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♯747 死に姿が語るもの

2017年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム


 厚生労働省が公表している「人口動態統計」によると、1950年代の初め頃まで、日本では全体の8割以上の人が自宅で亡くなっていたことが判ります。一方、その後は病院などの医療機関で亡くなる人の数が増え続け、2000年代に入るとその割合は逆転して約8割を占めるまでになっています。

 しかし、自宅での自然な最期を望む声は今も根強いとされ、実際、内閣府が2012年に55歳以上に行った調査では、(状況が許すのであれば)「自宅で最期を迎えたい」と回答した人が全体の半数を超えています。

 高齢化の急速な伸展を踏まえ、医療費の抑制を急ぐ政府は現在、24時間体制で往診する「在宅療養支援診療所」制度を設けるなど、自宅で終末期を過ごせる医療・介護体制の整備に力を入れています。

 しかし現実の日本の社会では、多くの高齢者は人生の終末期に、もはや病気の根治を目指さない、延命を目的とした治療を受けているのが実態です。しかもそうした治療の中には、患者に苦しい思いをさせるばかりで効果が薄い、「無駄な延命治療」が少なくないという指摘があります。

 少し前のことになりますが、「週刊現代」誌の2016年9月24日号に「カネにはなるが意味はない 現役医師200人に聞いた『本当は寿命を縮める』延命治療」と題する記事が掲載されていました。

 同誌は、医師200人に聞いた「無駄だと思う延命治療」のランキングを掲載しています。この順位を見ると、最も多くの医師が無駄だと思っている治療が、「胃瘻」「胃瘻造設」、特に「嚥下機能の落ちた認知症患者に胃瘻を造設する」などの胃瘻にかかわる延命治療であることが判ります。

 専門家によれば、胃瘻を造設すれば、当然味も何もしない経管栄養剤を毎日決まった時間に流し込まれるということです。これは「作業」であって、もはや食事とは言えない。寝たきりの認知症で胃瘻をしている高齢の患者さんなどを診ていると、生きる意味すら考えさせられてしまうということです。

 記事によれば、この手法が広く行われるようになったのは意外に最近で、1990年代も後半に入ってからだということです。

 現在では、全国の多くの医師が(患者の家族に対し)「胃瘻をつけないと死んでしまう」と説明し、本人の意思に関わらず胃瘻の造設を行っている。しかし、それが本当に当事者にとってありがたいものだったかは分からないと記事はしています。

 さらに記事は、胃瘻で生き続けるのには1人当たり年間約500万円かかり、その費用のほとんどを国が負担している実態を指摘しています。見かねた厚生労働省も動き出し、2014年の診療報酬改定で胃瘻手術の診療報酬は4割減らされたうえ、嚥下機能検査も条件づけられたということです。

 さて、こうして続けられる延命治療の結果、現代の日本人が(好むと好まざるとに関わらず)受け入れている「死に様」について、1月22日の読売新聞では、「死に姿で知る『生きる』」と題する、映画「おくりびと」のモデルとなった納棺師の青木新門氏へのインタビュー記事を掲載しています。

 記事によれば、青木氏は「遺体」を通して日本人の変化を感じてきたということです。そして特に、「死に姿」から教えられることも多いとインタビューに答えています。

 長い間、私たちは習慣として死を忌むべきものとし、日常生活から切り離して見えないようにしてきたが、本来、死は美化したり遠ざけたりするものではないと青木氏は考えています。

 実際、これまで出会ってきた多くの遺体は、それぞれに美しかったと氏は言います。正確に言えば、人々は死を通して生きていることのすばらしさを教えてくれた。人は、死から目をそらしては生きられない。ありのままの死に姿を見てきたことで、それに気付くことができたということです。

 さて、しかしいつの頃からか、ぶよぶよとした遺体が増えてきたと青木氏は昨今の状況を指摘しています。そして、そういう遺体は、延命治療を受けてきた方に多いことに気が付いたということです。

 そのような遺体に相対した時、死を受け入れず自然に逆らった結果のようにも感じられると青木氏は答えています。氏によれば、死期を悟って、死を受け入れたと思える人の遺体は、みな枯れ木のようで、そして柔らかな笑顔をしているということです。

 亡くなる直前まで自宅などそれぞれの居場所で、それまでと変わらぬ日々を過ごしてきた人の多くがそうだった。体や心が死ぬ時を知り、食べ物や水分を取らなくなり、そして死ぬ。それが自然な姿なのではないかと青木氏は説明しています。

 一方で、現在ではそういう「死に姿」は至って少なくなったと、氏は感じているということです。

 医師は一分一秒でも長く生かすことを使命だと思っているし、家族は少しでも長く生きるのが重要とばかりに「がんばって」と繰り返す。本人が死について思うことや気持ちは考えずに、生命維持に必要な機械のモニターばかり見つめている。死にゆく本人を見ず、声も聞いていないという指摘です。

 日本では、団塊の世代が後期高齢者となるこれから先の10~20年間、亡くなる方が激増する(人類史上でも類を見ない)「多死社会」を迎えることが確実視されています。

 いくら若々しい高齢者が増えたといっても、彼らもいつまでも若い頃と同じように飛び続けられるはずもない。青木氏は、着陸(=死)の準備は、誰もが50歳ぐらいで始めなければいけないと感じるとしています。

 そうした中、氏は、死に臨んで若い人の死生観、人生観を揺さぶるような姿を見せ、子や孫の心を育てることが、(われわれ)高齢者の大事な役目であり、仕事なのではないかとこのインタビューで問いかけています。

 死が(自然な形で普通に)あることこそが超高齢社会の良いところであり、われわれができる若い世代への最大の贈り物だと思うとする、納棺師としてたどり着いたこのインタビュー記事における青木氏の結論を、私も重く受け止めたところです。


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