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♯796 先の戦争への様々な視点

2017年05月17日 | 映画


 見逃していた話題のアニメーション映画「この世界の片隅に」を、ようやく観る機会を得ました。

 クラウドファンディングでの資金調達が実り、入念な歴史考証を含め約6年の歳月を費やして完成させた片渕須直監督によるこの作品。

 当初、全国の63館で細々と封切られましたが、話題の広がりとともに徐々に公開規模を拡大し、2017年1月22日時点での公開館数は198館、興行収入は15億円、動員数で130万人に達し、2016年の大ヒット作『君の名は。』を抑えて第40回日本アカデミー賞の最優秀賞アニメ賞に輝いています。

 片瀬監督はこの作品において、広島県の呉市に嫁いだばかりの女性を主人公に、第2次大戦の末期から終戦に至る日本の市井に暮らす人々の生活をそれこそ「淡々と」描き出しています。

 戦争という(ある意味彼女たちの意志とは関係のない)出来事が日々の生活に及ぼす様々な違和感や苦労を飲み込みながら、それでも畑を耕し、ご飯を炊いて、繕い物をしながら夫や子供を戦場に送り出す「銃後」の人たち。

 アニメーションで描かれた、爆撃に会い、愛する人を失い、また、自ら傷つきながらも(そうした「現実」を)一生懸命生きていこうとする彼女たちの姿に、「戦争」というものの持つ「非日常性」が改めて浮き彫りにされたような気がしました。

 「欲しがりません勝つまでは」…先の戦争に当たって多くの日本人は、戦争がもたらす様々な矛盾をまさに正面から体を張って、懸命に受け止めていったと言えるでしょう。

 「お国のため」「国を守る」という高揚感の中で若者を戦場に送り出し、夫や息子の戦地での死を淡々と受け入れる。目的のために犠牲をいとわないその姿は、もしかしたら後世の人たちに「美しい」と感じさせる(何らかの)気高さの様なものがあったかもしれません。

 しかしだからと言って、彼ら彼女らにそれを強いた「戦争」自体、決して美化されるべきものではないのは自明です。

 この作品には残酷な戦闘シーンなどはほとんど出てきませんが、戦争を所与のものとして受け入れて暮らす(戦下の)人々の日常を素朴な感覚で切り取り続けることで、(観る人に)戦争の持つ残酷さを逆に極めてリアルに伝えることに成功していると言えるでしょう。

 さて、暗い映画館の片隅で「この世界の片隅に」を見ているうちに、(3年ほど前の記事になりますが)2014年2月6日のNews week誌(日本版)に掲載されたていた、ジャーナリストの冷泉彰彦氏による「『永遠の0』の何が問題なのか?」と題するコラム記事を思い出しました。

 日本人の「戦争観」に迫った論評として記憶に残っていたので、備忘のためこの機会に改めて概要を紹介しておきたいと思います。

 冷泉氏はこの論評において、百田尚樹氏によるベストセラー「永遠の0」を、(小説、映画ともに)キャラクターの配置やストーリー展開などにおいて非常にレベルの高い作品として認める一方で、(この作品は)決定的な問題を抱えていると評しています。

 氏によれば、それは、いわゆる「特攻隊」に対する評価だということです。

 特攻というのは搭乗員の死を前提とした自暴自棄的な作戦であり、基本的に人道に反する行為と言わざるを得ません。なので、特攻作戦であるとか、レイテ戦以降の「全機特攻方針」などという軍の方針に関しては、最大限の非難と批判をされるべきだと冷泉氏はこの論評に記しています。

 中でも、大戦末期における特攻は「戦争を終わらせることができない」軍並びに政府の指導者の責任感不足、指導力不足のために継続されたとしか言いようがないということです。

 勿論、個々の特攻隊員が受けた苦痛への同情の念を否定するものではないと冷泉氏は説明しています。例えば実際に身内の中に特攻による犠牲者を出した家族の場合であるとか、特攻隊員の遺書や手記に触れたりした場合には、その個々の特攻隊員への強い畏敬の念を持つのは、(ある意味)当然だということです。

 冷泉氏は、実はここに重たいジレンマが生じるとしています。歴史的な評価としては全否定をしつつ、私的な心情としては個々の犠牲には畏敬の念を抱くというジレンマを背負わなくては、この問題に向き合うことはできないという指摘です。

 これは大変に難しいことだと氏は言います。例えば、特攻を全否定する勢いで「個々の犠牲者まで戦犯扱い」するというような風潮が生まれたのは、その人がジレンマを背負うことができずに単純な回答に逃げたからだということです。また特攻に関係した多くの人々や同世代人が沈黙を守ってきたのも、そのジレンマを語る難しさのためであったからではないかと氏はしています。

 一方、本作の問題点は、この「重たいジレンマ」を背負っていないという一点にあるというのが、このコラムにおける冷泉氏の評価です。

 「個々の特攻隊員の悲劇」へ感情移入する余りに、「特攻隊全体」への同情や「特攻はムダではなかった」という心情を否定しきれていない。せっかく描かれた作戦自体への批判も主人公達の悲劇性を高めるためのセッティングとして「帳消しに」されてしまい、その結果、観客や読者には悲劇への共感や畏敬の念が残るばかりで、最も重要な「重たいジレンマ」が伝わらないということです。

 さらに冷泉氏は、小説にも映画にも「個々の特攻隊員の悲劇」への畏敬の念を「個々ではなく全体への畏敬の念にしていきたい」、あるいは畏敬の念を「公的なものにして欲しい」あるいは「集団で主張することを認めて欲しい」という思想性が見て取れると厳しく指摘しています。こうした主張は、21世紀の日本という国を国際的な孤立へと追いやる危険のある「不必要な行動」だということです。

 氏は、作品中に掲げられた「特攻は自爆テロではない」という主張自体は間違ってはいないと言います。戦時国際法に基づく戦闘行為と、個人による政治的な殺人行為とは質的に異なるのは事実だからだということです。

 しかし一方で、いかに戦闘行為の一環であったとしても、20世紀という時代に公式の軍事作戦として「自爆攻撃」を強いたのは大日本帝国だけであり、これは大変に重たい事実だと冷泉氏は続けます。

 そのような作戦を採用したという事実は、公的にも私的にも強く否定されなくてはならない。また戦後の日本と日本人は実際に強く否定をしてきており、そのことが日本の国際的な信用につながってきたということです。

 氏は、この種の「特攻隊への畏敬」があるレベルを超えて社会現象になってゆくことは、そうした日本と日本人への信用を損なう可能性があるとこの論評で指摘しています。もっと言えば、日本の孤立を招き安全を揺るがせるような形で戦没者の「名誉回復」が志向されるようでは、戦没者の魂に対して著しく非礼であるようにも思うということです。

 特攻隊にしても戦没者一般にしても、その個々の犠牲に対する畏敬は失ってはならないと冷泉氏は言います。しかし、個々の犠牲への畏敬の念を募らす余り、作戦や戦争の全体を肯定するような立場をとるのは大きな誤りだというのが、この問題に対する冷泉氏の基本的な立場です。

 (繰り返しになりますが)当然そこにはジレンマが生じることになります。この「戦争や作戦は否定するが、個々の犠牲には畏敬の念を抱く」というジレンマを、戦後という時間に生きる我々は、しっかり背負っていかなくてはならないと冷泉氏は述べています。

 氏はその理由を、先の戦争で日本は負けたからだと説明しています。敗戦国が、負けた戦争の正当化をするということは、名誉回復へ向けた闘争を宣言することにつながる。そうなれば、戦没者への畏敬の念を持つことが、新たな紛争の火種になって行くという指摘です。

 それは、日本を改めて孤立に導き、危険を引き寄せることになる。戦勝国が寄って集って日本を再び悪者にしようと思えばできる、そうした口実を与えるだけだと冷泉氏は言います。そしてだからこそ、我々は、戦没者の個々人の犠牲には畏敬を払いつつ、戦争の全体や個々の誤った作戦への批判は続けなくてはならないということです。

 こうしたジレンマを背負っていくことを、戦後に生きる我々は宿命づけられている。そのジレンマを背負うという態度から、この映画は(安易に)逃げているように見えると冷泉氏はこの論評で指摘しています。

 単なるメロドラマだから(いいではないか)という意見もあるが、見方を変えれば、メロドラマにすることでこのジレンマから逃げている。悲劇への畏敬や追悼の思いを集団化したり、感動的なエピソードで盛り立てたりするというのは、「要するにそういうこと」だと厳しく指摘する冷泉氏の指摘を、私もこの論評から重く受け止めたところです。


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