自死遺族とうきょう自助グループ みずべの集い
大切な人を自死で亡くされた方へ。
私たちは自死遺族だけで、わかちあいの会を運営しています。
 



昔、遠藤が書き下ろした直後にこの小説を読んだとき、拷問を受け、いのちが消えかかってもなお神を信じ続ける素朴な隠れキリシタンの信仰のすごさにたじろぎ、二度と読み返したくはない気がした。「神、なぜに応えてくださらないのですか」と神に訴える神父の言葉が深く重く心に残った。

あれから30余年。シニアと呼ばれる年齢に達し、息子を自死で亡くした絶望の中、神に祈る日々を過ごしていた。しかしある時牧師が漏らされた「自殺は罪」との言葉に納得できず、教会を離れて数年が過ぎる。
命を絶つしかなかった息子の苦しみ、助けることが出来なかった家族の尽きることのない身を切られるような自責や後悔を罪の一言で片づけて欲しくはなかった。
今年の年賀状に、「躓かないで、教会に戻ってきて」と書いてこられた方がいる。私のことを心配しての言葉なのだろうが、私は躓いたとは思ってはいない。

苦しむ人に必要なのは厳しさなのか、愛なのか。教義なのか、ひとりひとりの苦悩を思いやる心なのか。
信仰とは何なのかを私なりに考えた上での行動だったのだから。
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コメント
 
 
 
参考になるかどうかわかりませんが、、、 (EZEK14:23)
2017-05-21 17:34:37
 私は、最愛の息子を自死で失った元牧師です。

 一般的には、希死念慮を抱えた人にブレーキをかけるために、牧師はそのように言うのでしょう。実際、しょっちゅう死にたい死にたいと言ってくる青年が、でも自殺は罪なんですよね、とこちらに確認するように言ってくることは、私も経験しました。

 同じ自死でも、原因はさまざまでひとくくりにはできないと私は思ってます。よく聖書で引き合いに出されるアヒトフェル(第二サムエル17:23)やイスカリオテのユダがいますが、彼らは鬱だったのか?というと、聖書を読む限り、そうは見えません。彼らの自死と鬱によるそれと、あるいはそれ以外の精神的な病によるそれと、同一視することはできないと思います。外見や形で判断せずに、中身で判断するようにとイエス様は仰っていたのに、それに反してひとくくりに断罪されるのは確かにとても残念なことです。

 高倉徳太郎という明治から昭和にかけて活躍した有名な牧師がいました。が、彼は多忙を極めた末、鬱を患い自死しました。しかししばらくは、青年たちへの影響を恐れてその事実は隠されてきたそうです。彼の説教は多くの青年たちを感動させ、励ましてきたものでしたから。そういう影響というのは確かに考慮されるべき面はあるでしょうが、他方、事実は事実として明らかにされていたら、自死に対する誤解や偏見は違っていたかもしれません。別に牧師が特別だとか偉いとか思いませんが(普通の人間ですから)、牧師であろうとなかろうと、うつは病気ですから、誰でもなりうるものだということです。

 確かに、それが罪でないとは言い切ることもためらわれるけれども、でも赦されない罪かと言えば違うと思うし、憐れみを受ける事もあるのではないかと思います。少なくとも、先ほど書いたように、外側に現れたところだけで一律に決めつけることは絶対にできないことだと思います。

 ちなみに私は、私の息子は救われていると信じています。それは納棺した時に祈った時に、神様が聖霊によって示してくださいました。誰が救われて、誰がそうでないかなんて人間には誰にもわかりません。神様だけがご存知で、その神様が私を憐れんで聖霊によって示してくださったので、理屈抜きに私はそのように信じています。実際、それがなかったら、わたしは耐えられなかったかもしれません。もちろんそれでもこの三年間、耐えがたいほどつらく苦しい日々を過ごしてきました。私の心からは見えない赤い血がドロドロと流れていました。心は瀕死の状態で、その日一日を生き延びることだけを考えてどうにか必死で生き延びていた時期もありました。一日を生き延びることがこんなにしんどいことだったとは、、、と思って過ごしました。ただ、復活の時に愛する息子と再会できるという希望は小さからぬ支えになっていたと思います。

 まとまらない話になってしまいました。少しでも意をくんでいただいて、参考になればと思って、思い切って投稿しました。気に障ったらごめんなさい。

神様の恵みと憐れみが豊かにありますように、お祈りいたします。
 
 
 
ありがとうございました。 (スタッフ)
2017-05-22 03:56:27
EZEK様、息子のことを慮ってくださるコメントありがとうございます。
かけがえのない人を失った心の痛みは半端なものではないですね。

十余年を経た今は自然体で生きておりますが、
私も、EZEK様が書いて下さったと同じように一日を生き延びるのが大仕事だった日がありました。

私も息子は苦しみから解き放たれ、神様のもとに帰っていったと信じ、苦しい日々を生きてきました。
そう思わなければとても生きてはこれなかったかもしれません。
実際、葬儀の時にそのように息子の苦しみを労わり、号泣され、神様の愛ゆえに天に帰っていったと自分は思うと慰めの温かな言葉をかけてくださった牧師先生がおられます。
茫然自失の絶望の中、今、息子は神様のもとにいるのだとの安心感がどれほど私の心の支えになったことでしょう。その思いにすがって過ごしていました。
その方の言葉と思いやりのおかげで何とか私は立ち直れたと思っています。(「自殺は罪」と言われた方とは別の牧師さんです。)

「言葉」が苦悩の中を生きていく者の杖や支えにもなれ
ば、
棘やナイフとなって心に突き刺さることもある・・。

日常の何気ないコミュニケ―ションでもそうだと思いますが、喪失の悲嘆のただなかにいるデリケートな遺族の心情ではいっそう切実に感じるように思いました。
そんなことを年月を経たこの頃、しみじみと感じたりしております。

つたない文章を読んでくださり、励ましのお言葉をいただき、感謝の思いでいっぱいです。

EZEK様もいつかご子息さまにお会いできる日まで、お体お大事にお過ごしくださいますよう、東京の片隅で祈っております。






 
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