ぎょうりやま

かいちょうさんの日記

さくら

2017年04月06日 | 日記

昨年の春
我が家の傍に咲いた桜

明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは

親鸞上人が詠った詩であり
教祖の教えではない

教祖の教えに仇桜は無い

新しい芽の吹く旬
新しい人生のスタート

はかなく散り行く花びら
それは諸行無常ではなく
お祝いの花吹雪である^^
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成人講座原稿

2017年04月06日 | 日記
今日は親神様の十全の守護について学ばせて頂きましたが、その十全の守護の一つ一つに神名を付けられた事にはとても重要な意味があると思います。とても大事な事であるからこそ、神名を付けて教えられたのではないでしょうか。この講座の最後にその意味について考えてみたいと思います。

 さて、皆さんの中で、下痢の経験した事の無い人はおりますか。どんなに胃腸の丈夫な人でも一度や二度は経験があると負います。下痢になると大変ですよね。食べるとすぐに出てします。蒸気機関車じゃありませんが、ピーと出てしまう訳です。出てしまうだけじゃ済まない。出口がヒリヒリと痛くなる。こうなるともう地獄の苦しみです。今はウオシュレットや柔らかいトイレットペーパーがありますので、大分便利になりましたが、下痢が続くと、やはり出口が大問題となると思います。トイレの中だけではなく、普段の生活の中でも出口が問題となりますね。我慢が出来なくなった時の事を考えてみてください。具体的な事はご想像にお任せいたします。

実は昨年の年末年始にかけて二週間程ですが、消化不良で下痢が続き、食欲が全く無く、食べても味のしない日々が続きました。教会ですから年末には正月料理を準備します。元旦祭に参拝に来られる信者さんに喜んで頂こうと、妻がお節料理を準備します。お雑煮用として餅を付きます。また福島県の郷土料理のイカ人参、そして妻の正月料理の定番である筑前煮も作ります。その他金平ゴボウや大根料理なども作り、参拝者に振る舞われる訳です。例年ですと、当然の事ながら私も一緒に御馳走になるのですが今年の正月はほとんど食べずに過ごしました。食べないと体が持ちませんから、少しは食べますが、味は全くしません。このままではいけないと思い、どうにかして治そうと、正露丸やパンシロンといった薬に頼ったり、また梅エキスを飲んだりしましたが、全く良くなりません。消化剤だと言われている大根おろしをオカズ代わりに食事をしましたが、効果はゼロでした。このままでは体がどうにかなってしまうのではないかと心配になりました。病の元は心からとお聞かせ頂いておりますから、どんな心使いが悪かったのかといろいろと思案もさせて頂きました。しかし、なかなか心に悟ることは出来ませんでした。いよいよとなったら病院へ行こうかと覚悟を決めた頃なんですが、胃腸の働きが元に戻ったのです。

さて、皆さんここで「めでたしめでたし」で話が終る訳ではありません。実はこの時、今まで気が付かなかった重大な事に気が付いたのです。それは、食べるという事がこんなに楽しいものなのかという事に気が付いたのです。食べ物の美味しさが百倍になりました。決して大袈裟な表現ではありません。何を食べても美味しい。食事が楽しみで楽しみで待ち遠しくて待ち遠しくて……食べるという事が陽気ぐらしには欠かせない事なのだと気が付きました。消化不良を通して親神様の十全の守護をシッカリと心に刻みつける事が出来ました。消化不良と下痢、食べ物の味が分からない、体に力が入らない、… 神名を付けて教えられた十全の守護の本当の意味を、神様は私に教えたかったのかもしれません。

ちなみに、この飲み食い出入りの守護に授けられた神名は何でしょうか。……そうですね、これは「くもよみのみこと」です。この御守護が欠けたら大変な事になります。今回の経験を通して、陽気ぐらしには欠かせないとても大事な御守護である事が心に治まりました。

話は変わりますが、実は私は生まれつきですが、左足の股関節に問題があり生後数か月でギブスをすることになったそうです。ギブスをはめられて、私は身動きが出来なくなり、火のついたように泣いたそうです。母が我が子のそんな姿を見ていられなくなり、すべては神様にお任せするという事で、ギブスを外してしまい、それっきり病院には行きませんでした。私はカエルのように畳に体を引っ付けていたそうです。しかし神様の御守護でだんだんと歩けるようになり、小学校へも歩いて行くことが出来るようになりました。でも、股関節に痛みがあり、学校の運動会での駆けっこではいつも一番ビリでした。そんな私でしたが、だんだんと痛みも無くなり、中学校では卓球部の部長を務める事が出来るようにまでなりました。この頃から健常者となんの変りもなく過ごす事が出来るようになったと思います。しかし五十歳を過ぎるとまた、少しづつ痛み出し、日常生活には何の支障もないのですが、少し疲れると痛みを感じるようになっていました。そしてもう一生治らないと半ば諦めていた頃、天理教修養科の一期講師の話があり、不安で一杯でしたが、引き受けさせて頂きました。

身上は神様からのメッセージである。言葉を持たない神様が、人間に何かを伝えたい。そんな時は身上に知らせて教えようとされるのだと教えられていますね。この足の痛みがなければもっと一期講師の仕事に打ち込めるのに…と思った事が何度もありました。足を病んだ事のある人なら誰もが知っていますが、何もしたくなくなります。何かをやろうとして動き出すと、ズキンと痛みがきます。そうなるとやる気が萎えてしまいます。それを我慢して動くわけですから、十分な事は出来ないわけです。神様は何を私い求めておられるのか?なにをお詫びすれば良いのか?思案に暮れた時もままあります。でも何かを悟るという事は出来ませんでした。そして毎朝痛み止めを飲んでからの出勤となりました、そして三ケ月間勤め終える事が出来ました。
不思議な事ですが、一期講師を終え教会へ帰ると、足の痛みが消えていました。どの瞬間に消えたのかはハッキリとは分かりませんが、痛みが無くなっていました。治ってみると、足に痛みある時の数倍の動きが出来るようになりました。疲れも激減しました。本当に不思議な事です。痛みが無く普通に歩ける事がいかにすばらしい事か、良く分かりました。

 私は天理教の会長として親神様の教えを説かなければならない立場にあります。その私がかしもの・かりものの理や十全の守護をシッカリと分かっていなければ信者さんに教える事など不可能です。そんな私にはなくてはならない経験だったのだと思います。
そこに親神様の親心が込められていたのだと思います。

 消化不良と足の身上の話をいたしましたが、親神様の十全の守護には、それぞれの守護の姿を通して「心使い」というものを悟る事ができると思います。テキストを見てください。消化不良は「くもよみのみこと」の守護が十分に頂けなかった為でありますし、足の身上は「月よみのみこと」の守護が頂けなかった為だと申す事ができるでしょう。「くもよみのみこと」の守護は「天からの与えを素直に喜んで受け止める心」とありますが、確かに年末年始の忙しい仕事を天の与えとして素直に喜んで受け止める事ができなかったからだと悟る事が出来るかもしれません。また、「月よみのみこと」の守護に添う心使いの中に「何事も率先して立ち働き」「人を手伝い」「人を背負って通る」心とありますが、修養科生の担任として勤めた三か月は、この心使いを自然とできていたのであり、それを神様が受け取って下さってご守護くだされたのだと悟る事が出来るかもしれません。

 私たち人間の身上は親神様からのかりものであり、また十全の守護をもってお守り下されています。病気になれば、この事が良く理解されます。ですから病気は決して悪い事ではなく、親神様の親心を感じる良い機会であることがわかります。また、病気すなわち身上には、私たち人間への何らかの親神様からのメッセージが込められており、身上は私たちの心の置き所を悟る良い機会となることが理解されたと思います。どうか、今日学んだ事をこれからの生活に生かしてお通り下さいます事をお願いいたしまして今日のお役目を終えさせて頂きます。 ありがとうございました。
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