大分の土地家屋調査士ブログ

「土地家屋調査士の業務と制度」を中心に、それに広い意味で関連する様々なことについて一人の人間として思うところを書きます。

連載5・・・「筆界」の誕生

2017-06-05 14:46:52 | 日記


前回の最後の画像をもう一度載せました。更正図に、地租改正時の「量地絵図」を重ねたものです。
更正図の黒い線が「筆界」を示すものです。地租改正時に実際に現地において測られたのが赤い線です。では、「筆界」はいつ定められて、いつ描かれた(表示された)のか?ということが問題になります。
まずあとのほうの問題から言うと、「描かれた(表示された)」のは、この場合は更正図ですから、更正図の作成された明治20年以降(大分県では「明治21年12月」)ということになります。
では、「いつ定められたのか?」
私の結論を言うと、「定められた時期は特定できない」あるいは「いつ定められたというものではない」ということになります。もっと言うと「定められてはいない」と言ったほうがいいのかもしれません。
こういうと、「定められてもいないものが描かれる(表示される)というのはおかしいのではないか」と思われるかもしれません。その「ちょっとおかしい」ところを見ていくことにします。

地租改正時の「丈量」は、当初は
「耕地ヲ丈量スルハ畔際ヨリ打詰ト心得ヘキ事」(明治八年七月八日 地租改正条例細目(地租改正事務局議定)とされていました。
それについて、「明治9年11月13日内務省達乙第130号」で、
「畦畔之儀、改租丈量之際、其歩数ヲ除キ候ハ収穫調査ノ都合ニヨリ候儀ニテ、右ハ該田畑ニ離ルべカラザルモノニ付、官民有地ヲ不論其本地ノ地種ヘ編入シ券状面外書ニ歩数登記候儀ト可相心得 此旨相達候事」
とされています。畦畔は「田畑に離るべからざるもの」だということを明らかにして、それを「本地の地種に編入」することにしたわけです。
これによって「一筆の土地」は、「畔際」以内の耕作可能地だけでなく畦畔をも含むものとして、今日の「一筆の土地」と同じ範囲を対象とするものになった、と「一般論」としては言えます。前掲の図で言えば、赤い線ではなく黒い線で「一筆の土地」を考えることになった、ということになります。
したがって、これ以降に地租改正事業の中での一筆調査が行われたところでは、このようなものとしての「一筆の土地」の確定がなされたものだと言えそうですが、大分県の場合は、この時点ではすでに地租改正事業が完了しているので、これは反映されていません。また、他の多くの県でも実際にどこまで反映されたのかは、歴史的事実に基づいて判断されるべきものなので、一概には言えません。実証的な研究が必要となる所以です。
では、その「一筆の土地の範囲」はどのようにして定められたのか?ということが問題になります。
その方法は、地租改正の一筆調査が、それぞれの土地について現地において測点を定め、それを測るという現地で個別的に定める形で行われたのとは違って、一般的な規準を「規則」として設けて、それによって「定めたこととする」という形をとった、と言えるでしょう。
それはたとえば、
「およそ甲乙両地の中間にある崖地は上層の所属とすべし」(崖地処分規則(明治10年2月8日 地租改正事務局別報達第69号)というものであったり、
「畑宅地の一筆のみに用いる通路や一筆内にあってその所有主が便宜に設ける小運の類はすべて本地に量入する」、「崖高の地ではその崖脚中の鍬入に必要な土地はこれを本地に量入し、崖脚であって多少の収益のある土地はこれを本地に量入するか若しくは一筆として丈量する」、「一筆の田畑宅地内に孕在する雑種地等はこれを本地に量入する」(「地租条例取扱心得」(明治17年4月5日)というものであったり、
「水流を界とするものは其中心を以てし、山頂を界とするものは雨水分派するところを以てし、道路を界とするものは其中央を以てすべし」(明治9年5月23日「地籍編製地方官心得書」第7条3号)というものとしてあります。
一般的な判断基準を定める形で、地租改正時に赤線で「丈量」したものの外側にある黒線が、どのようなものとしてあるのか、ということを示したわけです。

ですから、「筆界」は現地で決められたり、示されたりしてはいないわけ(これを私は「設定行為がない」と言いますし、「現地に実存するわけではない」と言ってもいいのだと思います)なのですが、それでも一般的な規準によって「決められたようなもの」としてあるようになった、と言えます。それは、筆界に接する両土地所有者を含む地域社会の認識として共有されるようになった、と言えるものです。その意味で観念的なもので、「筆界は観念的に存在するものになった」ということになります。
この「観念的な筆界」のありかたというのは、「筆界に関する地域社会の共通認識」と言うべきものです。このことは、たとえば、「がけ地処分規則」で「およそ甲乙両地の中間にある崖地は上層の所属とすべし」と定められたものの、そのすぐ後に「その従来より下底所属の確証あるものは旧慣のままに据置くべし」とされていることに表れています。
およそ一般的な規準に基づいて個別的な事柄を判断しようとする場合には、「判断の幅」が生まれざるを得ないわけですが、その「判断の幅」に関することを「旧慣」(「地域の慣習)にゆだねることを明確にしているわけです。

そして、この「観念的な筆界」は、ただ単に観念的なだけでなく、「現実化」するものとしてあります。一般的な規準を個別的な土地の筆界に適用して、筆界に接する両土地所有者(ならびに地域社会)において、その現地における位置を特定して確認して、それを「現地復元性のある図面」に表示したり、境界標識を設置したりすれば、「現実に存在するもの」に転化することなるわけです。この「現実化」は実際にかなり行われてきていますし、この「設定行為のない筆界の現実化」と、それ以外の分筆や区画整理などの「設定行為のある筆界」とを合わせると、2億筆とも3億筆ともいわれるわが国の筆界のうちのかなりのものは「現実化」している、と言えるのでしょう。もっとも、特に「図面」での表示の場合、古い時代の分筆を含めて「ピンポイントでの現地復元性」を持つものは少なく「極めてまれ」であるのが実情となっています(これについては、またずっと後にみることにします)。

さて、それでは明治20年以降の「更正図」の作成は(したがって更正図を「公図」としている地域では)、上述の「筆界の現実化」がおこなわれているのか?ということを次に考えてみます・・・・が、だいぶ長くなったので、これは「次回」にします。・・・・・結論だけ言っておくと、私は「否」だと思っています。
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1 コメント

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Unknown (Old Gate)
2017-06-06 17:25:15
連合会で大変お世話になりました。また,広島大学の日本地理学会でもわざわざおいでいただきありがとうございました。

インターネットで調べものをしていたら,
ブログを拝見し,仕事そっちのけでご高察を
拝見いたしました。

丁寧なフィールドワークで面白く拝見しました。論点を再整理・補強する意味で,下記をご参照ください。実地の論証がしっかりしているので,概念を上手く整理できれば,面白いと思われます。

明治の地籍図と筆界・所有権界のポイントとして,
筆界の概念が行政や裁判制度でいつ頃成立したのか
というのが重要だと思います。明治期の境界の処理は,基本的に所有権界です。筆界の概念の成立史についてはAらい先生が,明治期以降の判例を整理されており,昭和初期に筆界という語が出てくるそうです,隣の県にお住まいですし,一度ご相談されてみてはいかがでしょうか?

またお会いする機会がございましたらよろしくお願いいたします。

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