大分の土地家屋調査士ブログ

「土地家屋調査士の業務と制度」を中心に、それに広い意味で関連する様々なことについて一人の人間として思うところを書きます。

伊勢志摩サミットを見て思ったこと

2016-05-28 15:52:05 | 日記
伊勢志摩サミットが終了しました。テロなどの心配もあった中、無事に終了したのは何よりでした。
しかし、その内容を見ると恥ずかしくなるようなものでした。
新聞の川柳に
珍説を咎めず客がおもてなし
というのがありましたが、本当にその通りで、うまい!と思います。

安倍総理は「リーマン・ショックの際も現在の予測を上回る成長が予測されていたが、危機が発生し、マイナス成長になった」として、現在の世界経済の状態を「リーマンショック前」にある、としました。そしてそこから「その轍(てつ)は踏みたくない」として、世界的な財政出動を求めるなど、「アベノミクス3本の矢を、今度は世界に展開していきたい」とした、ということです。
まさに「珍説」であり、恥ずかしくて仕方ないものです。現下の情勢で求められていることをせずに、的外れな「三本の矢」を自分で射ち続けるだけでなく、そこそこうまくやっている人たちにも自分の誤りの輪に入ることを勧めて得意になっったり、「絶対にやる」と言っていた消費税増税を再延期することを正当化する口実にまでしようとする、というのですから、本当に恥ずかしい、と思わずにはいられません。

そのうえで、上記の川柳です。たしかに、この「珍説」に対する各国首脳の反応というのは、「おもてなし」と言うのに値する「大人の対応」だと思います。
しかし、考えてみれば、これはある程度当たり前のことで、「国際関係」というのは、そういうものなのでしょう。もしも、次回のサミットにアメリカの大統領としてトランプが出席して、「珍説」を滔々と展開したとしても、他国の首脳が表立って否定したり反論したりはしない、・・・そういうものなのでしょう。いやしくも「G7」という枠組みを自ら作り、その中の一員としている以上、それをぶちこわすようなことはしない、というのがたしなみだ、ということなのでしょうから。

同様のこと、というのは、ぐっとスケールの小さいことになりますが、私たちのまわりでもあります。今回のサミットにおける安倍総理のように、明らかに間違った情勢分析や、それにもとづく明らかに間違った方針を、得意になって展開する人がいて、恥ずかしい思いをする、というのは、私たちの世界でもよくあることです。このようなときでも、相手方が「それは違うでしょ」と正面切って反論してくる、ということは、まずありません。適当に受け流して済ませてしまう、というのが通常です。これは、攻守の立場を変えて考えてもそうです。しかし、だからと言って、そこでお互いの諒解ができて、ことがそのように進むのか、というとそういうことはありません。むしろ、馬鹿らしいことを一生懸命に言っている相手への軽侮の思いやら不信感を抱かせるだけ、ということになります。そして、そのことに気づかずにいると、「良好」に見える関係性の中において、実は「力関係」として大きく不利に動いて行ってしまう、ということになったりもするわけです。

そのような意味で(違った意味で)、「危機」は発生し展開しているのであり、これに対する有効な手立てを見出していかなければならないのだと思わされたところです。
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大分県土地家屋調査士会の総会を終えて

2016-05-23 15:05:21 | 日記
先週の金曜日、大分県土地家屋調査士会の総会がありました。

全般的には、今回の熊本地震を受けての土地家屋調査士(会)の役割に関する意見などもあり、それなりの意義を確認できるものであったと思いますが、一部にはきわめて低水準な聞いていて恥ずかしくなるような「意見」もあり、わが業界の水準というところから考えさせられる部分もありました。ある程度の低水準だと、自分自身に対する恥じらいが生まれてきて抑制の機能も働くのですが、あまりにも低水準になると自分に対する反省がないので、恥ずかしげがないだけでなく得意げにさえなってしまうのですね。そのようなものから「全体の水準」を推し量られる、ということもあるので、情けないことではありますが、そうとばかり言ってもいられず、どうにかしなければならないことです。

問題になったのは、今年大分であった法務局による土地家屋調査士への懲戒処分の件です。
この懲戒処分(戒告)は、土地の分筆にあたって、‖量に当たって使用したとする街区多角点を使用しておらず、測量の精度に関する簡単な点検さえも行わっておらず、その結果として1.6mほど誤った座標値を記載したまま分筆登記をした、という案件について、調査士会からの注意勧告がなされ、法務局からの戒告の処分がなされた、というものです。
このような案件について、「単に間違えただけのもので懲戒になるのはおかしい」というようなことを言う人がいます。まったく何を考えているんだか?どういう神経をしているんだか?という「意見」です。
そもそも土地家屋調査士というのは、不動産に係る国民の権利の明確化のために、「間違いのない」ように調査してそれを表示するようにすることを職責とするものです。そのための注意義務を果たすことが必要であり、そのようなことがなされることが期待されて業務独占の資格者になっているわけです。「間違えただけ」というようなことは、何をどう考えれば言えることなのか、まったく理解に苦しみます。

また、この懲戒処分に関することが、大分の地方新聞で報じられたことについても「問題だ」とされました。「調査士会の役割は会員を守ることであり、このような報道は止めるべきだ」というような「意見」です。
しかし、これはまったく間違った考え方です。まず、「調査士会の役割」は「会員を守る」ということにあるわけではありません。「調査士会の役割」は、あくまでも法律で定められているように「業務の改善進歩のための指導・連絡」ということにあります。もちろん、この「指導・連絡」が十全になされて全会員の業務が完璧なものとしてなされるようになっていれば、懲戒処分を受ける会員も出てこないわけでしょうから、結果として「会員を守る」ことにつながりもするわけですが、そのことと「会員を守ることを目的とする」、ということとは全く違うことです。
「身内を庇う」的な行動をとることは、けっして本当の意味で「守る」ことにはなりません。仲間内からでた不祥事に対しては、同じことが二度と起きないように厳しく対応することが自浄能力を示すことになり、大きな意味で「守る」ことにもつながるのだと言うべきでしょう。
こんな当たり前のこともわからないような人が(ごくごく少数とは言え)出てきてしまう、というのは、やはり情けないことですが、だからこそ、そのダメさ加減をしっかりと見つめる中で、次の「改善進歩」につなげていくようにしなければならない、ということを考えさせてくれた総会だった・・・・、と思うようにしたいと思います。

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読んだ本−「戦後政治を終わらせる―永続敗戦の、その先へ」(白井聡著、NHK出版新書)

2016-05-13 10:24:15 | 日記
2013年に刊行されて評判になった「永続敗戦論」の著者による「続編」とも言うべき本です。

はじめに、本題とは離れる感想になってしまいますが、本書を読んでいて、「土地家屋調査士」という存在がつくづく「戦後日本」的な存在なのだ、ということを感じました。これは、「土地家屋調査士」だけに限ったことではなく、戦後の日本の持っていた「均質性」は、あらゆる社会集団を「戦後日本」的なものにしている、ということなのかもしれませんが、それにしても次のような指摘は、本当によくもあてはまるものだ、と思わされてしまいます。

著者は、日本の「対米従属」について、次のように言います。
「冷戦構造が終わった時点で、日本はアメリカにとって、アジアのナンバーワン・パートナーではなくなった。アメリカにとっての日本は、『庇護』する対象から『収奪』する対象になったと言えます。だとするなら、当然、日本の方は、それに抵抗しなくてはなりません。では、なぜ抵抗しないのか。」
「身も蓋もない言い方をすれば、その根性がないからです。つまり、政治家や官僚、あるいは一般国民にまで『永続敗戦レジーム』『対米従属』が深くしみ込んでいるので、長い間慈悲深かったアメリカに対して抵抗するという気概も発想もそもそも出てこない。」

このような類似性というのは、「戦後日本」というものが、どのようなものであったのか、ということから考える必要のあることです。
著者は、55年体制下の自民党は、人々を『包摂』する社会民主主義的な政策をとっていた」とします。それは、「都市の工業によって稼ぎ出された富を農村に分配する。いわば都市から農村への富の分配です。これは利益誘導を通じた包摂の政治であるともいえる」ものです。「様々な談合や汚職も含む利権のネットワークを張り巡らせておいて、要はその中にちゃんと入っていて、おとなしく言うことを聞いている人間にはわるいようにしない」という旧保守のシステムができていた、というわけです。
「談合」や「汚職」といった本来違法なものまで駆使してできていたシステムですから、合法的なシステムについても、強大で優秀な官僚機構を通じて社会を包み込むようなものとして精緻にできていた、と言えます。「土地家屋調査士制度」や他の資格制度も、個別的に見ればそれぞれの合理的必要性を持つものであるにしても、この一般的な条件がなければだいぶ様相の違ったものになってしまっていた、と考えるべきでしょう。
このようなことは、「冷戦下の日本が享受した地政学的余裕」によって可能になっていたものだとされます。しかし、冷戦の終結によって、前提が失われます。この中で「分配を重視する保守であったところの自民党が、新自由主義的な、ネオ自民党へと変貌」して、今日がある、というわけです。
「新自由主義」というのは、「資本にとっての障害を力ずくで破壊し、資本が自由に制約なしに活動できる空間を拓く」ものとされます。その政策の遂行は、当然のこととして「包摂から排除へ」向かいます。「今日、さらなる技術革新が進む中であらためて浮上してきているのは、生産性の向上に寄与しないと判定された人は、社会によって包摂されなくなるということ」が広範に起きている、というわけです。

私たちについても、この「包摂から排除へ」の基本的動向と無縁でいられるわけではありません。「小泉構造改革」のもとで進んだ「規制改革」が、資格制度にもメスを入れようとしたのは、この文脈の中でのことだった、と言えるのでしょう。2回の「政権交代」を経て、行きつ戻りつしている現在の状況は「小休止」状態のように見えるとしても、基本的な趨勢はこのようなものとしてある、ということです。

著者は、「ポスト55年体制を本当の意味で構築するために、いま何が必要なのか」を考えるにあたって、「沖縄が現在、政治的には最先端の地域である」ということを指摘しています。「その理由は、沖縄が『永続敗戦レジームの外部』いるから」だとしていて、これは「今何が必要なのか」ということをについて示唆的なものと言えるでしょう。
話は小さくなりますが、私たち土地家屋調査士の今後のありかたについて考えても、キーワードは「自立」ということになるのでしょう。社会全体としてかつての「余裕」が失われた上での現在においては、「従属」と裏腹の関係にある「庇護」に期待をかけることが現実問題として成立し得なくなっていることを直視して、「自立」すなわち直接「社会」に根差した有用性・必要性を明らかにして、そこに軸足を置いていくことが必要なのだろう、ということです。









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読んだ本−「『憲法改正』の真実」(樋口陽一・小林節。集英社新書)

2016-05-09 05:32:31 | 日記
憲法記念日の改憲派集会に安倍首相はメッセージを寄せ、「憲法は国民のものであります。新しい時代にふさわしい憲法とはどうあるべきかという観点から、自由闊達に議論できる雰囲気の中で、国民が真剣に考え、しっかりと冷静に議論する環境をつくるべきだと思います。憲法に指一本触れてはならない、議論すらしてはならないなどといった思考停止に陥ってはなりません」と言っています。
例によって、自分がやっていることを他人が犯している誤りであるかのように言って非難する安倍首相独特のレトリックではありますが、言っていること自体としては、まさにそうなのでしょう。「憲法」について「国民が真剣に考え、しっかりと冷静に議論する」ことが必要なのです。
「北朝鮮が危ない。中国が怖い。」ということが煽られる中で、まさに「思考停止」に陥ってしまいがちなわけですが、そうならないようにして、「憲法」というものについて、そこに示される日本社会の基本構造について真剣に考え、しっかりと冷静に議論することが必要であるわけです。

そのようなものとして、「護憲派の泰斗と改憲派の重鎮」の二人による対論の本書を読みました。
まず感じたのは、二人の危機感の大きさです 
「私たち日本人は、今までとは違う社会、異常な法秩序のなかに生きている。」(小林)
「立憲主義の破壊という事態がいかに深刻なものなのか。つまりは国の根幹が破壊されているのです。」(樋口)
「法治国家の原則が失われており、専制時の状態に近づいている。そういう状態に、我々は立っている。」(小林)
「2012年に公表されたあの改正草案(自民党憲法改正草案)は憲法と呼べる代物ではない。」「自民党改正草案は、近代法からの逸脱だということです。民主主義的傾向の芽生えのあった明治期への回帰どころか、前近代への回帰です。」(樋口)


そのうえで、さまざまな論点において自民党の「憲法改正草案」の致命的な問題点が指摘されています。その中で、特に印象に残った2つのことについて書きます。

ひとつは、「緊急事態条項」についてです。これについて述べている章のタイトルは「緊急事態条項は『お試し』でなく『本丸』だ」とされています。「緊急事態条項」が、東日本大震災の経験などから「異論のない必要性のある条項」であるかのようなことが言われ、「まずは『お試し改憲』を緊急事態条項から」というようなことが言われているわけですが、とんでもない話だ、ということです。自民党の憲法改正草案で言われているような「緊急事態条項」は、現実的な必要性がないばかりでなく、必要のない国家緊急権を認めることは、草案における国民の権利への制限と合わせて「独裁」「専制」を招くものだ、とされます。
「緊急事態条項」を憲法に入れることの必要性については、自民党の「日本国憲法改正草案Q&A」自体が次のように言っていることが紹介されています。
「緊急政令は、現行法にも災害対策基本法と国民保護法(「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)に例があります。したがって、必ずしも憲法上の根拠が必要ではありませんが、根拠があることが望ましいと考えたところです。」(「日本国憲法改正草案Q&A」P34-35。なお、これは、自民党のホームページで公開されています。https://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf政権与党の「憲法観」を知るためのものとして、是非読んでおくべきものだと思います。)
自ら、必ずしも憲法上の根拠が必要なわけではない、ということを認めつつ、それでも「望ましいと考えた」というのは、何の説明にもなっていません。このようなことからもたらされるのは、「原則と例外を対等に並」べてしまうことであり、非常に危険な「独裁」「専制」への道を切り開いてしまうものになってしまうのであり、認めてはならないことだ、とされています。

もう一つは、「歴史」の問題です。
「仔細かつ冷静に明治維新から敗戦までのおよそ80年間の政治を眺めてみると、紆余曲折ありながらも、日本の政治がとりわけ異常だったのは、1935年から1945年までの10年間なのですよ。憲法の歴史で言うと、1935年とは天皇機関説事件で美濃部達吉が糾弾された年です。天皇機関説事件の後は、美濃部のような自由主義的な憲法学が国禁の説とされ、憲法の解釈がまったく違ってしまった・・・」「天皇機関説事件の以前は、美濃部の説が主流はだったのですよ。政府や議会だけでなく、宮中までもが天皇機関説に納得し、国政すべてがその前提で運営されていたわけですからね。」(樋口)
最近の「集団的自衛権容認の憲法解釈変更」を思い起こさせられるものです。従来は「集団的自衛権容認は憲法違反」というのは、憲法学者の大方の意見であっただけでなく政府としての長年の解釈でもあったのに、ある日突然覆されてしまい、「違憲だ」という考えそのものが「政治的中立からの逸脱」であるかのようにされ、さらには「政府見解と異なる異端」であるかのように言われていしまう最近の日本というのは、「1935年の日本」とどれほど違うのだろう?と考えさせられてしまいます。

あらためて憲法について「自由闊達に議論できる雰囲気の中で、国民が真剣に考え」ることの必要性を感じました。
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「調査士会」という組織について考えた

2016-04-28 05:55:18 | 日記
前回(4月5日)「調査士会」の現状について「なぜそういうことになってしまうのか?それをどう克服すべきなのか?」という課題について、断続的に書いていく、としてから、結構時間がたってしまいました。ようやく始めます。
初めに「調査士会」という組織について考えます。

まずは、直接は関係のないことですが、新聞を読んでいて「同じ構造だな」と思ったものがあったので、まずその紹介から。
「異次元緩和では経済の好循環を生みだせなかった。それがはっきりしてきたのに当局は政策をやめようとしない。それは当面この状態が最も心地良いからではないか――。
 当局者たちが、将来リスクに目をつぶって目先の安定を求め、「とりあえず現状維持で」という気分になっていないとは限らない。
 財務省や日銀の関係者に、その疑問をぶつけてみた。全員が「一刻も早く出口を迎える方がいいに決まっている」と言って否定した。ただ、何人かはこんな言い方で付け加えた。「一人一人はそう思っている。ただ、組織としては結果的に今の状態が楽だという気分になりかけている」(朝日新聞4.12朝刊「波聞風問」)
「将来リスクに目をつぶって目先の安定を求め」る傾向、特に目先の安定を求めてはいけないと「一人一人はそう思っている」にもかかわらず「組織としては結果的に今の状態が楽だという気分にな」ってしまうような傾向、というのが、私たちにもあるのではないか、・・・ということです。

・・・ということで、本題に。

調査士会というのは、そもそもどういう組織なのか、それが歴史的に時代の中でどう考えられてきたのか、ということを考えます。

「調査士会は、法律で定められたことだけをやっていればいい」と言う人がいます。このように言われたとき、「法律で定められたこと」というのは何だと考えるのか、ということが問題になります。
こういうことを言う人にとっては、「登録事務」、「法務省からの連絡事項の伝達」、「特別研修」といったところが「法律で定められたこと」だということになるのでしょう。確かに、「調査士会」というものが出来たばかりのときに考えられた「調査士会の役割」というのは、こうしたものであったのかもしれません(その頃に「特別研修」はありませんが・・)。
調査士法の定めている調査士会の役割というのは、「会員の品位を保持し、その業務の改善進歩を図るため、会員の指導及び連絡に関する事務を行うことを目的とする」ものだとされています。
この目的というのは、純粋に「公益的」なものです。それは、調査士会の成員である土地家屋調査士の利益のためのものでも、土地家屋調査士を管轄する役所(法務省)の利益のためのものでもなく、あくまでも「公の利益」のためのものであるわけです。
とは言え、現実の問題としては、調査士法が定められ、調査士会が発足した当初においては、この「公益のため」ということは、「官庁のため」ということと、ほぼ同じ意味でとらえられていたのだと思います。「会員の指導・連絡」というのは、法務省の指示を伝達したり、連絡事項を伝えたりすることであり、それをもって「すべて」と考える考え方です。ですから独自の「業務の改善進歩」へ向けての活動などは「余計な事」だと考えられ、するべきではない、という考え方が支配的になります。このような考え方を「第一期型」と呼ぶことにします。この考え方自体は、少ないとはいえ残っているものだと言えるでしょう。

ところが、組織というのは自己運動していくものです。特に、一定の人間集団を成員としているわけですので、「成員の利益のため」という志向性をもつようになります。この「成員の利益のため」ということが全面化していくと、「利益団体」化ということになります。そして、その実現のために外部へ向けて力を尽くすようになると「圧力団体」化します。これは、成員の利益を脅かすような動きに対しては「抵抗勢力」として現れます。このようになったものを「第二期型」とします。この考え方は現在も根強くある考え方です。

しかし、あまり露骨に「利益団体」化してしまうと、本来の趣旨との乖離が問題とされるようになります。これは、基本的な「哲学」の問題としてもそうですが、それだけではありません。「時代」ということがあります。社会全体が「今までどおりはやっていけない」時代に入り、「改革」が問題になってくる中にあっては「現実論」としても露骨な利益団体化は社会からの反発を受けて、かえってマイナスになります。そのような状況下では、「変らずに生きてゆくためには、自分が変らねばならない」として、社会の変化に対応して社会的な存在意義を明らかにしなければならない、ということになります。十数年前からの規制改革、司法制度改革の時代の中における調査士会の変化は、このような社会的環境によっていた、と言えるでしょう。「第三期型」のものです。
ここでは、「公益」の中身が問われます。所管庁の言う通りに動いていたらそれが「公益」になる、ということではなく、調査士業務というもの自体が、どのようなものとして社会に役立つものになるのか、ということが問われるわけです。そのようなものに変わっていかなければならない、ということが、課題となるわけです。
この時期というのは、「変わっていかなければならない時期」ですから、「過渡期」であり、それ自体として一つの「期」として見るべきものではない、というのが本来的な見方でしょう。しかし、現実の問題として、この過渡期はかなりの長い年月に及んでいますし、「変わった後」の期が、現実の問題としてまだ来ていないところでは、ひとつの「期」として見いいのではないかと思えます。

では、なぜこの「第三期」で止まってしまっているのでしょうか。日本の政治が「55年体制の崩壊」以後に新たな政治体制を確立しえていないこと、日本の経済がバブル崩壊以降新しい経済構造を確立し得ていないことを受けて、要するに全社会的な「改革」の流れが紆余曲折の袋小路に入って小休止的状態にあることが、背景にあって、調査士会の世界もその反映によって歩みを停滞させている、と言えるのでしょう。
この中で、ただ「止まっている」だけでなく、「次」に進めないのなら昔のように戻ってもいいのではないか、という考え方が出てきているし、現実はそのようになってしまっている、というのが現在の問題です。「次」が見えない中で「何もしないでもいいだろう」という感覚や、「自分たちの利益の追求」という昔の姿への志向性もでてきて、それらが錯綜する中で、「何をしていいのかわからないから止まっている」という形になっているのが現状、と言えるでしょう。そしてそれは、結局のところ「第一期」に戻るのと同じような形になってしまいます。
「第一期」的なありかたというのは、基本的にすでに歴史的な役割を終えてしまったものです。これにしがみついていたのでは、社会的な役割を果たせず、社会において不要なものだとされて行ってしまうことになります。
・・・今日はここまで。
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