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鳥取県士族移住前史

2017年07月10日 | 釧路


青天の霹靂

 今から150年前に起こった明治維新の変革、それは武士達にとって青天の霹靂であった。

 1969(明治2)年に版籍奉還、同4年に廃藩置県が実施され、武士達が経済的な拠りどころであった俸禄が、金禄公債証書に変えられた。

 さらに、西南戦争によって激化したインフレで、公債証書は反古同然となり、下級武士のほとんどが窮乏の淵に立たされた。


甚だしい窮乏

 鳥取藩32万石の旧家中は、特に窮乏が酷かった。

 長年、武技一筋に生きてきた鳥取県士族は、廃藩置県後は従来、度外視していた学問、芸能、商売に頼らざるを得なくなった。

 しかし、長く特権の座に安居し、農・工・商に依存する生活を送っていたこともあって、経済的自立は誠に困難であった。

 また、因幡、伯耆両国は山陰の辺ぴな土地で生産性の低い農業が主産業であり、城下町鳥取には鳥取県全士族の6、7割が住んでいたため、失業士族には働く適当な職も無かった。

 士族の困窮は年々酷くなり、1882(明治15)年には県下全士族五千余人のうち、貧乏で三食を欠くものが一千数百人もあり、ついには餓死する者もあったという。

 廃藩置県によって鳥取藩は鳥取県となったが、1876(明治9)年、鳥取県が廃止されて島根県に併合された。

 城下町鳥取から県庁は無くなり、新しく県都となった松江からは辺境に置かれ、交通も不便だっため町は寂れて、士族とともに中小商人の窮乏も甚だしくなった。

 そのため、1880(明治13)年に鳥取県再置の声が上がり、同14年、窮乏士族の集団である共斃社が鳥取県再置の運動を開始した。

 士族の困窮救済として、士族自らの手で生計を立てるため、島根県は士族授産として帰農移住、開墾を進めてきた。

 そんな中、1881(明治14)年、鳥取県再置の初代県令山田信道は、鳥取県士族の北海道移住について非常なる熱意を示した。

 政府もこれをとりあげて、同15年「移住士族取扱規則」の調査立案を北海道三県(札幌・函館・根室県)に命じ、根室県は同16年6月同規則を布達した。

 このような経過をたどり、鳥取県士族の北海道移住が決定したのである。



集団移住開始

 1884(明治17)年6月9日、鳥取県士族移住者41戸207人が、第1次として人跡未踏のベツトマイ原野の一角に集団移住帰農して、「鳥取村」を創始した。

 ベツトマイ原野とは、現在の釧路市の駅裏から北斗に至る阿寒川両岸付近。

 当時は全くの未開地であり、移住者の中にはあまりにも荒漠な原野を目の当たりにして、泣き崩れる者もいたという。

 翌18年5月14日には、第2次鳥取県士族移住者64戸306人が移住し、総戸数105戸、総人口513人の村落が形成された。


  

 しかし、住居はバラック作りで畳は1戸に6畳しかなく、壁や屋根は隙間だらけで冬には雪が吹き込み、飯や醤油なども凍ったという。

 また、第2陣が移住した年の秋には阿寒川が溢水氾濫して、農作物は全滅。

 以来、毎年のように水害が生じて、その日の食糧にも窮するようになり、一時は離散するような情況ともなった。

 道庁は、阿寒川の溢水氾濫防止と村民救済事業として排水溝を掘削したりしたが、1917(大正6)年に阿寒川切替工事が完成通水して、一応水害の危機も少なくなった。
 
 そして、大正9年秋の大洪水により阿寒川は、オンネビラより掘削されていた第一分水害溝に流入し、大楽毛川に合流して本流を変え、以来、洪水の脅威より救われた。

 阿寒川の溢水氾濫はなくなったが、釧路川の氾濫は続き、下流の釧路市や鳥取村の一部住宅にも被害を与えていた。



画期的な大事業

 1931(昭和6)年に新釧路川が完成通水し、水害の被害は皆無となった。

 この釧路川治水工事は北海道庁が大正10年に着工し、十年の歳月と巨額の事業費を投入して完成したもので、水害から救われるとともに沿岸地域は自然排水が良くなって開発が進んだ。

 これは、鳥取村にとっては画期的な大事業であった。

 鳥取県士族移住者の製紙工業誘致運動が成功して、1920(大正9)年に富士製紙株式会社釧路工場の建設により操業が開始された。

 大正、昭和初期の鳥取村財政は非常に苦しかったが、富士製紙、王子製紙釧路工場の援助に支えられて運営された。

 昭和初期に、鳥取村には同工場から多額の家屋税が納入されるため、村民の戸数割賦課はゼロであったから、家屋を持たない者は無税同称であった。

 そのため、共栄市街は借家とともに釧路市内に勤務する者が増加して、次第に発展した。

 鳥取村は、1934(昭和9)年に開村五十年を迎え、記念事業の一つとして同8年に大楽毛原野国有未開地七百町歩の払い下げを受けて、自作農創設事業を始めた。

 この事業は、村内の小作農やその次男、三男を入地させて、自作農を創設するという特異なものであった

 しかし、その用地の大半が低位泥炭の過湿地帯であったので開墾は遅々として進まず、遂には経営を放棄しなくてはならないまでになった。

 しかし、1930(昭和15)年にユッパナイの農民が暗渠排水事業を実施して成功したので、鳥取村ばかりでなく、釧路管内の湿原開発は急速に進められた。

 この暗渠排水事業は、道東における発祥であり、釧路湿原開発の先駆けとなった。

 鳥取町は、鳥取県士族移住者が水魔と戦い、湿原に挑みながら、移住の先駆者として士魂をたぎらせて困苦窮乏に耐え忍び、一鍬一鋤と開墾に精進して基盤を作ったのである。

 そして、その基盤の上に、幾多の先人達が血と汗にまみれて苦闘を重ね、鳥取町を築き上げたのである。



流れ継がれる開拓魂
 
 鳥取開基百年の歴史は、1949(昭和24)年10月10日、釧路市への対等合併により、鳥取町の名称は行政的には永遠の終止符を打った。


  


 しかし、大釧路建設のため、小異を捨てて大同についたその意気込みと、鳥取村を創始した士族移住者の開拓魂は、開基百年を迎えた今もなお脈々と流れ継がれている。

 鳥取開基八十年を迎えた1955(昭和3)年6月9日、釧路市は同記念事業会と共催で、「鳥取開基八十年記念式典」を盛大に挙行した。

 記念事業会は、鳥取開拓記念碑を建立し、鳥取開拓記念館を建てて八十年の歴史を伝えた。

 また、鳥取県の「因幡の傘踊り」が継承され、同年12月20日に鳥取市は釧路市との姉妹都市提携を宣言し、士族移住者の生れ故郷鳥取との絆をいっそう強めている。

 1984(昭和59)年6月9日、合併した旧鳥取町はこの日をもって「開基百年」を迎えた――。
                     


【記事引用】「鳥取県士族移住前史」
 
 
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