MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯984 なぜモノが売れないのか

2018年02月03日 | 社会・経済


 黒田東彦総裁の下、政府・日銀は連携し2%のインフレターゲットを掲げて大規模金融緩和政策を続けていますが、財政出動も含めた景気刺激策をもってしても、なかなか(それが)功を奏しているとは言えません。

 アベノミクスが始まってから、ここでほぼ5年が経過することになりますが、いくら日銀が年間で最高80兆円、(GDP)の15%相当の巨額資金を追加発行することで世の中に出回るカネの量を増やしても、具体的な物価上昇、デフレ脱却につながっていないのが実情です。

 日銀は8月に行われた金融政策決定会合で、2%のインフレ目標の達成時期を2018年から19年に先送りし、当面の政策を引き続き継続することを決定しました。

 市中金融はほぼゼロ金利、日銀預金では(史上例がない)マイナス金利まで低下しても、日本の家計や企業は相変わらず預金を増やし続けています。子供から大人まで、物を購入するよりも預金を維持することを好んでいるということでしょう。

 こうした事態からはっきり見えてくるのは、日本の家計や企業の「消費」に対する需要が高まらない理由は、少なくとも「金利水準」にあるのではないということです。そこには(恐らく)これまでの経済理論では説明できない、もっと別の理由があるのではないかと考える専門家も増えて来ています。

 改めて、この空前のカネ余りの状況の中でなぜ物価が低迷しているのかと問われれば、(簡単に言って)それは日本の人々が物を買わなくなったから。それでは、なぜ日本人は物を買わなくなったのか?

 その理由としては、
(1) 高齢化社会の進展が社会保障への不安を掻き立て、人々が(将来のために)貯蓄に専念するようになったこと
(2) 消費性向が強い若年~中年層の所得水準が低迷していること
(3) 生活を革新的に変化させるような魅力的な商品が生まれていないこと
(4) バブルの崩壊やリーマンショックなどにより、国民の消費マインドが冷え込んでいること
などがしばしば挙げられます。

 言われてみれば確かに(それぞれ)そういうこともあるのでしょう。しかし、(それでも)いまひとつピンとこないなと感じていたところ、作家の片岡義男氏が昨年8月5日の自身のWebサイト「片岡義男.com」に、『自分探しと日本の不況』と題する興味深いエッセイを掲載しているのを見つけました。

 氏は昨今の消費不況に関し、(何がどのくらい売れれば気がすむのかという問題はこの際別にして)なぜ人々がモノを買わないかと言えば、まずはお金がないから買えないという要素を考える必要は(確かに)あるとしています。

 失業した、収入が減った、将来が不安だと言って買い控える。さらには、身の回りモノはひととおりは行きわたり、人々は日常のなかにさほど不足を感じていないというような状況も(もしかしたら)あるかもしれないということです。

 しかし、今、日本の社会においてモノが売れない本質的な理由は、「自分がない」という状況の中に実に多くの人が陥っているからではないかと片岡氏はこのエッセイで指摘しています。

 そもそも自分がないから、今、そしてこれから長く続くはずの時間のなかで、自分がどうありたいのか、どんな自分になりたいのかが分からない。どんな仕事や生活を自分はしていきたいのか、そのためにはいま自分は何をすべきかといった目標がどこにもないし、いつまでもそれが定まらないからだということです。

 なので、身辺の細々したことにかまけるだけの、次元の低く範囲が狭い生活の中を時間は無為に流れていく。多数の人たち、しかも若い人たちがこんな状態だと物は売れるはずがないというのが、この問題に対する片岡氏の認識です。

 氏は、現在の日本が体験している消費不況は、消費を支えるべき圧倒的多数の人たちが自分を持っていないからだと断じています。

 自分はこれからどんな方向へいきたいのか、なにに喜びたいのか、なにを幸せと感じているのか、どんな時間をどのように蓄積させていきたいのかが分からない。自分という物語を求める、あるいは作ろうとする生存への切実きわまりない、本来ならもっとも強く存在すべき欲望や願望などを、今の人々は持っていないという指摘です。

 片岡氏はこのエッセイに、(結局)不況の反対の好況は、人々が自分とその生活の向上を目標にして限度いっぱいに活動し、しかもそこにこの上ない充足や幸福を痛感しているときにしか発生しないと綴っています。

 目標が定まれば、必要なものは自ずと見えてくる。どうしてもなりたい自分があれば、例え借金をしてでも今しておかなければならない消費が見えてくるということでしょう。

 「失われた10年」「失われた20年」と言われてすでに久しい昨今ですが、こうした状況が変わらない限り、これからさらに少なくともワン・ジェネレーション(つまり30年)、人々が自分のなかに自分を持つまでの間、日本は膨大な損失と喪失の底をいくほかないと結ばれたこのエッセイにおける片岡氏の指摘を、私も強いインパクトを持って受け止めたところです。