つれづれ気まぐれ由来記

大学生活のどうでもいい事や日々の制作活動を記録した自己満足ブログ。
自己満足なので更新は気まぐれです。

人生リセット

2005-10-23 12:31:41 | 自己中コラム
 先日、変な夢を見た。ある夫婦の住んでいるアパートの部屋で、夫婦に質問された。「過去に戻るなら、何年前に戻りたい?」と質問されて私は迷った。この質問に答えると本当にその時代へ行けそうな気がしたからだ。
 私の嫌いな言葉が2つある。1つは、「こんなはずじゃなかった。」もう1つは「後悔」である。今までそういうことになっても、それを覚悟で人生を選択してきたつもりだからだ。自分で選択をしたのだから、それはありえない。そう言い聞かせながら。なので、その2つの言葉は嫌いである。
 私も人間、過去に「ああすればよかった」と後悔の念に駆られたことはたくさんある。しかし、こういったことも含めて今の自分があると思う。それに、こういったこともあり、今の友人やその他人間関係が出来ているのでなるべくそう思わないようにしている。それに私が高校生時代に戻ったとしても、今の体型や年齢のまま戻るとつらいものがある。また受験もしないといけないし。
 いろんな過去があったから、今の友人たちと知り合うこともできた。今のままで十分である。その時、その時を一生懸命に生きようと思う。 
 逆に私の好きな言葉というか、戒め的で気に入っている言葉がある。


 「反省はしても、後悔はするな。後悔は人をネガティブにする。」

                        ソリッドスネークの言葉

プレイステーション、ゲームソフト「メタルギア ソリット」より抜粋(コナミ株式会社)
 

なつかしの国際ショッピングセンター2

2005-10-19 07:42:31 | 沖縄すーじ道紀行
 国際ショッピングセンター、ネタ第2弾です。とは言うものの、単なる私の写した写真を公開しているだけです。
 90年代後半の国際通りはいろんな意味で面白かった。空き店舗が目立ち、そこで露店のようなものがあったりした。1時期、銀杏を使った銀杏細工が売られていた。銀杏に動物の塗装や細工がされており、風が吹くとこの細工がぴらぴらといっせいに動くのである。1個100円で売られており、思わず買ってしまう。
 段々沖縄ブームの波が押し寄せるに連れて空き店舗は観光客相手の土産品店になり、マニアックなお店は無くなっていった。
 ん~なつかしい。こんな事を思うようになると、いよいよ年をとったな。








大丈夫なのか!手作りキャンバス

2005-10-14 20:17:51 | つれづれ日記
 今日、やっと150号のキャンバスを張った。今まで15号ぐらいの大きさのキャンバスしか張ったことがなっかたので大変だった。ひざの上で転がして張るのとは違う。ちなみに、150号のサイズは大体220cm×180cmぐらい。
 2年生のメインの課題は150号サイズのキャンバスで制作することである。途中、版画実習や古美術研究などが入るがこの制作のことを考えておかなければならない。
 私は、学園祭に展示する作品も制作しなければならないし、カレンダーも制作しなければならなかったので、課題のほうまで余裕がなかった。課題のほうが大事なのに。
 市販されている150号の木枠は1万円前後するので、ホームセンターで身に付けた技術を生かして自作の木枠を作ることにした。1500円程度でできてしまったが、それに費やした時間や耐久度を考えると市販の木枠でも良かったのではと思った。キャンバスの生地を張ってみると、木枠がしなっていた。制作中、木枠が壊れないか心配である。
 今日はなんか日記らしい内容だな。

なつかしの国際ショッピングセンター1

2005-10-09 14:57:24 | 沖縄すーじ道紀行
 90年代末期まで国際通りにある建物があった。それは、国際ショッピングセンターと呼ばれるお土産品店売り場である。地下に食品店街があり、那覇市民の憩いの場所だったと思われる。
 思われるというのは、私が高校生のころはすでに寂れていた。約8割の店舗が閉めており、地下ともあってかなり怪しい雰囲気だった。たまに、観光客が迷い込んでウロウロしているのを見ることがある。営業しているのはゲームセンターとカレー屋だけで、私達学生のたまり場だった。1階はA&Wと本屋(球陽書房だったかな?)が入り口付近にあり、よく利用していた。奥には、土産物を売るブースが連立していてアロハシャツが目立っていた。
 その後この建物は取り壊され、今では「てんぷす館」が建っている。今の国際通りは観光客中心になって、那覇市民の私としては全くつまらない魅力の無いものになっている。あのころは今よりもまだ地元の人も楽しめる場所が国際通りにはあったのではないだろうか。あのころが懐かしい。


私が高校生のころすでに閉店してたゲームセンター。たぶん喫茶店だと思う。



ホラーゲームのような通り。ゾンビが出そう。



私がゲームをしたあとよく利用したカレー屋最後までがんばっていた。その後、平和通りの近くに店を移して営業していた。

萌えモシャモシャ

2005-10-05 19:37:47 | つれづれ日記
 ネタが無い・・・・。
 このブログをはじめてから、2ヶ月ほどになる。週に2件ほどの話題を書いているが、今回はこれといった話題がない。後期の授業が始まって忙しいのも理由だが、今はあまり余裕も無い。けど、今日は書く。
 
 日本画の世界には「模写」というのがあり、お手本になる先生の作品などを写し取って技術を学ぶトレーニング方法がある。あまり知らないので詳しく説明できないが、模写した作品をひとつの作品として扱われることもあるそうだ。例→尾形光琳の「風神雷神図」
 その趣旨とは違うが、私も模写をした。模写をする作品は、日本画でもなく、油絵でもなくアニメである。しかも、いわゆる「萌えキャラ」。(゜Д ゜;)
 本当は別の目的ではじめたことだが、描いてみると以外に興味深い。セル画で表現されている人物を、デッサン独特の空間表現にしてみたりといろいろ遊べる。もう少し研究してもよさそうだ。
 今回はネタがないといいながら、結構書いてしまった。

犬の幸福論

2005-10-01 17:38:38 | 自己中コラム
 何年か前に、父と犬の幸せについて議論したことがある。「犬は人間に飼われて幸せか否か」という話題になり、1時間ほど議論した。父は、犬は人間に飼われて幸せだと主張するが、私はそうは思わなかった。
 幸せかどうかという認識は、過去の出来事から比較して感じるものだと私は思う。また、同じ立場の者と自分を比較して判断するものである。はたして、犬はその認識が出来るのだろうか。犬は確かに賢く学習能力はあるが、「幸せ」という抽象的なことを認識することは出来ないと思う。
 「幸せ」に近い意味で「うれしい 、楽しい」という感情がある。「うれしい、楽しい」は動物の3大生理欲(食欲、睡眠欲、性欲)に直接結びついている感情ではないだろうか。犬は「うれしい、楽しい」という感情をわかりやすいほど体全体で表す。飼い主から餌をもらうときや、遊んでいるときの表情はうれしそうである。これは人間の主観での判断ではあるが、犬はこの感情は認識できると考えられる。したがって、犬は「うれしい」と感じても自分が「幸せ」とは思ってはいないのではないだろうか。
 しかし、父の主張として犬は人間に飼われることにより食事の心配はいらないし、雨風をしのぐ犬小屋などがあり、生活に困ることはないとのこと。確かに、定期的の食事はできるし、寝床の心配はないが、犬はこのことで幸せと感じるだろうか。そもそも、脳みその構成上人間以外の動物が「考える」(判断)はあっても「悩む」ことがあるのだろうか。将来のことで「悩むのは」人間だけである。父の主張はあくまでも、人間から見た価値観を勝手に犬に押し付けているのではないだろうか。 
 正直なところ、犬に聞かなければ結論はでないでしょう。少なくとも、うちで飼っている犬2匹は幸せそうです。