ぎょうりやま

かいちょうさんの日記

大難が小難

2017年04月23日 | 日記
一昨日の夕刻
信者さんの娘さんが交通事故に逢った
高校2年生である

時速50キロの車に跳ねられた
自転車で横断歩道を横切った時だ
ブレーキをかけた跡は無い

ボンネットに跳ね上げられ
フロントガラスにぶつかり
20メートル先に落ちた

片側一車線の対面通行の道路だ
もし反対車線に落ちていれば
対向車に跳ねられていたかもしれない
大事故である

だが
左足の膝下を骨折しただけで
後は無事であった
警察も奇跡だと言った

落ちた場所が草ムラだったからであろう
フロントガラスがクッションとなったのかもしれない

この信者さん
この節を通して心を定めをして下さった

月次祭には、必ずおつとめ奉仕者として参拝させて頂きます
いままでは祭典に遅れて来る事が良くあったからである

大難が小難
日参の理を神様が受け取って下さったのだと思う
そして、さらなる成人を急き込まれたのだと思う






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明鏡止水

2017年04月20日 | 日記
教祖誕生祭の帰り道
某温泉地で一泊
夜の宴会場
その壁に掲げられた掛け軸
「明鏡止水」の墨書

「明鏡」は 一点の曇りもない鏡
「止水」は止まって、静かにたたえている水

心に一点の曇りもない
それがいわば自然体である状

私たちの信仰も
そんな境地でありたいと思う

我が教会には相応しい掛け軸だったと思う^^
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最後の砦

2017年04月12日 | 日記
先ほど講社祭から帰省した

97歳の老婆と二人

開扉
献饌
祭文奏上
座り勤め
よろづよ八首
四下り目
お話
閉扉

ささやかな直会

この老婆が出直せば
この村から
おつとめの歌声が消えてしまう
この老婆こそ
この村の
最後の砦だ(汗)!

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旅立ちの春

2017年04月12日 | 日記
3人のお子供達が巣立って行く
それぞれの道へ
これで「めでたしめでたし」である

だが、寂しくなった
かつて11人居た教会
今や3人しか居ない

子供との直接の関わりがなくなる
手が空く
暇が出来る

神様の御用に没頭できる

親孝行な子供
それは、自立出来た子供だと思う

いつまでも自立しない
世間では穀潰しという言葉もある

いつまでも自立出来ない
結婚してもいつ離婚するか分からない

親に心配をかける
これが一番の親不孝である

自立
夫婦仲良し

これが一番の親孝行^^

物・金の親孝行はそれが出来てからの話である
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引き寄せられた魂…関根豊松語録

2017年04月10日 | 日記
このお道は、自分で聞いて、自分で信仰しているのではありません。神さまが引き寄せておられるのです。
……
ですから皆さんも、こうしてここに集まっておられますが、これは誰がどうしたんじゃないんです。もう自分の魂がどうしても道を聞かなくちゃならなくなってくると、存命の教祖がこの道にお引き寄せくださるのです。
……
自分で話を聞いているように思っておりますが、自分で聞いているんじゃない。聞かされているのです。
……
これは自分でやっているんじゃない。……神様が私を使っておいでになる。神様に使われている。……
……
この事がはっきりと分かってくると、さあ、行く道は、どう行くも、こう行くもありません。神さまがちゃんと通る道をつけてくれます。それを確り通っておったら何も困ることはありません。もし困ることが出来てきたら、どうしたんだろうと言えば、お道の精神が心から消えているのです。形だけは信仰しておりますが、形だけで、腹の中に信仰がございません。そうなると必ず困りごとが出てきます。ちゃんと通れなくなってしまう。
……
さあ、そこで皆さんも良く考えてごらんなさい。これは自分で聞くんじゃない。みんながここへ来るのは神様が引き寄せて、そうして教えてくださっているのです。ですからその理を軽くしてはいけません。その理を重んじて、これから先、心に置いて、しっかりと通させてもらう。
……
自分が聞いているんじゃない。人間が説いているのでもない。神様が聞かして下さっているんです。人間を道具に使って、神様が手引きして教えて下さっているんです。自分がしているのではなく、神様がしているんですから、これはやり切ることが肝心なんです。この理をよく皆さん方、覚えておきなさい。自分で聞いたんじゃない。神様が、魂を拵えた順番で引き寄せておられるのです。ですからこれなくては行くにいかれません。聞かせて頂いたら、本当にそれを信じて、信じ切れるまでやり切って行く心が必要でございますから、固く申し上げておきます。これを簡単に聞いて、いい加減な事をしておいでになりますと、道を聞いて、誠にお気の毒なことがでてきます。救かる道が救からない道になってしまいます。それは理を軽くしておいでになるから、そういうことが起きてくるんです。救かったら、それでお終りではないのです。救かれば救かるほど、自分に厳しくして行かなければなりません。そこが信仰です。信仰とは救かれば良いというものではありません。そこで自分を許してしまうのは信仰ではありません。信仰というものは断じて自分を甘やかす事無く、命の限り教えを守り抜いて行く、これが信仰の根本でございます。しっかりと皆さんもお聞きになり、そうして自分が救かったからいいのではなく、家庭が確り救からなくちゃいけません。家庭が救かるのには、人を救ける道がなかったら、家庭は救かりません。
……
ですからお道というものは、真実に人を救ける心が信仰というのでございます。手を合わして拝むのが信仰じゃございません。人を救ける心になるのが信仰という精神である。その道を正く通させてもらうのが信仰というのでございます。
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さくら

2017年04月06日 | 日記

昨年の春
我が家の傍に咲いた桜

明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは

親鸞上人が詠った詩であり
教祖の教えではない

教祖の教えに仇桜は無い

新しい芽の吹く旬
新しい人生のスタート

はかなく散り行く花びら
それは諸行無常ではなく
お祝いの花吹雪である^^
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成人講座原稿

2017年04月06日 | 日記
今日は親神様の十全の守護について学ばせて頂きましたが、その十全の守護の一つ一つに神名を付けられた事にはとても重要な意味があると思います。とても大事な事であるからこそ、神名を付けて教えられたのではないでしょうか。この講座の最後にその意味について考えてみたいと思います。

 さて、皆さんの中で、下痢の経験した事の無い人はおりますか。どんなに胃腸の丈夫な人でも一度や二度は経験があると負います。下痢になると大変ですよね。食べるとすぐに出てします。蒸気機関車じゃありませんが、ピーと出てしまう訳です。出てしまうだけじゃ済まない。出口がヒリヒリと痛くなる。こうなるともう地獄の苦しみです。今はウオシュレットや柔らかいトイレットペーパーがありますので、大分便利になりましたが、下痢が続くと、やはり出口が大問題となると思います。トイレの中だけではなく、普段の生活の中でも出口が問題となりますね。我慢が出来なくなった時の事を考えてみてください。具体的な事はご想像にお任せいたします。

実は昨年の年末年始にかけて二週間程ですが、消化不良で下痢が続き、食欲が全く無く、食べても味のしない日々が続きました。教会ですから年末には正月料理を準備します。元旦祭に参拝に来られる信者さんに喜んで頂こうと、妻がお節料理を準備します。お雑煮用として餅を付きます。また福島県の郷土料理のイカ人参、そして妻の正月料理の定番である筑前煮も作ります。その他金平ゴボウや大根料理なども作り、参拝者に振る舞われる訳です。例年ですと、当然の事ながら私も一緒に御馳走になるのですが今年の正月はほとんど食べずに過ごしました。食べないと体が持ちませんから、少しは食べますが、味は全くしません。このままではいけないと思い、どうにかして治そうと、正露丸やパンシロンといった薬に頼ったり、また梅エキスを飲んだりしましたが、全く良くなりません。消化剤だと言われている大根おろしをオカズ代わりに食事をしましたが、効果はゼロでした。このままでは体がどうにかなってしまうのではないかと心配になりました。病の元は心からとお聞かせ頂いておりますから、どんな心使いが悪かったのかといろいろと思案もさせて頂きました。しかし、なかなか心に悟ることは出来ませんでした。いよいよとなったら病院へ行こうかと覚悟を決めた頃なんですが、胃腸の働きが元に戻ったのです。

さて、皆さんここで「めでたしめでたし」で話が終る訳ではありません。実はこの時、今まで気が付かなかった重大な事に気が付いたのです。それは、食べるという事がこんなに楽しいものなのかという事に気が付いたのです。食べ物の美味しさが百倍になりました。決して大袈裟な表現ではありません。何を食べても美味しい。食事が楽しみで楽しみで待ち遠しくて待ち遠しくて……食べるという事が陽気ぐらしには欠かせない事なのだと気が付きました。消化不良を通して親神様の十全の守護をシッカリと心に刻みつける事が出来ました。消化不良と下痢、食べ物の味が分からない、体に力が入らない、… 神名を付けて教えられた十全の守護の本当の意味を、神様は私に教えたかったのかもしれません。

ちなみに、この飲み食い出入りの守護に授けられた神名は何でしょうか。……そうですね、これは「くもよみのみこと」です。この御守護が欠けたら大変な事になります。今回の経験を通して、陽気ぐらしには欠かせないとても大事な御守護である事が心に治まりました。

話は変わりますが、実は私は生まれつきですが、左足の股関節に問題があり生後数か月でギブスをすることになったそうです。ギブスをはめられて、私は身動きが出来なくなり、火のついたように泣いたそうです。母が我が子のそんな姿を見ていられなくなり、すべては神様にお任せするという事で、ギブスを外してしまい、それっきり病院には行きませんでした。私はカエルのように畳に体を引っ付けていたそうです。しかし神様の御守護でだんだんと歩けるようになり、小学校へも歩いて行くことが出来るようになりました。でも、股関節に痛みがあり、学校の運動会での駆けっこではいつも一番ビリでした。そんな私でしたが、だんだんと痛みも無くなり、中学校では卓球部の部長を務める事が出来るようにまでなりました。この頃から健常者となんの変りもなく過ごす事が出来るようになったと思います。しかし五十歳を過ぎるとまた、少しづつ痛み出し、日常生活には何の支障もないのですが、少し疲れると痛みを感じるようになっていました。そしてもう一生治らないと半ば諦めていた頃、天理教修養科の一期講師の話があり、不安で一杯でしたが、引き受けさせて頂きました。

身上は神様からのメッセージである。言葉を持たない神様が、人間に何かを伝えたい。そんな時は身上に知らせて教えようとされるのだと教えられていますね。この足の痛みがなければもっと一期講師の仕事に打ち込めるのに…と思った事が何度もありました。足を病んだ事のある人なら誰もが知っていますが、何もしたくなくなります。何かをやろうとして動き出すと、ズキンと痛みがきます。そうなるとやる気が萎えてしまいます。それを我慢して動くわけですから、十分な事は出来ないわけです。神様は何を私い求めておられるのか?なにをお詫びすれば良いのか?思案に暮れた時もままあります。でも何かを悟るという事は出来ませんでした。そして毎朝痛み止めを飲んでからの出勤となりました、そして三ケ月間勤め終える事が出来ました。
不思議な事ですが、一期講師を終え教会へ帰ると、足の痛みが消えていました。どの瞬間に消えたのかはハッキリとは分かりませんが、痛みが無くなっていました。治ってみると、足に痛みある時の数倍の動きが出来るようになりました。疲れも激減しました。本当に不思議な事です。痛みが無く普通に歩ける事がいかにすばらしい事か、良く分かりました。

 私は天理教の会長として親神様の教えを説かなければならない立場にあります。その私がかしもの・かりものの理や十全の守護をシッカリと分かっていなければ信者さんに教える事など不可能です。そんな私にはなくてはならない経験だったのだと思います。
そこに親神様の親心が込められていたのだと思います。

 消化不良と足の身上の話をいたしましたが、親神様の十全の守護には、それぞれの守護の姿を通して「心使い」というものを悟る事ができると思います。テキストを見てください。消化不良は「くもよみのみこと」の守護が十分に頂けなかった為でありますし、足の身上は「月よみのみこと」の守護が頂けなかった為だと申す事ができるでしょう。「くもよみのみこと」の守護は「天からの与えを素直に喜んで受け止める心」とありますが、確かに年末年始の忙しい仕事を天の与えとして素直に喜んで受け止める事ができなかったからだと悟る事が出来るかもしれません。また、「月よみのみこと」の守護に添う心使いの中に「何事も率先して立ち働き」「人を手伝い」「人を背負って通る」心とありますが、修養科生の担任として勤めた三か月は、この心使いを自然とできていたのであり、それを神様が受け取って下さってご守護くだされたのだと悟る事が出来るかもしれません。

 私たち人間の身上は親神様からのかりものであり、また十全の守護をもってお守り下されています。病気になれば、この事が良く理解されます。ですから病気は決して悪い事ではなく、親神様の親心を感じる良い機会であることがわかります。また、病気すなわち身上には、私たち人間への何らかの親神様からのメッセージが込められており、身上は私たちの心の置き所を悟る良い機会となることが理解されたと思います。どうか、今日学んだ事をこれからの生活に生かしてお通り下さいます事をお願いいたしまして今日のお役目を終えさせて頂きます。 ありがとうございました。
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変わらぬものとは

2017年04月01日 | 日記
信者さんが高齢化する
一人いなくなる
また、一人いなくなる

若い世代の丹精が行き届かない
若い世代が道につかない

教会に人が居なくなる
月次祭を会長家族だけで勤める
この先、どうなってしまうのだろう
不安が心をよぎる

だが、良く思案すれば
所詮、万分の一として始まった道

天理教会と言うて、国々所々印を下ろしたる。年限経つばかりでは楽しみ無いから、一時道を始め付けたる。神一条の道からは、万分の一の道を付けたのやで……明治30年7月14日「おさしづ」

眼前の姿に捉われていては真の活路は見いだせない
神の道はいついかなる時も不変不動の道

教会の再生と神の道とは別問題

変わらぬものとは

神の道
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信仰しているのに?

2017年03月30日 | 日記
信仰しているのに…
と言われる時がある

それには様々な意味があると思うが
ここで一つ思案してみる

運転免許証を持っている
自動車学校へ通い
教官の指導を受け
テストをクリア
そこで免許取得となる

だが、免許を持っていても
交通ルールを守らないドライバーがいる
事故が起きる
それは当たり前の事だ

これと同じ事が信仰生活にも当てはまると思う
教えを学ぶ
しかし、それを身に行わない
御守護は頂けない
何の信仰なのか分からなくなる

ルールをシッカリと守る
そこに本当のご守護が見えてくる

ただ教会へ行けば良いというものではない
月次祭に行っていれば良しというものでもない
確りと教えを守る
そこに必ず神様の働きが見えてくる^^
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縺れた糸

2017年03月27日 | 日記
ここに縺れた糸がある
ほどいて一本の糸にしたい
さて、どこから手を付ければ良いのか?
間違えたら大変な事になる
ほどくどころか、益々縺れてしまい
ゴチャゴチャなり
にっちもさっちも行かなくなる

おたすけも同じだ
どこから手を付けるかが重要である

子供の身上や事情で困っているとする
親孝行から手を付けるのか
夫婦の問題から手を付けるのか
さてどちらが正しいのか

現状を眺めると
残念な結果が溢れていると思う

色眼鏡を外し
イドラを排し
正しい教えの定規で判断したいものである


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