かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

地域社会のお母さん

2017-06-21 11:32:53 | 理想の暮らしを語る会

 

先日、6月17日、鈴鹿カルチャーステーションで、鈴鹿西部地域包括支援

センター長の鈴木節子さんが

      6月公開講座 

    「人生の完成期(後期高齢)を最も自分らしく生きるために」

     ~介護支援専門員から見た「長期にわたる親の介護」

 

というテーマで話をしてくれました。


ここのところ、鈴鹿地域で医療・介護・福祉にたずさわっている方々を

2ヶ月に一回、お呼びして、実際のやられていること、そこから感じる

こと、お気持ちなど聞かせてもらってきています。

     

 

 鈴木節子さんのお話は、のっけから、”肝っ玉かあさん”の語り口で、話

の内容もそうですが、鈴木さんの人柄がビンビン伝わってきました。

センター長なんていうと、ちょっと引いてしまう気持ちもありますが、

どうして、どうして、介護・福祉にかける情熱が鈴木さんを動かして

いるようでした。

 

前に鈴木節子さんの「部下」といったらいいのか、同志ともいえるのか、

青年職員玉井さんにも二回ほど、地域包括支援センターでの活動や気持ちを

聞かせてもらいました。

高齢になって身寄りにない認知症のおばあさんに寄り添う体験や孤独な

暮らしながらヤケクソになっているおじいちゃんを最期まで看取ったり

しています。

自身、涙無しには語れないという活動を聞かせてもらいました。

それは、たんに「仕事だから」という枠を越えているようでした。

「地域包括支援センター」という馴染みにくいイメージでしたが、そこに

人と人のいのちの交流の実際があるんだなあ、と身に迫ってきたのでした。

 

鈴木節子さんのお話は、なぜ自分が「介護・福祉」の世界に踏み込んで

きたか、ご自分の体験からはじまりました。


 10代から、すでにその志はあったといいます。

20歳過ぎて、介護・福祉資格を取るための勉強をしているとき、

会社員で勤務をしていた父が病気で倒れたため、家事、仕事を

しながら、父の介護をし、20代半ばで専業農家に嫁ぎ、義理の

祖母と専業農業と3人の子育てを両立しながら、介護の資格を

とったということです。

 後、この35年間の介護の経験と知識を、活かして社会に貢献して

行きたいと思っているとのこと。

そんな鈴木さんから、いまの活動について聞かせてもらうと、

鈴鹿地域の介護や福祉の仕組みが、どうのようにつながって、

どんな人がどんなふうに活動したり、そこで暮す人のなかに

生かされているか、やっと身近に感じられるようになりました。

さまざまな機関の寄り合いに参加されてていて、地域の人たちの

介護、介護予防、福祉、看取りまで、見てくれているように感じ

ました。

「この地域社会のお母さん」

そんなに見ても、無理ないかなと思いました。

ぼくのほうは、そんなに見てくれている人がいるなんて、迂闊にも関心が

なかったともいえます。

 

鈴木さんのお話は地域社会で手をつけていきたいこと、高齢になっていく

人がおさえておきたいポイント、そういう高齢者と暮らしながら、元気な

人はどこを見ていけばいいのか、ご自分の体験や最新の知見を紹介しなが

ら、熱く語ってくれました。


「フレイル」というコトバ、はじめて耳にしました。

どういうこと?

「カラダがストレスにたいして、弱くなっていること」

ここは、鈴木さん、ご自身のお母さんの実例を紹介してくれました。

「母は9年前、転んで左手を骨折しました。なぜ、そうなったか調べると、

パーキンソン病だとわかりました。そこから認知症があらわれ、脳梗塞

まで起こりました」

どうも、フレイル状態になると例えば、その人の生活では不如意なことが

多くなり、風邪にかかっただけで肺炎にまでなる、そんなことらしい。

 

鈴木さんは、高齢になりフレイル状態にならないための予防やたとえ

なりかけても、早めにそれが分かったら、その状態か回復すること

ができるといっていました。

フレイルについての診断基準があるようです。

鈴木さんは、鈴鹿地域でもその診断ができるようにしたいと考えて

いるようでした。

なかでも、「口腔機能の低下」がフレイル状態を加速するとも言って

いて、この検査もやれるようになっていきたいと願っていました。

 

看取りということでも触れていただきました。

最近は「エンド・オブ・ライフ」という考え方を在宅医療・看取りに

かかわる小澤竹俊さんが提唱しています。

当人も周囲の家族、縁者、地域の人たちも。こころ満ちたりて、最期

を迎えられる、そういうありようが、明らかになってきているようです。

「尊厳死協会」とのつながりもあるようです。

鈴木さんが、小澤さんの「エンド・オブ・ライフ」からぼくらに

問いかけてくれました。

「自分が亡くなると分かったとき、どんなコトバを近親の人や周囲の人に

かけますか?」

「そんな、急に問われても・・・」とたじろぎました。

 

「人が自分らしく最期をむかえるのには」

おそらく、この問い(「旅立つに当たっての気持ち)を自分のコトバで

口にして、書いてもいいのでしょうが、本人の気持ちが周囲の一人ひとり

に伝わり、周囲の一人ひとりもそれをしっかり受けとめる、そういう実際

のなかにあるのかな、と思いました。

 


「地域包括ケアシステム」というのは、2004年ごろからスタートして、

全国各地の市町村が主体になってはじまりました。

「それって、どういうこと?」

広報のパンフレットに目的とか背景とか書いてありますが、読んでいても

どうもピンときませんでした。

地域の各種機関のつながりの図というものもありますか、「そうかそんな

ふうになっているのか」とは分かりますが、どこか他人事でした。


「もっと、この仕組みに関わって、活動したり、あるときは壁にぶつかっ

て、迷っている人に出会った、話を聞きたい」とやってきて、まだまだです

が、「地域包括ケアシステム」というのが、政府のいろいろな事情や理由付

はふまえながらも、これからの社会への道筋があるように感じています。

 

そこに介護を求めている人がいます、カラダの面でも心の面でも弱い人が

います、威張っている人やときに乱暴する人がいます、どの人もその人の

暮らしは、いやおうなく地域の人たちに広がっていきます。

そんなとき、どんなふうにとらえるかなあ?

住民自身がどんな自分になったら、そのような人たちと仲良く、こころ

豊かに暮していけるかなと、願わないかな。

相手を変えようとしなくても、自ずからそうなっていく社会の雰囲気が

あるのかなと思います。

社会の仕組みとしては、いろいろ考えられて、専門、専門でやることが

はっきりしているのでしょうが、そういう人を目の前にしてのスタートは

隣人としてのそれぞれの人のかかわり方があるのかな、と思えてなり

ません。

 

鈴木さんのお話会では、自身(ぼくなんですが)、フレイル状態に足を

踏み込んでいる身で、もっと具体的に知りたいこともありますが、

自分が暮す地域にそこを見てくれている人がいるとと思うと、ほっこり

します。

お話会さいごのほうで、「「理想の暮らしを語る会」みたいな寄り合いが

あるのは、お互いが身近になるのに、いいですね。もっともっと、やって

いってほしいです」みたいな感想をもらしてくれました。

こころ強かったです。

 

これからも、公開講座が楽しみです。

 

 

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2 コメント

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初めまして。 (丁 承学)
2017-06-23 03:43:31
こんばんは。尹東柱詩人について2014年にお書きになりました記事を読み、ここに足跡を残します。とても美しく素直な文で、読んだ後尹東柱詩人の詩のごとく心が温まるものがありました。ありがとうございます。尹詩人をお忘れにならないことを心からお願い申し上げます。日本の方で尹東柱詩人のことを知り、彼の時代、人生、詩に共感している人との出会いは感激です。私はただの留学生にすぎませんが、こういった両国の心のつながりを大切に磨いていきたいと思っています。改めてありがとうございます。
詩人尹東柱 (宮地昌幸)
2017-06-25 22:04:27
ずいぶん前に書いたブログだったので、あなたのような感想を聞かせてもらってうれしいです。韓国の人との出会いは22歳のころです。アジアやラテンアメリカなどから技術研修生のお世話をする仕事をしていました。そのころ、浦項製鉄所の3人の若い技術者が来日して、ぼくの仕事場の研修センターから工場に通っていました。半年ぐらい、仲良くさせてもらいました。
帰国後、韓国から来日した人たちが、どんな活動をして、どんな暮らしをしているか、同僚といっしょに10日間、視察をかねて、観光もしました。ソウルからテイグ、キョンジュ、浦項、ウルサンなどまわりました。戒厳令下でしたが、「なにもかもこれからだ」という熱い意気込みがありました。暮らしは、麦飯だったし、工場のお弁当はキムチが真ん中にあるだけのものでした。シジョンは何処に行っても訪ねました。片言のハングルで声かけると、しばらくして流暢な日本語が返ってきました。ほっとつると同時に、その過去を思わざるをえませんでした。それでも、どこでも分け隔てなく受け入れてもらったなあという感慨がのこりました。お酒の量も並みたいていでなく、韓国の人たちの底力を感じました。韓国が好きになりました。
その後も縁あって、韓国の人とのお付き合いがあり。2000年前後には何回か韓国に行く機会があり、そこでユン・ドンジュに出会いました。
いま、彼の当時のことを思うと、ハングルで詩を書き続けたというのは、抵抗というより、当たり前のことは、当たり前の世界にたって、やるほかないという洞察のなかでのことのように思います。このような人の出会いは、自ずからわが身が韓国の人たちに迎えてもらえる自分かどうか、と問わずはいません。ユン・ドンチューさんの詩は世界中の人に響いていくとおもいます。

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