MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯763 「忖度」の意味するところ

2017年04月02日 | 日記・エッセイ・コラム


 これまで、テレビの「難読漢字クイズ」などでしかお目にかからなかった「忖度(そんたく)」という言葉が、メディアにおいてにわかに注目されるようになっています。

 森友学園を巡る一連の問題で、国有地払い下げや小学校の設置認可に関し、安倍晋三首相や昭恵夫人に対して官僚の「忖度」が働いたのではないかとの指摘がなされています。国会やニュースで何度も連呼されているうちに、早くも今年の「流行語大賞」の候補のひとつに数えられているということです。

 デジタル大辞泉では、「忖度」の意味するところを「他人の心をおしはかること」としています。

 今回の問題で言えば、首相や夫人からの具体的な働きかけがなくても様々な状況から官僚が政治家の意向を汲み、空気を読んで便宜を図ったのではないか。さらに疑惑の渦中にいる籠池氏らが、そうした役人の忖度を上手に使い(場合によっては恫喝なども折り混ぜながら)思い通りの結果を手にしたのではないかということでしょう。

 そのような疑念が広く湧いてくるのも、日本の社会の中に「確かにそういったこともあるだろう」と納得するに足る、十分な土壌があるからに他なりません。

 一方、外国人記者は今回の問題の報道に当たり、忖度を、「surmise(推測する)」とか「reading between the lines(行間を読む)」などと訳しているようですが、英語には「忖度」にぴったりと当てはまるような言葉がないためその表現に苦労しているという報道もありました。

 そうした話を聞くと、「皆まで言うな」と他人の心情を慮って行動する「忖度」は、小学生からお年寄りまで、日本人なら男女を問わずごく日常的に行っている思考の手順であるだけに、何とも意外な印象があります。

 翻って、日本人自身にもうまく説明できないこの「忖度」の感覚について、元東京高等検察庁検事で弁護士の郷原信郎氏(ごうはら・のぶお)氏が、3月26日の自身のブログへの投稿「官僚の世界における"忖度"について確かに言えること」において興味深い解説を試みています。

 郷原氏はまず、「忖度」は、人には判らないように行うところにその本質があると喝破しています。

 「忖度」というのは、上位者の意向を本人に確認することなく、もちろん、指示・命令を受けることもなく、推察して、(その上位者の)意向に沿うように行動することだと氏は説明しています。つまり、少なくとも間違いなく言えることは、「忖度」はされる側にはわからないし、わかるようなものであればそれは「忖度」とは言えないということです。

 直接確認し、指示・命令を受けるのであれば、当然「忖度」する必要はありません。言い換えれば、直接、意向を確認しにくい関係や内容、確認して指示を仰ぐことに差し障りがある事柄であるからこそ、「忖度」が行われることになるということです。

 郷原氏はまた、「忖度」は、行う本人も意識していない場合が多いと続けます。

 氏は「忖度」を、特に終身雇用制、年功序列制のピラミッド型組織の中で生き残り、昇進していくためにわきまえておかなければならない、組織人の「習性」のようなものだと位置づけています。

 で、あればこそ、有能な組織人であればあるほど、意識しないで自然に上位者の意向を「忖度」できるようになる。官僚的なヒエラルキーになじんだ(優秀な)組織人は、まさに呼吸をするような自然さで「忖度」をしていると氏はこの論評に記しています。

 氏はさらに、(一般的に)「忖度」で違法・不当な行為が行われることはないと説明しています。

 「忖度」は、それぞれがその「裁量の範囲」で、上位者の意向に最も沿う対応をするものだと郷原氏はしています。

 裁量を逸脱する違法・不当な行為は、後々、それが指摘されれば、処分等のリスクにつながるためお互いの利益にならない。もとより「忖度」は、上位者に報告や指示・命令を仰ぐことなく行うのであるので、違法・不当な行為のリスクは、すべて下位者が負うことが前提になるということです。

 「忖度」したかどうかというのは、その状況と行われた行為が、裁量の範囲で最も上位者の意向に近いかどうかという客観的状況から推認されるしかありません。従って、今回の問題でも、「忖度」の存在を証明するのは原理的に見て難しいと考えざるを得ないということになるでしょう。

 さらに郷原氏は、組織人がこの「忖度」によって評価されるところに、日本の社会の特徴的な有り様を見ています。

 氏は、例えば官僚の世界で上位者から評価されるのは、違法・不当ではない「裁量」の範囲での方針決定について、上位者に方針を確認したり判断を仰いだりせずその意向を「忖度」して動ける人間だと説明しています。

 上位者の眼に、自分の意向や方針を手を煩わせることなく実行してくれる人間が(いわゆる)「使える奴」として映ることは言うまでもありません。しかも、忖度された対応には(上位者)本人が直接に関わっていないので、(上位者の)リスクを最小化できるというメリットも生まれます。

 なので、結局「忖度」の習性を身に着けそれを確実に行える人物は「能力が高い」と評価され、いちいち上位者の意向を確認しなければ対応できない人間は「無能」との烙印を押されることになるのは言うまでもありません。

 さて、「忖度」についてのこのような基本的な理解を前提とすれば、国会で「忖度した事実がない」と答弁している安倍首相は、(それを本気で言っているとすれば)官僚世界における「忖度」の意味を本質的に理解していないのではないかというのが、今回の森友学園問題に関する郷原氏の基本的な認識です。

 一方で、野党側が、参考人招致や証人喚問等で「忖度」の事実を明らかにしようとしていることも、(先ほど述べたように)あまり意味があることとは言えないでしょう。

 氏は、「忖度」というのは、組織内に、「磁場」のように存在し、物事を一定の方向に向かわせていく力だと説明しています。つまり、「忖度」に基づく行動というのは、日本の組織人にとって特別のことでも何でもない、(言うなれば)日常的な業務のひとコマにすぎないということです。

 そうした観点に立てば、今回問題にすべきなのは「忖度があったか、なかったか?」などではなく、むしろその「磁場」の存在の背景となっている「権力構造」の在り方自体ではないかと、郷原氏はこの論評の最後に指摘しています。

 現実の官僚の世界を振り返れば、年功序列制が維持されるピラミッド型組織でありながら、「政治主導」の名のもとに内閣人事局に各省庁の幹部人事権が握られている。そして、それを動かす政治の世界が与党幹部に集中しているという現状を見れば、それはまさに、最も「忖度」が働きやすい構図であることは間違いないということです。

 郷原氏は、森友学園の土地売却をめぐる問題がここまで深刻化した原因は、国有地売却の経過や交渉についての文書・記録が「廃棄された」と説明され、「忖度」の本質が覆い隠されているように見えること自体にあるとしています。

 公職の任命を政治的背景に基づいて行うことを(口悪く)「猟官主義(スポイルズ・システム)」と呼ぶ向きもありますが、公職をあたかも狩猟の獲物(スポイルズ)のように扱っている政治の現状を顧みれば、「忖度」の言葉にその弊害を考えてみる時期に来ているのではないかと、氏の指摘から私も改めて感じたところです。




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