、とたんにお道化者になるみたいなのだ。他人と自分との間にすぐに「笑い」の樋を渡してしまおうとする。」とエッセイで書いている(※62)
また中三から高三までを孤児院で過ごしたことも大きかった。孤児院時代を描いた半自伝小説集『四十一番の少年』(『四十一番の少年』『汚点』『あくる朝の蝉』収録)巻末に載る百目鬼恭三郎氏による「解説」は、「早くから他人の中で苦労すると、相手に気をつかい、自らを卑下してまで相手のごきげんをとり結ぶという姿勢は、第二の天性とでもいっていいほど身についてしまうものである。そして、こういう立場におかれた人間にとっては、自分を極端に卑小化し、滑稽化してみせることは、実は、優越感の裏返しなのであり、彼がこれを誇張すればするほど、優越感の満足度も大きくなるという利点もある。平たくいうと、相手に自分をバカと思わせるのに成功したということは、相手が自分よりバカになったということなのだ。」と書く(※63)。井上さんの三女・麻矢さんのエッセイの記述もこの洞察を裏付ける(※64)

一方孤児院時代には自身を滑稽化するのとは逆方向の〈演技〉も必要となった。上で名を挙げた小説『汚点』には〈恵まれない孤児〉を慰めようと善意を押し売りしてくる市井の人々を満足させるためにことさら〈不幸な子供〉らしく振る舞ってみせるくだりがある(※65)。『あくる朝の蝉』は夏休みの間、善意の市民たちによる孤児院収容児童との交流イベントに毎日のように駆り出されることを嫌った主人公が田舎の祖母の家で休みを過ごそうと企てるのが物語の発端となっている(※66)
あくまで小説なので書かれていることが皆事実とは限らないが(表題作『四十一番の少年』については孤児院での実体験に当時巷で起きた誘拐事件を接続したものでフィクションの度合いが大きい)、※65のエピソードについてはつかこうへいさんとの対談でも話しているので事実とみなしていいだろう(※67)
自身を滑稽に見せるか悲痛に見せるかの違いはあるが、自分を低く見せて相手の優越感を満たすという点では同じであろう。これとて他人をいい気分にしてやるわけだから〈笑いが人を救う〉一例と言えなくもないわけだが・・・。個人的にはどんな形にせよ他人を貶めることで喜びを得る、そんな〈笑い〉は不健全だと感じてしまう(この手の笑いを世の中からとっぱらったら、みんな人生で笑う回数が半分以下に激減するだろうけど)。

この孤児院時代の体験が示すように、他人を笑わせること、自分を低く見せることを処世術としながらも、それは井上さんにとって時に苦痛を伴うものだった。
中学三年の時と大学入学のための上京時に訛りをからかわれるのが苦で吃音になり(※Ⅲ)、さらに大学の時には吃音に悩むあまりノイローゼになった(※Ⅳ)のも、〈笑われる〉ことを逆に利用して積極的に〈笑わせる〉方向へすぐに転化できなかった、自分を低く見せて相手を喜ばせる戦法を徹底できなかったからだろう。
そう考えると井上さんが「ウサギ→ウ+サギ」に救われたのがよくわかる気がする。地口=駄洒落は誰も傷つけない笑いであるから(※68)。他人を貶めることも自分を低くすることもなく言葉それ自体を笑う──言葉のために傷つけられてきた井上さんが言葉に救われたのだ(※69)

ただ最初は「ウ+サギ」や「反吐前のかば焼」といった駄洒落の馬鹿馬鹿しさに笑わされ、救いをもたらしてくれた『親敵討腹鼓』に対する感情はその後いささか変化していったようである。
『笑談笑発 井上ひさし対談集』収録の「戯作の可能性」(国文学者・松田修氏との対談。初出1973年)の中で井上さんは「「ウサギ」をふたつに切ると「ウ」と「サギ」になるという一種の地口のようなものに寄りかかって話が作られているわけですね。書く、という作業が、一個のゴロ合せの上に辛うじて立っているというのは松田さんがおっしゃるように、かなりつらかったと思います。書いた人の心中を察すると他人事とはとても思えない。」(※70)と発言している。
一方で同書収録の「神とユーモア」(小説家・遠藤周作氏との対談。初出1974年)では「ウサギをパッと切ったら、ウとサギになって飛んでっちゃったというようなバカな話をえんえんと書いてる戯作者がいますけど、それを読むと、語呂合わせひとつのために、綱渡りしながら書いてる戯作者が、やはり金色にパッと輝くわけです。こういうバカな人間がいる限り、やっぱり人間はいいもんじゃないかという気がするわけです。」(※71)とほとんど逆のことを話しているのだが、対談相手を立てて話を合わせた結果の矛盾(井上さんは〈対談ではすぐ相手に迎合してしまう〉とエッセイに書いている(※72))というわけではなく、初めて読んだ時の晴れやかな感動を保ちつつも、自身が地口や語呂合わせを駆使して作品を書く立場になってみてわかる辛さもあるという──つまりはどちらも本音なのではないだろうか。

(余談ながら上掲「神とユーモア」の中で井上さんは「ウサギを二つに切ったら、ウとサギになっちゃったっていうのは翻訳できないですからね(笑)。」と話している。『ムサシ ロンドン・NYバージョン』はロンドンとニューヨークでの公演のさい台詞の英訳を電光掲示板で表示する方式を取ったというが、『孝行狸』のオチの場面をどんなふうに訳したんだろうか・・・)

井上さんは上掲「戯作の可能性」の頃、戯曲で言うと翌年初演の『天保十二年のシェイクスピア』あたりから次第にそれまでのような「地口のようなものに寄りかかって」話を作るスタイルを離れていく(※73)(※74)
それについては後ほど書くとして、この「戯作の可能性」の中で松田氏は戯作者十返舎一九について「見方によれば鋭く政治的であるような面を持っていて、しかもそれを「私のやっていることはばかばかしいことでござんすよ」という自虐でくるんでお客には出す。お客は笑いの中の毒には気がつかないで、ほとんと「ああ、おもしろい、おもしろい」ですんでしまう。「誰もおれの仕掛けたワナには気づかないで、おれの料理のほんとうのねらいはわからないで食べてんだな」という自己満足──もちろん通じれば通じた喜びはある。」(※75)と分析している。
これは単に一九個人についての評ではなく戯作者全般に共通する心性を述べたと考えてよい。ここから〈現代の戯作者〉と評され戯作者の心中に「他人事とはとても思えない」ほどの共感を寄せていた井上さんも、笑いの中に毒を混ぜて観客に供し、ワナに気づかない、本当の狙いを読み取れない彼ら─私たちを密かに笑っていたとしてもおかしくない・・・と考えるのは穿ちすぎだろうか。※63の指摘をより具体化したような井上さんの自己評価(※76)を読むと、満更考えすぎとは思えないのである。

「復讐の連鎖を断ち切る」という表看板も心にもない嘘というわけではなく、井上さんの真摯な願いには違いないだろう。しかし「フツー人」の味方でありつつ彼らの罪を繰り返し告発せずにいられないような二面性(※77)(※Ⅴ)が、笑いのオブラートで観客の目を欺きながら復讐肯定の挿話をクライマックスに配置するような意地の悪い仕掛けを行わせる。
そこにかつて自分を救ってくれた『親敵討腹鼓』を改変引用したのは、言葉のために悩んだのが言葉を武器とし、笑われることに苦しんだのが笑いを処世の道具とするようになった──いわば人生に180度の転換を促し、素直な感動と戯作者の悲しみへの共感という相反する感情を生起させるこの作品が、〈憎しみの連鎖は断ち切ることができる〉と信じると同時に〈いや無理でしょ〉と茶々を入れたくなる心情に嵌まったからではなかったろうか(※Ⅵ)(※Ⅶ)





※56-「僕の考えによると、怒りは人をキズつけますが、笑いはどんなあざとい嘲笑でも相手を生かしておくものだと思うのです。つまり共に生きる、共生という基盤はしっかり守ろう、相手を抹殺すまいというところがあって─いまはいじめとか排除する笑いもあるような気がしますが─そこが笑いの好きなところなんです。」(井上ひさし・大江健三郎・筒井康隆『ユートピア探し 物語探し』(岩波書店、1988年))

※57-「昔まだ世の中の大半の人が命と引き換えに働いていた時代の話、笑いとは大きな次の日を生きる糧だったという。「こまつ座の芝居にいらっしゃる人は気持ちよく笑ったり、泣いたりしたいのだ。その欲求を中途半端にしてしまうとお客様が気持ちよく帰れないのだよ」と常に心配し、「どうしたらお客様を快く裏切ることができるか、常にお客様は心地よく裏切られない(ママ)なのだよ」ということを考えて戯曲を考えていたのだなと思うと頭が下がる。」(井上麻矢『夜中の電話 父・井上ひさし最後の言葉』(集英社インターナショナル、2015年))

※58-「僕の芝居には必ずといっていいほどユーモアや笑いが入っています。それは、笑いは人間が作るしかないものだからです。 苦しみや悲しみ、恐怖や不安というのは、人間がそもそも生まれ持っているものです。人間は、生まれてから死へと向かって進んでいきます。それが生きるということです。途中に別れがあり、ささやかな喜びもありますが、結局は病気で死ぬか、長生きしてもやがては老衰で死んでいくことが決まっています。 この「生きていく」そのものの中に、苦しみや悲しみなどが全部詰まっているのですが、「笑い」は入っていないのです。なぜなら、笑いとは、人間が作るしかないものだからです。(中略)笑いは、人間の関係性の中で作っていくもので、僕はそこに重きを置きたいのです。人間の出来る最大の仕事は、人が行く悲しい運命を忘れせるような、その瞬間だけでも抵抗出来るようないい笑いをみんなで作り合っていくことだと思います。 人間が言葉を持っている限り、その言葉で笑いを作っていくのが、一番人間らしい仕事だと僕は思うのです。」(井上ひさし『ふかいことをおもしろく 創作の原点』(PHP研究所、2011年、NHKBSハイビジョンで2007年9月20日に放送された「100年インタビュー/作家・劇作家 井上ひさし」をもとに構成)

※59-「「笑い」についての井上ひさしの見解が鮮明に浮かび上がるのは、『ロマンス』の第七場「十四等官の感嘆符!」である。(中略)つまり、人生の至るところにある苦しみを描く悲劇を書くのはそれほど難しくないが、「ひとの内側に備わってはいない」笑いを作り出し、観客を実際に笑わせる喜劇を書くのは実に「たいへん」な作業だというのだ。 このせりふを語るのは劇中のチェーホフだが、ここからは明らかに、喜劇作家として生きてきた井上ひさし自身の切実な肉声が聞こえてくる。チェーホフと井上自身が「笑い」を介して、ぴったりと重ね合わされるのだ。 しかも、井上ひさしにとって「笑い」は、観客を喜ばせる娯楽であると同時に、たんなる消費を超えた、もっと大きなものでもある。それに続く第八場で六人の俳優全員が歌う「なぜか・・・・・・」の歌詞がそれを明らかにする。(中略)この歌詞が示すのは、笑いは娯楽であると同時に、苦しみの中で生きる「ひと」と「やるせない世界」を「すくう」とても大きなものでもある、ということだ。」(扇田昭彦「世界を救う「笑い」」、『井上ひさしの劇世界』(国書刊行会、2012年)収録)

※60-『黙阿弥オペラ』(『井上ひさし全芝居 その六』(新潮社、2010年)収録)

※61-『シャンハイムーン』(『井上ひさし全芝居 その五』(新潮社、1994年)収録)

※62-「たいていの吃音者は、この厄介な状況を抜け出すと、とたんにお道化者になるみたいなのだ。他人と自分との間にすぐに「笑い」の樋を渡してしまおうとする。一対一、五分と五分との関係をしまいまで保っていることが息苦しくて、悪ぶり、ふざけて、バランスを崩したくなる。いってみれば、まずこっちは地べたに這いつくばってそのことによって相手を高みへまつりあげ、こういう関係になった以上は自分がどのようなへま(原文傍点)を演じてももう下へおっこちようがないと安心して、それから相手と意志を疎通しはじめるのである。べつの型として、磊落ぶるとか、知識をべらべらと並べ立てたりするものもあるけれども、仕掛けそのものは前述のものと同巧で、とにかく相手とのハンディキャップなしの一騎打を最初から回避しようと心掛ける」(井上ひさし「お道化者殺し」、『ジャックの正体』(中公文庫、1982年)収録、初出1976年)

※63-百目鬼恭三郎「解説」(『四十一番の少年』(文春文庫、1974年、新装版2010年)収録)

※64-「男親が男の子に喧嘩を教えるように、私は父に戦い方を教わった。父は孤児院にいる頃、戦うことを強いられてきたせいかもしれない。というのは、孤児院では自らが道化になって、人を笑わせることで、身を守ってきたとある日の電話で話していた。父の幼い頃の苦労を彷彿とさせる話で切なくなってしまった。父は幼い頃から剽軽でユーモアの才野を持っていたから、笑いを手段にしたようである。作品にも笑いがちりばめられているのは、そのせいだと思う」(井上麻矢『夜中の電話 父・井上ひさし最後の言葉』(集英社インターナショナル、2015年)

※65-「ぼくらの孤児院に慰問バスや見学バスがやってくるのは珍しいことではなかった。特に頻繁に訪れるのは中年婦人の団体だった。彼女たちは乾パンか、せいぜい花林糖ぐらいを手土産にやってきて、ぼくらから不幸の匂いを嗅ぎ出すのを楽しみにしていた。(中略)彼女たちは何十万円もする着物の生地を眺めるときのような嘆声を洩らし、ぼくらの不幸を鑑賞して帰って行く。」(井上ひさし『汚点』(『四十一番の少年』(文春文庫、1974年、新装版2010年)収録)

※66-「孤児院の夏休みがなぜ重労働かというと、この期間に市民の善意や心づくしがどっと集中するからだった。(中略)なにしろこれらの善意の人たちは自分たちの施す心づくしがぼくらにどれだけ喜ばれているかをとても知りたがっていた。だからぼくらは心づくしへのお返しに必要以上に嬉しがり、はしゃぎ、甘えてみせなくてはならなかった。そうするよりお返しのしようがなかったわけだが、これはずいぶん芯の疲れることだった。」(井上ひさし『あくる朝の蝉』、同上)

※67-「われわれ孤児院収容児童がもっとも苦手としたのは、日曜日なんです。日曜になると、市内のおばさんたちがバスを仕立てて、慰問にくるのです。このおばさんたちを気持ちよく帰すのがひと苦労でしたね。というのは、われわれの施設には進駐軍がパトロンについていたのです。ですから野球のグローブは本皮製です。ローラースケートは全員もっている。トランプは新品。それから全員、皮製の編上げ靴をはいている。さらに建物が新築したてで立派。さあ、おばさんたちはだんだん滅入ってくる。「ここの子どもは、自分の子どもが持っていないようなものを全部持っている。・・・・・・ひょっとすると、自分が死んで、子どもが孤児になって、ここへ収容されるほうが、子ども自身にとって幸せなのではあるまいか」と考えだして不機嫌になる。そこで僕らは、このまま帰したんじゃまずい、なんて思うわけです。そこで、チョロッと、「自分たちは物質的には恵まれているけれど、やはり夕方になるとさびしくなる。親のことを思い出したりして・・・・・・」としめっぽい顔をする。するとにわかにおばさんたちが元気づく。「やっぱり、子どもには親がいるのが一番なのだ」。そういう自信を得てにこにこして帰っていく。(中略)「不幸な施設児童」が陽気じゃいけないんですよ。そこで陰気に振舞う。ところがそのうち本当に陰気になってしまう。これが困る。」(「情報整理とカタルシス」、井上ひさし・つかこうへい『国ゆたかにして義を忘れ』(角川書店、1985年)収録、初出1984年)

※Ⅲ-「中学三年の秋、ぼくは軽度の吃音症患者になったが、これは半ば作為的なものだった。この年の春から秋にかけて、山形南部の山村から八戸、八戸から一関、そして一関から仙台へと、言葉来まるでちがう四つの地方を転々と渡り歩いたのだが、この矢継ぎ早の移動が、ぼくの唇を引きつらせ、その地方にそぐわない言葉をもつれつつ、しどろもどろでしゃべって他人に笑われるよりは、吃音症を装った方が、より安全、より気楽だと思ったからである。」「吃音者は滅多に笑われないのにくらべ、ぼくは嘲笑の的になる。同じように辛いのなら、笑われないで暮らした方がよかろう。そこで、ぼくはある夜、つくづく吃音者になりたいと願ったのだが、不思議なことに、翌朝から、ぼくは願いどおりにどもるようになっていた。それに気づいたとき、すこしあわて、そして、大いに安堵したことをおぼえている。 ぼくが吃音症と縁を切ったのは世の中に「紋切り型」のコトバというものがあることを知り、それを使いこなすことを覚えたときだった。(中略)そのとき「アジャパー」というコトバが全国を席巻していたが、あるとき,教室で何の気なしにこのコトバが口をついて出、数人が笑った。途端に、ぼくは他人を笑わせることの快感にしびれてしまい、それからは、はやりコトバをいちはやく蒐集し、それを連発するおどけもの(原文傍点)に転向していた。」(「わが言語世界の旅」、『パロディ志願』(中公文庫、1982年)、初出1972年)

※Ⅳ-「状況との齟齬感は、駅の階段に落ちている新聞紙を踏むとそこに載っている人に不幸が起る、手紙の宛名を何度たしかめても正確であるという自信が持てない、歩くときは電柱の本数をかぞえないと不安で前へ進めない、学校の図書館への煉瓦道のきまった煉瓦石を踏まぬと異常が起るような気がする、カトリック学生寮の小聖堂のマリア像がゆっくり動き、御自分から着衣を剥ぎ出すというイメエジがくりかえしくりかえし能裡に泛びあがるなとの強迫症状をぼくに植えつけた。もっとも手古擦った症状はそばを一本一本数えることで、数えないでたべると自分になにか不幸が訪れてくるような気がしてならない。(中略)吃音症がぶり返し、かつ悪化したことは、これまでに何度も書き、戯曲にもしたのでここでは省くが、七月初旬、夏休み前にはぼくはフォビアに対するフォビアという奇妙なところまで追いつめられていた。これは高所や閉所や広場や群衆や女性を怖がるだけでは足りず、さまざまな状況に恐怖を抱く自分に対して恐怖するという念の入った恐怖症である。自分で自分の視線がコントロールできなくなるのではないか、自分はひょっとしたら人前で性器を引っぱり出したりするのではなんか、味噌汁の入ったお椀を見ているうちにそのお椀が湖のように広く思われて来て自分はそこに飛び込んだりしないかなどなど、自分をおそれはじめたら恐怖の種は無尽蔵だ。」(「恐怖症者の自己形成史」、『さまざまな自画像』(中央公論社、1979年))


※68-「よく出来たコトバ遊びは、人をずいぶんしあわせにすることは確か」(井上ひさし「喜劇は権威を笑う」、『パロディ志願』(中公文庫、1982)収録、初出1971年)

※69-「この作品のおかしさと、自分の心のこわばりの滑稽さ、それが笑えて笑えて仕方がないのです。笑いがとまったとき、ぼくは自分の身体が軽く、やわらかくなっているのに気づきました。コトバで他人に笑われるのが恥かしい、屋台の息子だから肩身がせまい。他人の目にはつまらない男に見えるだろうけど、それが辛い。そういう屈託がいっぺんで吹っ飛んでしまったみたいでした。ここに馬鹿々々しいムダな作品がある。しかし、その馬鹿馬鹿しい作品が、自分の心と身体のこわばりを、ちょうど臓物をほぐすお湯のように、やわらかくしてくれた。とすれば、馬鹿なもの、ムダなことにも値打ちがあるのだ。だから、自分もそんなに立派な人間になろうとしなくてもいいのではないか。」(「わたしのとっての戯作」、『パロディ志願』(中公文庫、1982)収録)、「言葉に縛られて万事内向きになっている自分とは、なんてケチでアホでつまらない存在なのだろう。ここに言葉を自在に使いこなして笑いを爆発させた人たちがいるではないか。言葉に縛られていてはだめだ。この人たちに倣おう。 このときの私は、自分を圧し潰そうとする言葉を、逆にこちらから迎え撃つ視座を手に入れて、言葉を使いこなす物書きへの第一歩を踏み出していたのではないかとおもいます。」(井上ひさし「著者から読者へ わかれ道」、『京伝店の烟草入れ 井上ひさし江戸小説集』(講談社文芸文庫、2009年)所収)

※70-井上「何でしたかぼく忘れましたが、「ウサギ」を二つに切ったら「ウ」と「サギ」になったという黄表紙がありますね。」松田「ええ、『親敵討也腹鼓』(管理人注・原文ママ)でしたか。」井上「ああいう黄表紙は、「ウサギ」をふたつに切ると「ウ」と「サギ」になるという一種の地口のようなものに寄りかかって話が作られているわけですね。書く、という作業が、一個のゴロ合せの上に辛うじて立っているというのは松田さんがおっしゃるように、かなりつらかったと思います。書いた人の心中を察すると他人事とはとても思えない。」松田「ストーリーはなんら本質的ではない。「ウ」と「サギ」だけで──。」井上「ええ、それだけが最後のねらいどころでずうっと書いていくというのはずいぶんつらかったろうと思います。 戯作というのは言葉をよりどころにせざるをえなくなって追い詰められていくとかなりわびしいものだろうという気がするのですけどね。」(井上ひさし・松田修「戯作の可能性」、『笑談笑発 井上ひさし対談集』(講談社文庫、1978年)、初出1973年)

※71-井上ひさし・遠藤周作「神とユーモア」、『笑談笑発 井上ひさし対談集』(講談社文庫、1978年)、初出1974年)

※72-「わたしは、自分で言うのもおかしいが、気が弱く臆病である。いつも、他人の顔色を窺って汲汲としている。それは対談のときなどに恥しいぐらいよく出る。他人の意見に対して反駁できない。すぐ「なるほど」と迎合してしまう。したがってわたしの出席した対談は例外なくいわゆる《異議なし対談》になってしまうのだ。おもしろくもなんともない。」(井上ひさし「さよならとグッドバイ」、『続家庭口論』(中公文庫、1976年)収録)

※73-「この『天保十二年のシェイクスピア』あたりを境に、以後、作者はこうした破目をはずしたことば遊びの奔流を次第に抑制し、主題と表現の釣り合いのとれた成熟した作風へと移行していったということである。作者がそのように作風を変化させていった事情については、たとえば『天保十二年・・・・』の執筆時に近い時点でおこなわれた国文学者松田修との対談での発言がひとつのヒントを与えるかもしれない(学燈社刊『國文学』一九七三年十二月号。講談社文庫『笑談笑発──井上ひさし対談集』所収)。 この対談で作者は、音の組み合わせに狂奔する戯作者のことば遊びに触れ、「せんじ詰めていくと戯作というのは音の問題になっていく」が、そこに今はどうしようもなく「わびしさ」を感じるとして、次のように語る。「戯作者の哀しさというのは、たったひとりで必死になってこんな役にも立たぬことをしているけれども、はたしてこんなことをしていていいだろうかという問いかけがどっかでいつも聞こえてくる。(中略)世の中に背を向けて頭の中を言葉でいっぱいにして、それをつかんだり、ひっくり返したり、ねじまげたりしながら、飯にありつくことに対するうしろめたさ。辞書をたくさん買い込んで、朝から夜中までパラパラッとやっていることのむなしさ。」「(『ノンセンス大全』書評での発言を引いて)つまり、作者は「観客の反感を買うか」、「狂人世界」に突入するかのどちらかに収斂するしかないことば遊びの果てを見越して、その手前で立ち止まり、徐々に作風を変化させていったのだと言えるだろう。以後、井上戯曲には社会的なひろがりのある主題が多く登場するようになり、元来この作家にそなわっていた警世家の面がさらにはっきりと打ち出されてくる。」(扇田昭彦「解説」、『井上ひさし全芝居 その二』(新潮社、1984年)所収)。

※74-「浅草には〈コトバによる笑いを武器としたコメディアンはけっして大成することはない〉というテーゼがある。事実そのとおりで、このことはコトバ遊びを飯の種にするわたしなどにも当てはまるように思われるのだが、それはなぜか。便宜上、コトバ遊びを地口、語呂合わせ、駄洒落などに限定すると、これらの〈笑わせるための工夫〉は、いつにかかって「意味ではなく音が似通った単語への置きかえ」(本書三三頁)にある。したがって、コトバ遊びを職業としている者たちはコトバを音だけで考えるようになっていく。ちがう言い方をすれば、社会的に合意された記号の体系としてのラングへ果敢な反抗を続けるわけである。この反抗は当初のうちはたいそう効果的でお客は手もなく笑い転げてくれるが、そのうちコトバの遊び人たちが個人的運用としてのパロールに至上権を与えすぎると、反感を抱きはじめる。コトバの遊び人たちがここで立ち止まれば救われるのだが、職業としている以上はそうはいかぬ。どんどん先へ進む。かくして彼らの、意味を失ったコトバは「秘教的な念誦言語、あるいはいわゆる《グロッソラリー》(異言伝授、霊媒や意味不明者が発する言葉)」(三二頁)へと限りなく接近していき、ついには狂人言語に衝突し、そこに吸収されてしまう。つまり職業的コトバ遊び人の精進は、やがて観客の反感を買うか、狂人世界への通行券を手に入れるか、このどちらかにしか行き先がない」(井上ひさし「高橋康也『ノンセンス大全』」、『風景はなみだにゆすれ』(中央公論社、1989年(初版1979年))収録。初出1977年)

※75-井上ひさし・松田修「戯作の可能性」(『笑談笑発 井上ひさし対談集』(講談社文庫、1978年)、初出1973年)

※76-「まずできうるかぎり頭を低くし、潮垂れた格好で新しい世界へ入って行き、明かな落伍者、異分子として振る舞いながらそこの人たちを安心させておく。それから慎重にその世界のここかしこに当りをつけておき、足がかりを得たらそろそろと頭を擡げ、「おや、あいつはなにものかだね」と認めさせる。もっと簡単にいえば、哀れっぽくはじめて途中で居直る。これは国民学校の、冬の体操時間におぼえた手口だが、それが敗戦のときの「世の中に絶対はない、世界はすべての両極を含む。つまり世の中ってわからないものなんだなあ」という感想で磨かれて、わたしの、世界への対処法となった。世の中はどうなるかわからない、だから低い姿勢でいよう。安心だと見究めがついたら、その分だけ頭を擡げよう、というわけだ。これに鷹山公の遺した倹約を加えると、もうそっくりいまのわたしができあがる。天皇の日本語に衝撃を受け、すぐその後の、ことばを貯め込む時期に各地を転々としたせいもあって、ことばを客体として扱う術も知らないうちに身についた。さらに詐話癖もある。哀れな恰好で新しい世界に入って行くためには自分をより貧しく、より可哀想に身づくろいしなければならず、そこで小さな嘘を並べて鎧う。それがわたしの詐話癖の中味なのであるが、それはとにかく、「ひろがる世界、さまざまな言葉」などと鹿爪らしい題のもとに、鹿爪らしくあれこれ書き綴ってきたものの、自己形成(自己発達)の跡などどこにもない。見えるのは自己防衛(自己虚飾)の跡ばかりではないか。」(井上ひさし「ひろがる世界、さまざまな言葉」、『聖母の道化師』(中公文庫、1984年)収録)

※77-「井上ひさしの劇世界は、根本的には、ブラック・ユーモアの世界と大きく重なりあわない。黒い笑いを心から楽しむには、この劇作家はあまりに人間を愛しすぎ、心配しすぎているところがある。(中略)にもかかわらず、驚くほどの多面性と、人間を世界の中心とは見ない喜劇的視点を持ち、グロテスク趣味をもそなえた井上ひさしには、黒い笑いの秀作といえる作品がいくつかある。」(扇田昭彦「黒い笑いへの傾き」、『世界は喜劇に傾斜する』(沖積社、1985年)収録、初出1980年)


※Ⅴ-「井上ひさしは、この『藪原検校』において突然変異したのだろうか。人々をかろやかで上機嫌な笑いに誘った抱腹絶倒喜劇の才人作家、心やさしいほのぼの『ムーミン』の作詞者、「武器をとりなさい/明日を美しくしたいなら」(『表裏源内蛙合戦』)と歌った反体制的アジテーターは突如、ペシミストに変貌したのだろうか。 そうではあるまいと私は思う。井上ひさしは一貫して井上ひさしでありつづけてきた。ただし彼は、これまで作中においてはほとんど全面的な自己表白をしないまれな作家の一人だったのだ。なぜなら、その道化的資質からいって、井上ひさしは多極的に分裂した作家だからであり、これまで彼の劇中にあらわれた「思想」的部分も、たいていは彼の一面をあらわすにすぎない。『表裏源内蛙合戦』で「美しい明日を/みんなは持っているか」と歌いながら、その半面で、「美しい明日」の到来に人一倍疑問を持っていたのは作者だったはずである。(中略)心の底には神による救済をひそませつつも、井上ひさしの内部には、同時に、空漠感がひろがり、黒い炎が燃えあがる。 だからこそ、彼は駄洒落・地口・語呂合わせで埋めつくした一種華麗な文体の鎧をまとった。極度に肥大した細部で全体をおおいつくすマニエリスムの演劇を書きつづけた。」(扇田昭彦「黒い志向見せた凄惨な傑作」、『現代演劇の航海』(リブロポート、1988年)収録、初出1973年)

※Ⅵ-「かつて、「井上ひさしにおける「暗さ」」と題する一文において、川本三郎が次のように評したことがある。 井上ひさしといえば通常、その「笑い」「軽み」「喜劇的精神」あるいは「肯定性」「ヒューマニズム」といった、要するに井上ひさしにおける「明」の部分において語られることが多い。(中略)しかし、この作家には実はそうした明るい一面とまったく逆な「暗」の側面がある。性善説を信じている井上ひさしのすぐ裏にはしたたかに性悪説を主張している井上ひさしがいる。ヒューマンな協調・連帯を描く井上ひさしのすぐ隣りでは、出し抜け、密告の現実を冷徹に見ている険しい顔の井上ひさしがいる。幇間よろしく世間様のあちこちにサービスにつとめている井上ひさしのすぐ横には世間に対して反吐を吐いているもうひとりの井上ひさしがいる。それは「面白い」井上ひさしに対して「怖い」井上ひさしである。「やさしい」井上ひさしに対して「きびしい」井上ひさしである。 (中略)井上のひょうきんやおどけ(原文傍点)は東北各地を転々とした他所者の自己防衛の策、ときに養護施設に受け入れられるための保身の術であったのかもしれない。道化の顔の背後には、置かれた境遇への反発や上昇志向、社会への批判を通り越して、復讐を夢想する少年が棲んでいる。(中略)「ヒューマンな協調・連帯」を説きつつ、エゴイズムで支配されつくされた現実を見ている作家。その「笑い」の背後には、世間に向けた険しい視線が隠れている。将来に希望を持ちたいが、世間を決して信用はしない姿である。」(秋葉裕一「藪原検校─ブレヒト受容の視点から」、日本近代演劇史研究会『井上ひさしの演劇』(翰林書房、2012年)収録。太線部分は引用箇所) ちなみにその「井上ひさしにおける「暗さ」」は「井上ひさしの「暗」は、結局のところ、“業”として「言葉」に憑かれてしまった人間が、まっとうな人間たちのあいだを生きるときにすれちがいざまにきしむ(原文傍点)、その、負い目と矜持が両極端にひっぱり合うアンバランスなうめき声が生むものである。「言葉」に憑かれてしまった“極道者”には、血の匂いと死臭しか行手にないのである。」(川本三郎「井上ひさしにおける「暗さ」」、『同時代を生きる「気分」』(講談社、1986年)収録)と評している。

※Ⅶ-井上さんは『宮澤賢治に聞く』の中で、詩人で宮澤賢治研究家の天沢退二郎の「少年時代から早くもしのび寄っていた“人間嫌い”が、《宮澤賢治》のあの伝説的な愛情深さと表裏をなしていたのではないか・・・・・・ そう考えると、賢治の書きのこしたものにみなぎる深さとユーモアの共存の源も、わかるような気がしてこないだろうか?」という言葉を引きつつ「天沢さんは、人間嫌いのあなただったからこそ、あれほど深く人間を愛することもできたのだとおっしゃっているわけです。」と賢治に問いかけている。(『宮澤賢治に聞く』(宮澤賢治への架空インタビュー)、井上ひさし・こまつ座編著『宮澤賢治に聞く』(文春文庫、2002年)収録)この〈人間嫌いだからこそかえって深く人間を愛することができた〉という賢治評は井上さん自身にも多分にあてはまるのではないか。