大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

読んだ本 「国際法で読み解く世界史の真実」(倉山満著:PHP新書)

2017-09-29 18:25:25 | 日記
ひさしぶりに「富んだ本」について書くのですが、始めに断っておきます。この本について書く、というのは、「内容が素晴らしいのでみなさんに紹介したい」ということではありません。むしろ、ひどい内容だと思います。著者の見解、考え方、思想、人間性・・・といった、評価基準からすると、かなり低位に位置付けられるもので、とてもおすすめできるようなものではありません。
しかし、現実の「政治」が目を覆うばかりの低水準に堕ちている現状を見るにあたっては、この本で言われているようなことを知っていると、なかなか役に立つような気もするのです。そのような観点から、読み、感じたことを書きます。

今回の「国難突破解散」と銘打った「我難(森友・加計)突破解散」を見るにつけ、あらためて安倍総理というのは、「憲法」が嫌いなんだな、と思わされます。憲法53条の規定に基づく臨時国会の開催要求がなされていながら3か月も臨時国会を開かずにいて、ようやく「開いた」と思ったら即解散、というのは要するに「開かなかった」のと同じです。おそらく安倍総理の頭の中では、「4分の1以上」などという超少数派でも開会要求をできる、などという規定自体が気に入らないのでしょうし、そんなものに従う必要なんかないんじゃないか、という考えがあるのではないでしょうか。
同様の「憲法軽視」「立憲主義否定」の姿勢は随所に見られるわけなのですが、そのような安倍総理は、よく「法の支配」ということを言います。「中国の海洋進出は許されない」ということを主張したりする文脈の中で、この「法の支配」という言葉がよく使われるようです。フィリピンのドゥテルテ大統領と初めて会った時も「法の支配の重要性を確認した」などということが言われました。あの麻薬犯(だと思った人)は無条件に殺してもいい、とするような、「法の支配」の真逆にいるような相手とも「法の支配の重要性を確認」しちゃうんだ、と思って驚いたりもしたのですが(外交関係でそんなことに驚く方がわるいのかもしれませんが)、この本を読むと納得というか理解できるところもあります。
安倍総理の言う「法の支配」における「法」というのは、あくまでも「国際法」のことであり、国内法ではないのだな、ということです。

では、その「国際法」とは何か?この本の著者の乱暴な断言をそのまま借りると次のようになります。
「ヤクザが仁義をどう使うかという技術が国際法なのです。」
「国際法というのは、洋学紳士君がいうような上位法ではなくて、仁義としての合意法であって、土台がやくざの論理なのです。」
「国際法の世界は自力救済を前提としていて、国内法とは真逆であるということです。」
これは、あまりにも乱暴な言い方なのでしょうが、確かに「領土問題」に関する「国際法の権威」の解説を読んでみても、「先占の法理」などの植民地主義時代の感覚がそのまま「法」化しているのが国際法なんだ、と思ったことがあり、これを巧みに使ってきたところに近代日本の発展の一つの要因があった、ということなので、安倍総理の「(国際)法の支配」の主張は、首尾一貫した揺るぎないものだとみることが出来るのかもしれません。

「どちらもひどい」というのは、今回の解散総選挙を見ていても思うことですが、北朝鮮情勢をめぐる米朝(トランプ・金正恩)を見てても感じることです。
安倍総理は、「対話ではなく圧力」を強調していますが、その構図も本書を読むと理解できるところがあります。

著者は戦前の日本について、次のように言います。
「この不戦条約は自衛のための戦争はしてもよい、国外であっても死活的利害地域は自衛権の範囲内という留保がついています。」
「日本が満州でめざしたのは、不当な排日・反日を停止させて、日本に必要な経済圏を確保すること。」なのだ。
「日本が権益を有する満州では、法外な反日・排日運動が展開されています。満州事変というのは、このような状況に置かれた日本が、民族生存のために起こした行動である・・・」252
「石原たちが「自作自演」をしたとしても、それは国際法上の「自力救済」「復仇」の手段としてのものなのです。」
だから「満州事変では違法性が阻却されます」
というようなものです。「歴史認識」についてはさておき、戦前の日本とよく似た北朝鮮金正恩体制からすると、まさに同じような主張ができるのでしょう。経済制裁で石油を全面的に止められてしまいかねないようなことになったら、まさに「死活的利害」にかかるのであり、「自存」のための行動も許される、という主張ができる、ということになるわけです。
「経済的に生きていく自然権である「自存権」は、国境不可侵の原則とは関係ないものですし、自然に考えれば、自存権を行使するために自衛権を行使するという意味での「自存自衛」そのものは特別おかしいものではありません。」
というわけです。
「対話ではなく圧力」というのは、結局のところそこまで追い込むしかない、ということなのではないか、と思えます。

そういえば、北朝鮮をめぐるニュースの中で、前から不思議に思っていたことがあります。北朝鮮がミサイルを発射したり核実験をしたりするたびに、それを「挑発行為」だと言うことです(すべてのマスメディアが横並びでこう言います)。
たしかに、北朝鮮のミサイル核実験は許しがたい暴挙であり、北朝鮮の人々を飢餓に追い込みながら権力だけを守ろうとする極悪非道な行為です。しかし、それは、アメリカなどによって追い詰められ、体制そのものに危機感を持つところから行っているハッタリのようなものでしょう。もしも「挑発」して戦争になったら、韓国・日本にも甚大な被害があるでしょうが、北朝鮮はそれ以上の、トランプの言うような「完全な破壊」に見舞われることが確実なわけですから、それを「挑発」と呼ぶのは、ちょっと違うのではないか、と私には違和感があります。
では、何故私の感覚とは違って「挑発」という言葉が使われるのか?・・・ということが、本書を読んで少しわかりました。著者によれば、
「侵略とは、「挑発されないのに先制攻撃をすること」です。」
とのことです。だから、戦前の「満州」では抗日ゲリラなどによる「挑発」が行われていたから「満州事変」もその後の侵攻も許されるのだ、とする著者の(無茶苦茶な)主張がでてきているわけですが、それはともかく、この著者の定義が正しいのだとすると、常に「北朝鮮が挑発行為をした」と言っていることは、いつ「先制攻撃」をしたとしても、それは「侵略」ではなく、国際法上許されることなのだ、ということにつながる、というわけです。

北朝鮮情勢をめぐっては、「危機的状況の時に解散総選挙などとんでもない」という意見もある中、それに対して「民主主義の原点である選挙が北朝鮮の脅かしによって左右されることがあってはならない」などという理屈にもならないような反論がなされていますが、本当に情勢が危機的なのであれば、そんな時期にわざわざ解散なんかすることはないのであり(政治的判断をすることと、脅かしで左右されることはまったく別問題です)、実はそれほど「危機的」であるわけではない、というのが本当のところなのだと思います。
しかし、その上で、「危機」を演出し、さらに高めていく中で、それこそそれを自らの権力維持のために利用していこうとすることもでてきているわけで、むしろそこにこそ危険があるのではないか、と思わされもします。

そのような意味で、とてもお勧めしたくなる本ではないものの、「反面教師」的には勉強になった本でした。