water steppe memo

日々、考えていることをここに記します。
ブログと呼ばずに「日記」としたいところです。

マカロンと私

2012年03月25日 13時46分25秒 | 旅行
何年か前、のっぴきならない用事があってパリを旅行しました。久しぶりの海外でしたので準備段階からものすごい興奮して、地球の歩き方も買ってかなり読み込んだつもりでした。が、
「マカロンは、日持ちしなかったり検疫で引っかかったりしますんで、おみやげに買う場合は気をつけた方が良い」
という話をパリに着いてから聞いて、
「へーそうなんだ、どうしよっかな」
もしくは
「そうそう、そうなのよね」
といった雰囲気が流れる中、
「マカロンって、なんだっけ?」
と思ってしまって、周囲とのあからさまな温度差を感じてしまった経験があるくらいに、マカロンには疎い私です。

パリ旅行中、お土産買う為にギャラリー・ラファイエットへ行ったのですが、ついでにグルメコーナー(日本で言うデパ地下)で何か買って、それを晩御飯にしようと思ったわけです。で、売り場をウロウロしていると、カラフルなお菓子が並んでいて、
「おお、これがマカロンですか」
と(おそらく)人生で初めてご対面したわけです。マカロンを初めて食べるのがパリだったなんて、人や物が頻繁に行き交う現代において、逆に貴重でなかなか趣があって良いじゃないか、、、、、と考えてはみたものの、よく見ると抹茶といった和の素材が使わており、しかも、どうもパティシエさんは日本人の方でいらっしゃるご様子。遠い異国であり、しかも本場であり、さらにこんな街のど真ん中でお店を構えるのは、徹頭徹尾素晴らしいと思います。ですけど、
「旅行中、和物は一切口にしない」
という自分の中での(ごく勝手な)取り決めとの整合性を吟味した結果、
「うーん、やめとこう」
と、見送ってしまいました。そして旅行中、結局マカロンを食べることはありませんでした。
、、、というのが2009年の話です。

時間軸は現在に戻って。つい何週間か前からリプトンのペットボトルがまたお菓子ストラップをおまけにつけ始めまして、これは私への挑戦状だと思い、購入する日々が、数日ありました。なぜ数日かというと、おそらくおまけの在庫が無くなっちゃったんでしょう、けっこう直ぐにお店で見かけなくなってしまったからです。
今回のストラップ、身近なお菓子方面の有識者にお見せした所、どうも有名なパティシエさんとのコラボレーションであるご様子。私も自分で調べましたら、青木定治さんであると判明し、しかも、パリで「うーん、やめとこう」となったお店の方であると、(確信は無いまでも)思われるわけです。御自身のwebにあるラファイエットグルメ店の写真も、なんとなく見覚えがあります。
「これは、ついに食べるべき時がきたのだ」
と、思わざるを得ないわけです。


という訳でケーキと一緒に買って来ましたよ。新宿伊勢丹店まで行って。

旅行中に何かを体験するのも楽しいわけですが、旅行が終わってから、それを起点とした新しい何かを体験出来るのも楽しいわけです。私がタイ料理を作ってみたり、タイのビールを愛飲したりするのも、その一環であったりします。多くのリソースを投じて行く旅行なのですから、ただ
「行ったよ、楽しかったよ」
で終わらせないようにしていきたいと、趣味:旅行を標榜する者として常々思っておったのですが、久しぶりにそういう事ができ、かなり嬉しくなりました。ただでさえ美味しいはずのマカロンですが、そういう気分の中で食べる事ができ、やはりまた格別な味。いやー、旅行って本当に素晴らしい。旅行が趣味で良かったと思う休日です。
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小読感文「驚きの介護民俗学」

2012年03月24日 02時12分04秒 | 
六車由実さんの新著「驚きの介護民俗学」に書かれた民俗については、私の記憶にある祖父母の言葉と結びついたりして、なにか懐かしい気分になってしまいました。介護されているお年寄りが話した事、体に染み付いた記憶として表出したもろもろを文章化し、民俗を伝える資料としても体を成すようにまとめ上げつつも、とてもマイルドで読みやすい文体にしていらっしゃるあたり、とても素晴らしいと思います。

この本では、お年寄りの語りに対して知的好奇心の発露として驚く、というのが一つの柱になっておりますが、私はまた少し違う視点で驚くというか、なんだか複雑な気分になってしまいました。それは、まだご存命のお年寄りから伺う、歴史の時間軸からすればまだまだ最近の民俗ですら驚きの中でお伺いせねばならない程に、私達は民俗を記録するという事に疎いのだ、という事です。介護を受けていらっしゃる方と言うのは、だいたい、私の祖父祖母の世代です。わずか100年前の話です。その頃に人々がどうやって生活していたのかが、もう忘れ去られようとしているのです。
例えば、本の中で「馬喰」という職業の人々について触れられています。私も祖父祖母の世代からその職業について聞いた事がありました。その話ぶりからは単に「馬で商売をしている人」とは思えないような印象を受け、子供心になんだか複雑な何かが有るんだろうなあと思ったものです。大人になってから何か調べるような事はしなかったんですけども、なんとなく、民俗学の世界ではもう解決している話題なんだろうなあ、と思っておりました。しかし実際は、宮本常一著「忘れられた日本人」以降、あまり光の当てられなかったテーマだとのこと。これは少しショックでした。
馬喰について話すくらいですから、私の祖父母は家で農業用の牛馬を飼っているのが普通であった時代を過ごしていたのだと思います。でも私が子供の頃にそんな家は、畜産業ででもないかぎり、
「えー、牛いるの?すげー」
といったような、珍しい存在だったように記憶しております。わずか30年かそこらでそうなってしまうのはしょうがないにしても、その民俗がどこにも記録されずに消えてなくなりつつあるのだとすると、いくらなんでも寂しい気分にならざるを得ません。
そういう立ち位置から考えた場合、民俗学が介護現場をフィールドとすることに妥当性とか意義が発生すると思います。そして、民俗学という手法でお年寄りと語り合うことにより発生する何かが、豊かな介護現場を醸成して行くのであれば、こんなに良い事はないと、私は思います。

さて。介護を扱うからには、その過酷な現場について考察しないわけには行きません。この本を読み進めていて、介護する側される側双方の豊かなコミュニケーションは素晴らしい、、、のは確かに素晴らしいんですけど、それだけで終わったらどうしようと内心ドキドキしておりました。ちゃんと最後の章にて「忙しさのあまり、驚きを自ら禁じてしまう」状況について書かれており、この章の存在が"介護"民俗学としての説得力に寄与していると思います。もしこの章が無かったら、介護施設発の民俗学的読み物、で終わってしまっていたでしょう。少なくとも私は最後まで読み進めてようやく、民俗学の手法や知識が介護現場でどう役に立つかについて考察、更に言えば吟味をするようになりました。
介護民俗学が介護の現場で役立つ学問であるかどうかは、介護の現場にいるわけではない私では結論を出せません。でも、そういう考察・評価・吟味から逃げない姿勢を感じた、とは申し上げたいと思います。

民俗学を介護へ、とは目からウロコでした。年齢という大きな壁が立ちはだかるお年寄りとのコミュニケーションが、民俗学という視点があれば知的好奇心の場になるというのは、目からウロコが落ちすぎて、床に山ができるかと思った程です。この学問が考察評価吟味を経て、一般化され手法化され多くの人が使えるようになることを願っております。そして介護の現場にとどまらずに広く
「介護民俗学って、役立つよね」
という段階まで発展していったらいいなあと、民俗学好きとして、後々介護をする側にもされる側にもなる人間として思います。

私は介護民俗学を応援いたします。
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