同じ体験をしている方と話していて、ふと思い出したことがあります。
喪失の激しい苦しみにくれていたころ、それは死別後数か月過ぎたころでした。
私が今、亡き人のために出来ることは何なのだろう?、あの子があちらの世界で安らかでいることに、私が今できることは何かないのだろうか?との思いが湧いてきました。
こちらの世界からあちらの世界に旅立った最後の場所(ベランダか)に、あの子が一番好きだった花を咲かせることはどうだろう?。そんなことが頭をよぎったのです。
それがきっかけで、あの日いらい、場所を見ることも、そこに行くこともできなかったベランダに再び出ることができ、花の種をまきました。
芽をだし、すくすく大きく育つ植物をみることは、大げさに言うなら、当時の私が生きる意味のような気持ちになり、あの子が亡くなってからはじめて、自分は今生きているのだと感じました。
あの子のためにと始めたことが、私のためになっていったのです。
半年後、一周忌の5月にベランダは忘れな草で埋め尽くされました。
何とかその日一日を生きていたころのことです。
きっとあの子は見てくれている、そんな気持ちが私を奮い立たせてくれました。
無力感に打ちのめされていた頃、亡き人のためにするのだと思うと、不思議に力が湧いてきました。
亡き人のために今できることは人により、異なるでしょう。
でも何かありますよね、きっと。
にほんブログ村
「トップへ戻る」
| Trackback ( 0 )
|
|
青紫は癒しの色だそう
忘れな草がお好きだったんですね
私もベランダでお花を育てています
今の癒しは何ですか?
亡くなった子供の為に出来る事って少ないですね
今は亡き子には、何をしてあげていますか?
青紫は癒しの色なのですか。忘れな草以外にも息子が好んだ花は青紫色でした。
教えてくださってありがとう。
あちらの世界に旅立った年の春「桜は、今の自分には眩しすぎる」と言って、みませんでしたが、忘れな草をみて、「この色は心が落ち着く」と言っていました。
亡くなった人のためにできることはいろいろあるのではないかと私は思っています。
例えば、心の中だけでの祈りや願い、毎朝のお仏壇や写真へのお供えなど日々の行動。
特別なことではなくても、ささやかであっても亡き人への想いをこめてすることすべてが、あてはまるのではと思っています。形式ではなくて、心をこめてすれば、どのようなことでも。
わたしの場合今は、子供が自死した自分の人生を受け止め、受け入れて、生き切ることが亡き人の安心感になるのではと思って暮らしています。こう思えるようになるまでには、かなり時間がかかりましたが・・・。
あの子が過去の人ではなく、今も大事な人であると思っていること。この悲しい事実が起きる前もあの子を深く愛していたけれど、今も愛している事実があの子にできることであり、私が生きていく理由になっています。