関係了解(自己了解・他者了解・存在了解)の生成がなければ、
思考し行動する自己を組織することができない。
関係世界に対する「了解性」の必然性と限界性。
それはただ主観(わたし)の心的経験の中からのみ立ち上がる。
関係了解と相即する自己の組織化と実践的な企投──
そのことでのみ主観(わたし)の関係了解は試されるが、
関係了解の確定は同時にみずからの了解性の限界を確定することでもある。
人間的コミュニケーションは、各自的な関係了解の交換をつうじた、
集合的関係了解=客観の生成をめがける営みを意味する。
この場面で主観(わたし)の了解性は実践的に試されることになる。
仮に主観(わたし)がみずからの了解性を強行すれば集合的関係了解の生成の契機は消える。
各自的な必然性と限界性を提示しあう営みによって実践的な関係のゲームが展開する。
同時に、集合的な関係了解も各自的な関係了解と等しく必然性と限界性をもち、
この二重の意味において関係のゲームも展開していく。
了解性はこの展開の連続性においてのみその更新の契機を獲得することができる。
展開されない、いいかえると試されない関係了解は独我論的な完結性を帯びて、
力の論理(最後の論理)に従う集合的な関係の決着を図る道を開くことになる。