大分の土地家屋調査士ブログ

「土地家屋調査士の業務と制度」を中心に、それに広い意味で関連する様々なことについて一人の人間として思うところを書きます。

連載6・・・「更正図」と筆界

2017-06-19 09:15:42 | 日記
ちょっと間が空いたので、前回までのおさらいから。

前回、①地租改正事業の後半に「筆界」が意識されるようになったこと、②しかしそれは現地において個別的にではなく、例外を含む一般的な規準として示され、「決められた」にすぎないものであること、③だから現地においてどこが「筆界」であるかは、個別的には「共通認識」としてあったのにすぎず、その意味で「観念的」なものであること、④この「観念的な筆界」は、現地における具体的な位置で確認され表示されることによって「実存する筆界」になる(「筆界の現実化」)」こと・・・・を述べました。④については、少し先走りの話になってしまいましたが、このように「現実化」された「筆界」とともに、分筆などによって実際に創設された筆界が現実に存在し併存している、というところに問題をややこしくする理由があるように思います。そして、⑤「更正図の作成」というのは「筆界の現実化」にあたるのか?という問題を今回見ることにして、とりあえず結論として「そうは思わない」ということだけを述べたところで終わりました。

先走ってしまったところで論点があいまいになってしまったような気がしますので、もう一度どうしてこういうことが問題になるのか、ということについて(あらためて)書きます。
それは、地租改正~更正図作成の時期に、「筆界」が現地に実存するものとして存在したわけではない、というところにポイントがあります。
そもそも、この時点における「筆界」というのは、完全に「所有権界」と同一のものとしてあります。明治維新後に、土地所有権が「一筆」を単位として「与え」られた、ということがまずあり、その「一筆」の限界、すなわち「一筆」を単位として成立した所有権の及ぶ範囲の限界を示すものとして「筆界」というものが観念されることになった、ということであるからです。
ですから、通常「原始筆界」と言われるものは「原始所有権界」なのであり、それは「一筆の土地」を単位としての「近代的土地所有権」が確立された後に、個別的にではなく一般的な規準として定められた、ということになります。
この「原始所有権界」に対する土地所有者らの認識が「筆界」と言われるものにされた、ととらえられるわけです。
ですから、「筆界」というものが。公的なものとして「設定」「画定」された、ということはないのであり、それは後の時代になって「筆界」だととらえ返された(位置づけられた)ものとして理解する必要があるものです(これが、今述べている「歴史的な問題」とは別の法的・政治的問題になります)。

そのような「筆界」を具体的なあり様の問題として考えると、「筆界」は、個別的には具体的に姿をもって存在するわ両土地所有者における認識(の一致)という形で存在するに過ぎなかった、ということができます。これは、その後区画整理、耕地整理などによって「筆界」が具体的に設定されたりした一部の例外を除いて、普通のあたりまえのこと(常態)であった、ということになります。

そこで、問題です。その常態は「更正図の作成」によって変化を受けなかったのか?更正図の作成によって、事実上筆界が画定されたり、画定に準じる確認(現実化)がなされたのではないのか?ということが問題になります。

・・・と、長い前置きの上で本題に入ります。

「更正図」は、今でも大分をはじめとして多くの地域で「公図」として備え付けられている図面であり、その多くはかなりの精度で現地の状況を表示しているものです。このことから、今日において「筆界」の現地における位置を特定するための資料としての価値の高いものとして評価されています。
このような「更正図」への評価から、「更正図は筆界を表示するものである」と考える向きがあるように思えるのですが、今日においてそのようなものとして利用しうるものであることは確かだとしても、本来的な性格としては違う、ということを押さえておくことが必要なのだと思います。

「更正図」というのは、明治18年から行われた「地押調査」をやり遂げるための必要性から作られることになったものです(明治18年に地押調査事業が始まり、その2年後に「地図更正の件」がだされて更正図の作成が始まっています。)。
だから「更正図」の基本性格は、その元となる「地押調査」の性格を正しく理解するところから始めなければなりません。

地押調査事業は、「改租ニ亜クノ大業」「地租改正以来土地ニ関スル第二ノ大業」(「明治18年地押調査始末」)と言われるものです。実際、事業費用を見ると、地租改正事業における民費が2909万円であるのに対して、その3分の1を超える1093万円が地押調査事業に費やされています(同)。まさに「大業」であったわけです。
このような大きな事業を行ったのは、明治22年の土地台帳の編成へ向けて、土地の網羅的な把握が必要だったから、と言えます。当時の文書での言い方で言うと、次のようなことです。
「客年当省第89号ヲ以テ相達候帳簿様式中ニ示ス土地台帳」は、「毎町村毎地ノ地目反別地価地租等ヲ明カナラシムルモノニシテ固ヨリ必要欠クヘカラサルモノ」である。だから「今此帳簿ヲ編製スルニ当リテハ」「在来ノ帳簿ノミニ憑拠シテ謄写スルトキハ、或ハ実地ノ齟齬セル帳簿ヲ後年ニ伝フルノ虞」があるし、処罰の必要性も出てくる。だから、「此際適宜期限ヲ定メ毎町村ニ於テ在来ノ帳簿図面ニ対照シ一応実地ノ取調ヲ為サシメ」ようにした、ということです。

しかし、この際対象としているものは「第十号訓令誤謬土地整理ノ趣旨タルヤ鎖少ノ広狭ヲ申告セシメ之ヲ訂正増減スルノ意ニアラサル」とされていて、「反別(面積)」をも対象にしているわけではありません(明治18年地押調査始末(明治年月日不詳)。だから、そこでは「筆界」を対象にしているわけでもありません。あくまでも、土地台帳編成に向けて、土地を漏らすことなく網羅的に把握することが必要だった、と言えます。
そして、その目的を実現するために「正確な地図」が必要になった、ということなのでしょう。あくまでも土地の重複脱漏のない把握のために「正確な地図」が必要だということになった、ということなのであり、だから地押調査事業を始めてから2年ほど経った明治20年6月に至って「地図更正の件」が出され、「更正図」の作成が(正確な地図を作りうる近代的測量方法たる平板測量の技術を用いて)なされるようになった、ということになのだと思います。
この更正図の「正確性」は、一つには近代的測量技術の利用という技術的な面で言えることですが、「筆界」を明らかにするための資料という面からみると、それだけではありません。それは、測るべき対象の変化としても言えることです。
すなわち、地租改正事業の際の「課税対象範囲」のみを測るのではなく、「一筆の土地」を測るようになっている、というのが、大きな変化だと言えます。
と言っても、ここでの「筆界」というのは、現地において特定するものとして設定(画定)されたものではありません。その時点で「崖地処分規則」等の一般規準が示されていたわけですが、それを現地において具体的に特定されたわけではないものです。一般規準に基づいて「推定」されるものではあっても、それが本当に「筆界」なのかどうかは確言しえないものとしてあります。
たとえば、「およそ甲乙両地の中間にある崖地は上層の所属とすべし」という一般的な規準が示されているので、更正図の作成に当たっては「崖」の裾の位置を「筆界」と「推定」して測量・作図がなされたのだと思えます。「その従来より下底所属の確証あるもの」の場合にも、それが十分に反映されていたのか、という点については確言はしがたいわけです。

それは、「地押調査」が、「此際特ニ毎町村ニ於テ地主総代人三名以上(実地熟知ノ者)ヲ撰定シ実地取調ニ従事セシムヘシ。」(明治一八年月日不詳 実地取調順序(大蔵省)としていたものであることから強く推測しうるものです。本来であれば「各地主ニ於テ之ヲ調理シ夫々ノ順序ヲ経由スヘキ筈ナレトモ」そうすると「却テ事ノ煩雑ニ渉リ其要領ヲ得ヘカラサルニ付」そのように、「各地主の確認」ではなく「地主総代人」によるもので済ませた、というわけです。
初期のころの国土調査において、各土地所有者の立会を行わずに「区長」だけの立会で進めた、みたいな感覚でしょうか。この場合、「実地熟知の者」だとしても、それがどこまでのものであるのかは(国土調査の例を見てもわかるように)何とも言い難いわけであり、地押調査-更正図作成において「筆界」とされたものは、一般的規準からする「推定筆界」なのであり、両土地所有者の確認を経て「現実化した筆界」だとはみなしえないのではないか、ということです。
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