薬屋のおやじのボヤキ

公的健康情報にはあまりにも嘘が多くて、それがためにストレスを抱え、ボヤキながら真の健康情報をつかみ取り、発信しています。

“坊主もたまにはいい話をする”と言っては失礼に当たりましょうか。ゴメンナサイ。

2015年11月18日 | 心の病から脱却

“坊主もたまにはいい話をする”と言っては失礼に当たりましょうか。ゴメンナサイ。

 うちは、真宗大谷派、俗に言う“お東”、東本願寺の門徒でして、毎年11月に小冊子「真宗の生活」が配布されます。3分法話が12掲載されているので、これをパラパラッとめくって面白いなと感じた法話を1つ、4年前に記事にしました。
 その後の3年間は小生が格別に興味を抱いた法話に巡り合うことはなく、今年もダメかなと半ばあきらめていたのですが、いやいやどうして、ちゃんとありました。
 それを皆さんにも是非読んでいただきたいと思い、抜粋して紹介することとします。

 まず1つ目が「我が身を照らす教え」[多田孝圓(大阪教区圓乘寺住職)]でして、これは“我が家を「悪人の家」にしたい”というものです。けっして「善人の家」ではない。
 小生、これには恐れ入りました。大いに反省せねば、です。(以下、全文掲載)

 仏法はすべて因縁の道理を明らかにします。原因と原因をたすける条件(無数の縁)によって果報があらわれます。
 腹が立つというこころの動きも、因は内にあります。しかし、それだけでは腹立ちの果が生まれません。縁が与えられなければ、腹が立つという結果は生まれないのです。
 ある家庭のお姑さんとお嫁さんのことです。お嫁さんは朝ご飯を支度して勤めに出ます。「お母さん、あとは宜しくお願いします」と言えばよいのですが、黙って出勤するのです。いつもは特に波風はたちません。しかしある日、犬小屋のポチにお嫁さんが「行ってくるよ」と声をかけたのを姑さんが聞いてしまったのです。「私には何も言わないのに」とたちまち腹が立ったということです。
 「縁のはたらきを法という。おかげさまの仏さんにあわんとたすからん」と曽我量深先生が教えてくださっています。姑さんが、「嫁がけしからん、けしからん」と持ち続ければ、たすからないのです。
 腹が立つという因は、いつも私の内側に充満しているのです。腹を立てさせてくれたご縁に手を合わせて拝めるかどうか、そこが分かれ道になるのです。すぐに腹を立てる根性は、誰のことではない私の中にあるのです。「縁のはたらきを法という」教えをとおして、私が私に遇わせていただくのです。
 曽我量深先生はまた、「善人は暗いが、悪人は明るい」と言われました。
 善人の家と悪人の家があります。まず「善人の家」ですが、お客さんが見えて玄関先でお茶を出された。お客が帰ったのですが、湯呑みがそのままであった。そこへ主人が帰ってきた。湯呑みに気づかず蹴って割ってしまい、「誰だ、こんなところに置いといて」と怒鳴った。すると奥さんは「気をつけて上がってくださいな」と言った。さらにお婆さんが出てきて、「大事にしていた湯呑みだったのに」と言った。
 一方「
悪人の家」ではどうでしょうか。玄関先の湯呑みはそのままです。そこへ主人が帰ってきて湯呑みを割ってしまった。すると、「ごめん」と謝った。奥さんは「すぐに片づけておけばよかった」と謝り、お婆さんは、「怪我しなかったか。あの湯呑みは古くなっていたから替え時や」と言われたということです。
 「善人の家」では、それぞれがお前が悪い、気をつけろと、自分は悪くない善人になり責任を転嫁しています。「善人の家は争いがたえない」と言われます。「悪人の家」では、おたがいに自分が悪かったと責任を共有しています。
 いかがでしょうか。私ならどうするかということです。「私が悪かった」とすぐに言えない。どこまでも自分を立てようとするものを抱えています。
 いつも責任を転嫁して、善人になろうとする我が身の姿が見えてきます。聞法によって教えの光に照らされて、我が身に出遇うのであります。

 いかがでしたか。前半お話は少々難しいと感じましたが、後半の「善人の家と悪人の家」は分かりやすかったですし、是非今日から実行せねばと肝に銘じたところです。
 今年の小冊子「真宗の生活」は、面白いものが(こう言ってはお釈迦様に叱られましょうが)他にも幾つかあり、2つ目を抜粋して紹介しましょう。(以下、部分引用)

 「教え」について[平原晃宗(京都教区正蓮寺住職)]
…地図を見ることと、その場所を歩くことには違いがあります。地図は目的地やそれまでの道のりを一気に見ることができます。しかし、実際に目的地まで歩くことがなければ地図としても役割は果たせません。地図を見て、自分がいる現在地を確認し、次に目的地を探し、道順を考え、実際に歩くことで両者は成立ちます。このことは、お釈迦様の教えも同じで、いくらお釈迦様の教えを覚えたとしても、人生の中で活かすことがなければ学びにはなりません。まず自分が今立っている位置を教えによって確認し、どのように生きていくかという手掛かりをいただくことが大切なのではないでしょうか。
 …私の先輩は、仏教を学ぶことを高速道路のパーキングエリアに例えて説明していらっしゃいます。高速道路は一般道で行くより速いスピードで目的地に着くことができます。これは現代の私たちの生活とよく似ています。日々の生活に追われ、毎日が時間との戦いで、ギアをトップにし、フルスピードで進んでいます。しかし、このような生活を続けていくと、当然身体は疲労し、時には道を間違って、異なった所に行ってしまうかもしれません。このようなことがないように高速道路にはパーキングエリアがあり、目的地によりよく行けるため、身体を休め、心を整え、現在地を確認できるのです。お釈迦様の教えに出会う場所の一つがお寺であります。お寺とは元々、サンスクリット語でビハーラといい、これは休養を意味しています。忙しく、目的がわからずさまよっている現代人にとって、お寺というパーキングエリアで休養し、心を整えることは大切なことであります。また、お寺で教えを聞くことは、自分の今立っている地点が確認でき、目的に向かってよりよく生きていくことができます。お釈迦様の教えは、自分の知識のために単に覚えたりするものではなく、自分の姿を映し出し、人生をよりよくしていくものであるといえるでしょう。(ここでもって法話は終わり

 いかがでしたか。でも残念ながら、こうした“休養所”はどこも看板が架かっているだけで中身が整わず、さまよえる現代人の心を癒すオアシスになりそうもない所がなんだか多そうですから、困ります。自分で何らかの“休養所”を探し出し、心を整えたいですね。
 3つ目を抜粋して紹介しましょう。(以下、部分引用)

 「私を縛るもの」(執筆者名は伏せます)
 以前、お寺の子ども会を開設したばかりのころです。「きみょうむりょうじゅにょらい」のおつとめの練習をしていた時、あまり上手く出来なかったので、私は思わず「今の“きみょうむりょう”は、60点ぐらいかな」と子どもたちに言いました。その途端、子どもたちから「お寺でも点数か!」という声があがりました。
 ドキッとしました。いつの間にか、点数で評価することが当然のように身についているのでしょう。そしていつも点数をつけられている子どもたちが、それに追い立てられることに悲鳴をあげたような気がしました。自分の存在を全部点数で決めて欲しくない、そのことを
全身で訴えているようでした。
…私たちは、その時代や社会の価値観やそこからの目差しに縛られ、それによって自分にも他人にも点数をつけているのです。そしてそのことが当たり前になっているので、なかなかその問題に気づきません。
 そのために、点数や自分の希望を抜きに、自分自身をそのままうなずくことができませんし、世間や社会の価値観・動向に疑問や問題を感じることができなくなっているのではないでしょうか。こんなふうに考えてみると、きっと私たちはいろいろなものに縛られ、事実を認め見つめることについて、妨害するものを、たくさん抱えているのでしょう。(ここでもって法話は終わり
。)

 たしかにそうでしょうが、だったら、どうやってその縛りから脱却するのか、それを説法していただきたかったです。その点、残念です。この法話を採点すると60点か。れれっ!これでは何にも分かっちゃいない。ここは真摯に受け止めねばいかんですね。
 他にも”これはいい話だ!”と思わせられた法話がありましたが、終わりのほうは“念仏を唱えなさい。さすれば救われる”といった類の締めくくりになっていて、“なあんだ”とがっかりさせられました。門徒であっても信仰心がない小生ですから、そうなります。
 まあ、今の宗教界に多くを望めませんが、時々いい法話にめぐり合うことがあって、真宗大谷派が毎月発行している「同朋新聞」から紹介したこともあります。
 このブログの読者の皆様に、心の病からの脱却に少しでもお役に立てるような法話を見つけたら今後とも紹介させていただこうと思っています。
                               (形だけ“南無阿弥陀仏”そして合掌)


コメント    この記事についてブログを書く
« メタボ検診にスパイを送り込... | トップ | がん細胞に“ありがとう”と真... »

コメントを投稿

心の病から脱却」カテゴリの最新記事