大分の土地家屋調査士ブログ

「土地家屋調査士の業務と制度」を中心に、それに広い意味で関連する様々なことについて一人の人間として思うところを書きます。

読んだ本―「世界史の大転換―常識が通じない時代の読み方」(佐藤優 宮家邦彦:PHP新書)

2016-07-26 17:28:38 | 日記
初めに「余談」。「ポケモンGO」について、わからない・・・。
こんなことが世間の大関心事になる、というのは、「平和」だなぁ、と思います。でも、世界は、本書が示しているようにけっして平和ではなく、むしろ「動乱」「戦争」に近づいているようです。その「危機」と表面的な「平和」のコントラストって何なんだ?と思ってしまいます。「テロの脅威」が喧伝され、インタビューを受ければ「テロが怖いです」と言う人々が、「ポケモンがいる」と言われる所に殺到していく、っていうのは何なんだろう?この程度のもので、いともたやすく大衆が動員されて、一定の方向に向かって進まされる、と言う姿は、やっぱり「平和」ととらえるべきものなのではなく、恐ろしい事なのかと思えます。

さて本題。
まずは、本書は、世界の各地で動いている「現実」を知ることができるもので、勉強になりました。
「1.ポスト冷戦の終わり、甦るナショナリズム」「2.ISを排除しても中東情勢は安定しない」「3.中央アジアは「第4次グレートゲーム」の主戦場」「4.「国境のない欧州」という理想はテロで崩れるか」「5.トランプ減少に襲われたアメリカの光と闇」「6.中国こそが「戦後レジームの挑戦者」だ」「7.「ダークサイド」に墜ちるなかれ、日本」・・・・の各章からなる本書は、最近の世界情勢について、全く知らなかったことを教えてくれるもので、勉強になります。
これらは、とにかく「事実」をめぐることなので、著者たちのような「専門家」から教えてもらえるのはありがたいことです。

ただし、「事実」と言っても、なまの事実のすべてが伝えられるわけではなく、それを伝える人の認識と言うフィルターを通ったものである、というのは当然のことです。そういうところから、時には眉に唾をつけて聞かなければならないこともありますし、その「認識」の上での行動指針的なことにいたっては、さらにそのまま真に受けるわけにはいかないことになります。

著者らの世界情勢への認識は一言で言うと、”世界は危機に直面している”ということになるのだと思います。世界のあらゆるところで自分の利益のことしか考えない悪い奴らが角突き合わせていて、その矛盾はすごい速度で亢進して行っている、ということが、さまざまな「事実」として伝えられます。なるほど日本の「平和」な窓から見ているだけでは、世界は理解できないのか、と思わされるようなことばかりです。こういうことを「知る」というのは、まずは大事なことなのでしょう。

しかし、そのように「世界」を見ている著者たちの、「日本」に関する分析や方針を聞かされると、それまで「なるほど」と思わされたことを含めて「本当かな?」という気分になります。たとえば
「社会の分断を阻止する発想からすれば、奨学金をもらえる人に対するもらえない人の反発が強まる給付奨学金制度はデメリットが大きい。しかも貧困層に限って給付するとなれば、富裕層が反発し、貧困のレッテルを貼られた受給者が差別されかねない。消費金額の多い富裕層なども恩恵にあずかる軽減税率の方が、全階層の反発が少ないと私は思います。」(佐藤優)
などと言うわけですが、すでに「社会の分断」すなわち富裕層はますます富み、貧困層はますます窮迫していくことが現実に大きな問題だと認識され、それへの対策が根本的に求められている、という今日に、こんなのどかな処方箋しか書かない、というのは、それ自身として国民を欺くもののように思えてしまいます。

・・・ということで、あまり納得のいかない部分もおおくあるものですが、ひとつの知識として考えれば、それを得ることは有意義なことでしょう。
たとえば、、次のような指摘は私たちの業務とのかかわりで捉えることのできるものです。
「国境を線で規定すること自体、近代欧州で生まれたここ百五十年程度の思想です。事実、日ロ通好条約(1855年)では千島列島の択捉島と得撫島のあいだ、つまり会場に国境線がひかれる一方、陸地の樺太ではこれまでどおり、両国民が自由に行き来可能な雑居地として、明確な国境線は定められなかった。緩衝地帯(バッファー)として機能する『面』の国境です。」(佐藤優)
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「士業の業務範囲」

2016-07-19 16:44:49 | 日記
「今求められる『時代に応じた資格制度』とはどのようなものでしょうか。本来、すべての資格者、すべての士業は国民に理解し活用してもらうことを目指しているはずです。国民を置き去りにした『資格者のための資格者制度』では、到底社会に受け入れられるはずはありません。したがって、目指すべき資格制度の形は国民目線で探してこそ、見えてくるものだと考えています。」
「しかしながら現実は、国民の声などとの説明が付かない、国民の中に浸透したはずの士業の業務範囲を遥かに踏み越えた業務拡大を目標に掲げる士業もあり、このままでは国民生活は資格者によって利便性を高めるどころか、混乱と不審の社会に陥ってしまうのではないか、と危惧します。」
このように言われている文章を目にしました。ここで言われていること自体は、まったくその通りだと思います。
しかし、「言うこと」と「やっていること」との間には、大きな崖のような段差があるのだな、とも思わされます。

この文章は、日本行政書士会連合会の会報「月刊日本行政」の巻頭に、日行連会長が「就任1年を経て」ということで、ごくごく基本的なことを述べた文章です。繰り返しますが、そこで言われていること自体は、きわめてまっとうなことです。しかし・・・、と思ってしまいます。

たとえば、「国民の中に浸透したはずの士業の業務範囲」ということが言われています。このことについて、同じ文章の別の場所では、次のように言われています。
「法律上、行政書士業務は非常に広範囲にわたります。」「一人の行政書士があらゆる行政書士業務について深い法律的識見を持ち、その手続を極めることは、ほぼ不可能なことと言えるでしょう。だからこそ各行政書士は業務経験を積むにつれそれぞれの得意分野を見付け出し、そこに特化して高度な専門的技術を磨いていくことになります。」
部分的にはいかがなものかと思う部分もありますが、全体として行政書士の実情を素直に描いている、と言えるのでしょう。
しかし、そういうこと(「非常に広範囲」「一人の行政書士があらゆる行政書士業務について深い法律的識見を持ち、その手続を極めることは、ほぼ不可能なこと」)なのであれば、その「行政書士の業務範囲」というのは広すぎる、ということになるでしょう。
たとえば、①から⑩までの業務範囲があり、ある行政書士は①、別の行政書士は③と⑦、また別の行政書士は②と⑤と⑩を「得意分野」にしている、という実態があるのであれば、「行政書士の業務範囲」として①から⑩までを設定する必要はないように思えます。①から⑩までのフルスペックが「国民の中に浸透したはずの士業の業務範囲」だということはできないでしょう。実態として部分的なのが実態なのだとすれば、「国民に浸透している」のもその部分的なものだ、とするべきです。
にもかかわらず、「①から⑩までが行政書士の分野だ」と言い張ること、そしてその意味を「行政書士の専権業務だ」とする、ということこそ「国民の中に浸透したはずの士業の業務範囲を遥かに踏み越えた業務拡大」志向の姿勢であり、「国民のため」と言うより「資格者のため」の姿勢であるように思えてしまいます。

・・・とは言え、私自身としては「業務拡大」志向自体が悪いことだとは思いません。自分たちの業務能力を高めて、それを国民生活のために役立てていきたい、という志向性はあって然るべきものです。それなしに既存の「業務範囲」とされているものをただ守ろうというのでは、「既得権益の維持」を求める「資格者のための資格制度」になってしまいます。
この点は、わが土地家屋調査士にも(特に)言えることです。
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読んだ本-「村上春樹はむずかしい」(加藤典洋著:岩波新書)

2016-07-13 18:13:34 | 日記
参議院選挙が終わりました。いろいろと考えさせられることのあった参議院選挙ではありますが、今日は、全く関係ない話。

この1年間くらい、村上春樹を集中的に読んでいます。
「集中的に」と言っても、私が村上春樹を読む時間にあてているのは就寝前の一時(これは昔風の「2時間」の意味でも、現代風の「1時間」の意味でもなく、むしろ「一瞬」に似た感覚の言葉です)にすぎないので、大した時間ではありません。ですので、時間が結構かかってしまっているのですが、最近、ようやく主要な作品はほぼ読んだ、と言えるところまで来ました。

私は、今回読み始めるまで、村上春樹をほとんど読んだことがありませんでした。「食わず(読まず)嫌い」というやつです。
では、なぜ「集中的」に読み始めたのか、と言うと、それまで「食わず(読まず)嫌い」だったものが、「食っても(読んでも)嫌い」だと思ったからです。世界中に翻訳され、熱狂的に(と言ってもいいほどの勢いで)読まれている(ついでに言えば、ノーベル文学賞の受賞さえ取りざたされている)作家の作品がこんなに愚劣なものでいいのか?・・・と、とっても疑問に思ったからです。

そう思ったのは、「ノルウェイの森」です。実はその前に「1Q84」を、これはある程度の期待をもって(「食わず嫌い」のはずなのに矛盾するようですが・・・)読み、ある程度の面白さは感じながら物足りなさを感じていたので、「一番売れた」(?)という「ノルウェイの森」はもう少しいい作品なのかもしれない、と思って読んでみたのですが、読んでみてびっくり。私は、この作品にほとんど何もいい点を見出せませず、むしろ、本当に愚劣な作品だと思いました。こんなことでいいのか?村上春樹!こんなことでいいのか?ノーベル賞!といった感じです。(ノーベル賞はまだ受賞したわけではないので、えん罪ですが)、といった感じです。
これは何かおかしい・・・・、ということで、もう少し村上春樹を読んでみよう、ということにしました。

その上で、初期の作品をいくつか読んでみて、やっぱりその良さがさっぱりわかりません。まぁ、私には村上春樹は合わないのだね、と済ませればいいだけの話なのですが、どうもそれだけでは済まないような気になるところが残ったので、ちょうどそのころ発行された本書を、著者が村上春樹を高く評価するのはどういうところなのか、という観点で読んでみることにしたわけです。
そして、本書を読むにあたっては、やっぱりその前提として村上春樹をもう少し読んでおかないと話にならないだろう、ということで、主要なものはほぼ読み終えるところまで至ったわけです。

その上でようやく至った本書を読んでみての感想は二つです。ひとつは、タイトル通り「村上春樹はむずかしい」のだね、ということです。もう一つは、「嫌いな理由がすこしわかった」というところです。

まず、著者の言うところを少し紹介します。
(「風の歌を聴け」について)「これが、日本の戦後の文学史に現れた、最初の、自覚的に『肯定的なことを肯定する』作品だった」「それは、ひるがえって言えば否定性を否定するということだからである。『否定性』とは何か。それは、国家なるものを否定すること、富者なるものを否定すること、現在の社会を構成している理不尽なるものを否定することであり、つまりはこの否定性が、身分制を倒し、近代社会を実現し、これをより民主的な社会へと推進させてきた近代の動きの原動力に他ならない。」「『肯定的なことを肯定する』とはこの『否定性』への文学の依存を断ち切ることを意味しているのだ。」
なるほど、私が村上春樹をいいと思えないのは「否定性への依存」のせいか?・・と反発を覚えながら(つまり全然納得はしないながら)少しわかった感じです。
「『否定性』が従来のかたちのままでは文学を生き生きと生かし続けられない、そういう社会の変換点が来る。そしてそれはどのような社会にも不可避でまた、文学的に普遍的なことである、そこで、従来の『否定性』に依存しないで、また『欲望』を否定することなく、どのように新しい―またそう言いたければ真摯な―文学を作り上げるかが問題となる。ここにあるのはそういうポストモダン期の問なのである。」
とも言われています。最近読んだ本の中で「ポストモダン」を標榜するものの中身をよく見てみると「プレモダン」に過ぎないものが多い、というような指摘がされていましたが、たしかにそのように思わされるところです。
この村上春樹における「否定性の否定」について、著者は「悲哀を浮かべている」ものだとして、そこに文学的な課題や価値がある、としています。でも、そうでしょうか?私には、「悲哀を浮かべている」ように見えるのは、そのふりをしているだけに見えてしまいます。そこが鼻につく、とても嫌いなところです。このことは「ノルウェイの森」に顕著です。

著者は、初期の村上春樹の作品の示すものを「デタッチメント」という言葉で集約します。「デタッチメント」は「コミットメント」の対義語で「世間に同調することを拒み、社会との間に距離を置くこと」とされます。そして、
「この消極的な姿勢は、いまや否定性の『塩』が聞かないポストモダンの時代における彼の精いっぱいの抵抗の姿でもある。」
そして、そのような
「自分のスタイルを貫き、自分のやり方をもち、世間に流されない自分を保持すること―世の中から距離を置き、マクシムを保つこと―が、そのしゃれた主人公の生活ぶりと生き方と相まって、『シラケ』の時代における『否定性』の新しい越冬用の雪穴として受け止められるのである。」
とされます。しかし、本当にそうなのか?「しゃれた生活ぶり」は付随的なものではなく、むしろこれこそが本質になってしまっているのではないか、と私には思えます。そして、その「しゃれた生活」が行き着くのは
「自分では自分なりのスタイルを貫いてきたつもりだったが、自分はいまや、汚らしい中年男と同じだ、という感慨が不意に彼を襲う。」(著者が「ファミリー・アフェア」を要約的に紹介している部分)
というところです。
このようなことが言われる、ということは、少なくともこの時点では、「否定性の否定」「デタッチメント」への反省も現れてきている、ということなのでしょうし、確かに最近の作品では、それまで避けてきた個人的な問題(小さな主題」)にも向き合い、また「大きな主題」にも手をかける、ということになってきていて変わって来ている、ということなのではありましょう。そこに著者は期待もしつつ、物足りなさを感じている、ということであるようですが、私は、やっぱり「越冬用の雪穴」をぶち壊して「否定性の否定」を否定する方向に向かわないと本当のことは始まらないのではないか、と著者とは反対の方向で思います。

・・・と、いろいろと納得のいかないところを残しつつ、それにしても本書を「案内人」として、これまで食わず嫌いだったものを食べてみて、これまで考えもしなかったことを考えることができた、というのは、それなりに有意義なことだったのでしょう・・・・、と思っています・・・。


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読んだ本―「アホノミクス 完全崩壊に備えよ」(浜矩子著:角川新書)

2016-07-08 10:03:31 | 日記
参議院選挙の街頭演説で、麻生財務相が次のように言ったそうです。 
「アベノミクスの宴は終わった」。これ岡田(克也・民進党代表)とかいう人がしゃべってる。ぜひ、頭に入れといてもらいたいんだけども、どうして「終わった」というのに円が高くなるんですか。円が高くなるということは、皆が円を買っているということです。悪けりゃ円は売られるんです。どうして日本の国債がマイナスの金利でこんなに売れるんだい。どんどん買われてるんだよ。アベノミクスの宴が終わった、という話がいかにいい加減か如実に表現してますね。(名古屋市での街頭演説で)
「円安(→株高)」誘導を主内容とする「アベノミクス」の成否が問われるのに対して「円高だから終わってない」というのはすごい理屈です。こういう「デマ」ともいうべき理屈にもならないような話で「この道を、力強く、前へ」行ってしまっていいのですかね。

私自身は、「アベノミクス」というのは、サラ金で金借りてパチンコやったら儲かったので調子に乗って続けようとしている、というくらいのもののように思っています。たしかに大きな危機の時に「異次元」の対応が必要なこともあるのでしょうが、3年以上もやっててまだ「道半ば」というのは明らかにおかしなことです。少なくとも所期の目標は達成できない、という意味での「失敗」を認めながら次の方策へ移行すべきなのだと思いますが、その可能性は限りなく低いようで、今後どうなることか考えなければなりません。

さて、本書は、その「アベノミクス」に対する批判の書です。活字が大きくて薄い本なので、さほどの内容があるわけではなく、ただ悪し様にこき下ろしている、という感じも受けてしまう(「アホノミクス」と言いたい気持ちもわからないではないけれど、そういっちゃうと冷静な批判の部分が見えにくいですよね・・・)のですが、その中で二つ「なるほど」と感じた事について書きます。

一つは、ごく基本的で当たり前のことです。
「こうした人間の絶妙なバランス感覚が、経済活動を常に近郊に立ち戻らせようとする。経済政策は、こうした経済活動の均衡模索過程を手助けするために存在する。何らかの要因で均衡化の力学が上手く働かなくなった時、その要因を除去して近郊に向かう道を開通させる。それが経済政策の仕事だ。」
アベノミクスというのは、全く逆に「経済政策そのものが均衡は期的に働いて」しまっている、そこが問題だ、というわけです。「経済活動」そのものの「バランス感覚」とそれを補完するものとしての「経済政策」というのは、楽天的すぎる捉え方のようにも思えますが、「政策」的な対応を求められる時に、何をどこまでできるのか、ということをめぐっては、あらためて確認すべきことのように思いました。

もう一つは、個別的な問題です。これまで私は、安倍首相が「同一労働同一賃金を目指す」という方針を打ち出したことの意味がよくわかりませんでした。格差の拡大が問題になる中で「同一労働同一賃金」というのは、困難ではあるが重要な課題としてあります。それがストレートに目指されるなら、それはそれでいいのだけど、はたして?・・・というところです。
著者の紹介しているところによると、経団連が2008年に発表した「経営労働政策委員会報告」では、「同一価値労働とは、将来にわたる期待の要素も考慮して、企業に同一の付加価値をもたらす労働である」とされている、ということです。
「同一」とか「労働」とか「価値」とかいう言葉が並んでいますが、このような考え方は「同一労働同一賃金」とはまったく正反対の意味をもつものです。
しかし、だからと言って全く関係ないのか?というと、「法の支配を唱えながら立憲主義を踏みにじる」ということが実際に行われてきているわけで、油断しているうちに「似て非なるもの」にすり替えられてしまう、ということがあるのかもしれません。注意してみておくべきことかと思いました。

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読んだ本―「憲法の無意識」(柄谷行人著:岩波新書)

2016-07-05 17:08:16 | 日記
「憲法の無意識」というタイトルは、読んだだけではすぐには意味がわからないですね。これについて、著者本人が次のように解説しています(2016.6.14朝日新聞)。
「9条は日本人の意識の問題ではなく、無意識の問題だからです。無意識というと通常は潜在意識のようなものと混同されます。潜在意識はたんに意識されないものであり、宣伝その他の操作によって変えることができます」 「それに対して、私がいう無意識はフロイトが『超自我』と呼ぶものですが、それは状況の変化によって変わることはないし、宣伝や教育その他の意識的な操作によって変えることもできません。フロイトは超自我について、外に向けられた攻撃性が内に向けられたときに生じるといっています」 「超自我は、内にある死の欲動が、外に向けられて攻撃欲動に転じたあと、さらに内に向けられたときに生じる。つまり、外から来たように見えるけれども、内から来るのです。その意味で、日本人の超自我は、戦争の後、憲法9条として形成されたといえます」
「9条は確かに、占領軍によって押しつけられたものです。しかし、その後すぐ米国が再軍備を迫ったとき、日本人はそれを退けた。そのときすでに、9条は自発的なものとなっていたのです」 「おそらく占領軍の強制がなければ、9条のようなものはできなかったでしょう。しかし、この9条がその後も保持されたのは、日本人の反省からではなく、それが内部に根ざすものであったからです。」
本書(の前半)で説かれているこのような内容は、戦後の日本において、絶対的な政権与党である自民党が一貫して「改憲」を党是として掲げながらそれを実現できずに来ていること、特に最近安倍政権が「自分の政権のうちの改憲実現」を目指しながら、実際の選挙になると「改憲の争点化」を回避して逃げまくることになることの理由を明らかにするものとして説得的です。
でも、理由がわかったからと言って、それだけではあまり意味がないのでしょう。本当の改憲ができないのなら「解釈改憲」が無制限に行われていって、「本当の改憲」並みの「効果」をもたらす、ということもあるわけで、たとえその後にもう一度「憲法9条」に戻るのだとしても、その代償はあまりにも大きいというべきでしょうから。
問題は、このような「無意識」を成立させる日本社会の特質と、それが世界システムの中でどのような意味を持つのか、ということを明らかにすることにこそあるのだと思います。このことがはっきりすれば、今実際にどうしていくべきなのか、ということを考えることができます。本書は、その課題に答えてくれているものです。
特に世界システムについての把握の仕方を面白く読み、勉強になりました。次のように言われています。
「『資本主義の歴史的段階』とは、国家の経済政策、しかも、・・ヘゲモニー国家の経済政策である」(経済学者宇野弘蔵から)
「自由主義とはヘゲモニー国家がとる経済政策です。そして、帝国主義とは、ヘゲモニー国家が衰退して、多数の国が次のヘゲモニーの座をめぐって争う状態です」(歴史学者ウォーラーステインから)
「私は、歴史的段階の意向を60年の単位で見ています。つまり、ひとつのヘゲモニー国家が存続するのは、60年だということです。そのあと、ヘゲモニー国家が不在の時期が60年続く。したがって120年で、循環することになります」

それでは、「今」は、どのような時代としてとらえられるのでしょうか?
「アメリカがヘゲモニー国家となったのは、第一次大戦後です」ということで、第二次大戦から戦後を含めてアメリカというヘゲモニー国家を戴く世界システムがあり、それが1980年代以降に衰退していった、ととらえられます。「新自由主義」はその中で出てきたものとされるわけです。
そして、東アジアについては、「現在の東アジアの地政学的構造が形成されたのは、日清戦争(1894年)のころ」だとされ、「東アジアの状況に関しては、いつも第二次世界大戦前、つまり1930年代と比較され」るけれど、それよりも「120年前、すなわち1890年代のこと」に注目して、歴史の教訓に学び、現在の諸問題に立ち向かうべき、とされます。
本書の後半は、世界史的な把握の上での現在の課題、ということを考えさせてくれるものでした。
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