大分の土地家屋調査士ブログ

「土地家屋調査士の業務と制度」を中心に、それに広い意味で関連する様々なことについて一人の人間として思うところを書きます。

「土地家屋調査士制度グランドデザイン」

2017-01-23 18:55:39 | 日記
先週、土地家屋調査士会の全国会長会議が行われた、ということです。私自身はもちろん出席していないのですが、資料類をみせてもらいました。

その中に「土地家屋調査士制度グランドデザイン(案)」というものがありましたので、それについて書きます。(これらの資料は全国の各会に送られているものですので、関心のある方は各会に問い合わせてみてください。)


この「グランドデザイン」については、この2年間ほど検討が行われてきたもの、ということです。その検討に当たった人たちはよく知っている人たちですし、優秀で真面目な人たちであることも知っているのですが、少なくともこの「案」としてまとめられたものを見る限りにおいては「土地家屋調査士制度のグランドデザイン」なるものを描こうとすること自体に無理があり、ただ「グランドデザインは描けない」ということを自白してしまっただけのもののように思えてしまいました。・・・内容を見て行ってみましょう。

冒頭で
「地籍制度全体が検討されている時代に、登記制度を基盤にした土地家屋調査士制度だけが変わらないでいられるはずがない。」
と言われています。問題の立て方がちょっとおかしいような気もするのですが、それはさておき、確かに「変わらないでいられるはずがない」というのは確かだと思います。

「グローバリゼーションが進む中で生き残るためには、なぜ日本には土地家屋調査士が必要かを説明する必要がある。その説明が合理的でなければ、今のままの土地家屋調査士は生き残ることができないであろう」
とも言われています。「グローバリゼーション」が根本的な理由のように言われるのはちょっと違うように思いますが、「なぜ日本には土地家屋調査士が必要か」を明らかにする必要がある、というのは確かにその通りなのだと思います。そうでなければ「生き残ることができない」というのもその通りです。

しかし、この「生き残る」ということについては
「日本土地家屋調査士会連合会としては、どんな時代になっても、専門家として土地家屋調査士が生き延びる方策を考えていかなければならない。」
とも言われています。「土地家屋調査士が生き延びる方策」が必ず考えられなければならないものとされているわけです。

しかし、そうなのでしょうか?それが出発点にある、ということがおかしいのだと思います。
目指すべきものは「土地家屋調査士が生き延びること」に置くべきなのではなく、「土地家屋調査士が社会的に有意義な存在としてあること」に置くべきです。もちろん、「社会的に有意義な存在としてあること」が実現できるのであれば「生き延びる」こともできることになるでしょうが、それは結果としてのことであり、「生き延びること」を目的として置く、というのは違うのです。

最近流行りの言葉で言うと「土地家屋調査士ファースト」の考え方、ということになるのでしょうが、それは、「既得権益保持であり、「土地家屋調査士エゴ」になってしまうのです。そして、そのように振舞っていると、社会的にはじきとばされてしまうことにもなります。

実際、「グランドデザイン」の内容を見ていると、その名称の意味する「壮大な」ものにはなっておらず、極めて手前味噌で我田引水的なものが目についてしまいます。
たとえば、「土地家屋調査士は、不動産に関するすべての情報を土地家屋調査士、明確化しうる唯一の国家資格者である」というようなことが言われていますが、その根拠は何でしょう?それこそ「合理的説明」が求められるのだと思いますが、論証なしの言いっぱなしです(単に筆が滑っただけなのかもしれませんが)。
一方で、土地家屋調査士の世界に広がる「不都合な真実」に目を向けながら、それらを正面から問題にし続けてしまうと身も蓋もないようなことになってしまうので途中でやめてしまって、「土地家屋調査士の強みは、測量能力を生かした調査と法律判断である」などという、全く実証されない言い古された自画自賛で集約してしまっているのは、いささか残念です。

自分たちが生き残ることを目的にして「グランドデザイン」を描こうとする、という発想法そのものを改めないと、本当の意味での壮大な設計はできないのだと、つくづく思いました。


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2017年が明けて・・・

2017-01-15 15:36:32 | 日記
新しい年が明けても、ニュースでしょっちゅうトランプ次期米大統領の顔を見なければならない日が続いています。本当にアメリカの大統領になるわけですからしょうがないことですが、国内ニュースだけでも辟易している上に国際ニュースも観るたびに暗い気分になってきます。

それにしても、いろいろな意味でトランプの勝因の一つとして「マスメディアの責任」が言われているのにもかかわらず、なお改まっていないのは何故?と思ってしまいます。

最近のニュースとしては、「フォードがメキシコ移転を中止」・・・・といったことをさぞ大ニュースであるかのように報道している、ということがあります。それによって800人の雇用が維持されたのだそうです。

「フォードの800人」のように、アメリカ国家の最高権力者が個別企業の方針にくちばしを突っ込む、というのはどうなのでしょう?これは「良し悪し」の問題としてではなく、スケールの問題として言うことです(もちろん「良し悪し」の問題としては「悪し」でしょうが)。
これは、たとえて言えば日調連の会長がどこかの町役場に行って50万円の分筆登記の仕事を取ってきた、ということよりもけち臭い話です。そんなことがあたかも「成果」だとされるようなことは、とーっても小さな私たちの世界でもないことなのに、世界中でそんなことを問題にして一喜一憂している、というのは、おかしな姿だと言うしかありません。

「政治」の役割というのは、こんな風に小さい個別的な事柄をめぐる「利益誘導」を行うことにあるわけではないはずです。もっと構造的なものを動かすべきものであるはずです。グローバル企業の「強欲資本主義」が格差を生み出し、「中間層の崩壊」をもたらしているのであれば、その構造を変えていくことを「政治」の課題にするべきなのでしょう。それをせずに、個別企業の海外移転を阻止して「800人」を問題にすることは、根本的な問題を回避するゴマカシにすぎない、というべきでしょう。
このようなゴマカシは、さらに手の込んだ形で、量的にも膨らまされて行っている(「アマゾンの10万人」のように)ようですが、問題が見せかけの「量」にあるわけはないことは、はっきりしています。

もっとも、トランプ大統領が構造的なものを変革していくとすると、それがかえって悪い結果を生み出すことになる危険の方が大きいのかもしれません。その意味では、チマチマとした個別的な「雇用確保の実績」くらいでお茶を濁していられるのであれば、その方がマシなのかもしれません。
同様のことは、私たちの狭い世界にも言えることですが・・・。
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新しい年―2017年

2017-01-05 11:42:52 | 日記
新しい年、2017年が明けました。おめでとうございます。

私自身は、年賀状を出す、ということを数年前にやめてしまったため、新年のご挨拶をするのは、この場になります。年賀状をいただいた皆様には、失礼ながらお許しください。

年末年始をのんびり過ごしたのですが、その中でもトランプ大統領の誕生するこの2017年の初めに「今年の展望」をどのように描けばいいのか、考え込んでしまいました。

そんな中、新聞で興味深い記事を見ました。
「博報堂生活総合研究所の定点観測調査によると、「日本の現状はこの先も、とくに変化はない」と見る人は昨年54%で、9年前より22ポイントも増えた。さらに身の回りで「楽しいことが多い」人が増え、「いやなことが多い」人は減った。」(朝日新聞1月3日)
というのです。

記事の中では、「成長」を追い求めるのではない「定常社会」の兆しとして好意的に紹介されていましたし、確かにこれが本当なら日本はアメリカのようにトランプ大統領を生み出すこともなく「特に変化なく」進んでいけるのかもしれません。(私には、日本ではすでに「トランプ的なもの」が緩やかに導入済みなだけのようにも思えますが・・・。)

「この先も、とくに変化はない」とい考え方は、わが業界においても支配的な考え方であるように思えます。昨日と同じように今日があり、今日あるように明日もある。明後日も・・・、という考え方であり、これは人間の普通の考え方なのかもしれません。

しかし、先の記事にあるように、今では半分以上の人がそう考えているにしても、「9年前」には3分の2の人がそうは考えていなかったわけです。アメリカで、そしてヨーロッパで、中東で、そしてまたお隣の韓国で大きな変化が起きていて、今年それがさらに大きくなることが確実に予測できる今にあっても「この先も、とくに変化はない」と考えているのだとしたら、それはあまりにも能天気なのではないか、と思ってしまいます。

今年は、将来の「世界史」の教科書には「大転換の年」と書かれるような年になるのではないか、と思います。そんな新しい年を、しっかりと過ごしていかなければ、と思います。
本年もよろしくお願いします。
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年の終わりに・・・

2016-12-28 14:27:50 | 日記
2016年が終わろうとしています。

年末には、その年を振り返って見るものです。

個人的には、とてものんびりとした月日を送った一年でした。振り返ってみても特に何もない・・・。年老いてからの歳月とはそういうものか・・・、と寂しくなるような感慨もあります。

これはまぁ個人的なことなのですが、「土地家屋調査士界」としてもどうかな、と考えると、なんか同じような感じを受けてしまいます。特にない・・・。

・・・と思っていたら、年末近くになっていくつかの動きがありました。

一つは、「連合会における土地家屋調査士CPD情報の公開」へ向けた動きです。
これについては、「土地家屋調査士CPD」ができて以来の課題であるにもかかわらず一向に進まなかったものが動き出した、ということで、いろいろな問題はありつつ、何はともあれ前進なのだと思います。しっかりと動いていくことを期待しています。

もう一つは、「筆界特定制度と土地家屋調査士会ADRとの連携」に関することです。
これについても、ずいぶん前から課題として挙げられながら、実効性のある方策がとられてこなかったことですので、そのような経緯への反省を含めて取り組んでいく、ということには意義があるのだと思います。
しかし、はたして、今、進められようとしているのは、そういう方向を向いたものなのか?・・・というと、疑問があります。以下、その「疑問」について書きます。
それは、端的に、日調連が各単位会に出した「意見照会」の依頼文書に現れています。そこでは次のように言われています。
「筆界特定制度と土地家屋調査士会ADRとの連携については、法務省との間で今後の連携の在り方について協議を続けており、平成28年度中に「筆界特定制度と土地家屋調査士会ADRの今後の連携方策について(仮称)」を取りまとめる予定としております。この度、法務省から、その骨子案について各土地家屋調査士会への意見照会の依頼がありましたので、別添のとおり送付します。つきましては、ご意見等がある場合には・・・・」
というものです。
ええーっ?これって何でしょう?日調連と法務省との間で協議をしていて、それをまとめる段階に来ている。ついては、協議の相手方である法務省から各土地家屋調査士会への意見照会をするように、という依頼があったので、文書を送る、というものです。
どうしてこんなことになってしまうのでしょう?ここでは、日調連というのは、対等な立場で協議をしている一方当事者であるわけですから、その協議をまとめるにあたって構成員である各会の意見照会を行うかどうか、は自分で決めればいいことです(もちろん、やらない、とするべきではなく、行うべきなのでしょうが)。それを、協議の相手方からの依頼があったからやるようにする、というのは、あまりにも情けないでしょう!
これは、たとえて言えば、日米で「防衛協力指針」を協議するにあたって、日本政府としてはそれに関する国会での議論をして承認を得るような手続きをする気はなかったけれど、アメリカ側の依頼があったので国会審議をすることにした、というのと同じようなことだと思えます。もしもそんなことがあるのなら(似たようなことは現にあるにしても)、それは「主権の放棄」「独立の放棄」であり、完全な「属国」であることを自ら宣言するようなものです。

こう言うと、「言葉尻をとらえて文句を言うのはよくないよ」という意見もあるかもしれませんが、これは筆が滑ってでてくるようなものではありません。このように言うのが適切だと考える「基本哲学」から出てくる言葉なのだと思います。そのような基本的考え方を持ちながら、さすがに「それをいっちゃあおしまい」だと考えるところもあって表面には出てこなかったものが、ついにこのような表現の仕方をするところまで来てしまった、ということなのだと思います。残念なことです。

それは、完全な「受け身」の姿勢であり、自分自身としては決して「前」に出ず、ただただ後ろからついて行くだけ、という姿勢です。
何かをしようとしたら必ず様々な意見があります。それらを踏まえて、それでもなにがしかの方向性を決めて進んでいかなければならないわけですが、そのようなことを自ら行うことをせずに、結局は「外圧」によって決めてしまう、というようなことを繰り返していると、やがて、自分自身で考えて自分自身できめることが当たり前の姿なのではなく、誰かに決められることが当たり前のようになってしまう、ということがある、ということなのかと思います。
これは、単に「組織」としてのありかただけでなく、「業務」のありかたの問題でもあるのでしょう。
このような傾向を断ち切れずにいる頽廃は、やがて全身を腐らせることに結びついてしまうように思えてしまいます。

年の終わりに、景気の悪い話ですみません。・・・が、なにはともあれ、よいお年を!
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読んだ本―「グローバリズム以降―アメリカ帝国の失墜と日本の運命」(エマニュエル・トッド:朝日新書)

2016-12-26 08:58:02 | 日記
フランスの歴史家・文化人類学者エマニュエル・トッドへの朝日新聞記者によるインタビューをまとめた本です。

「私たちは全く新しい世界にいる」として「4つの要素」が挙げられています。それは
、「①共同体的な信仰の喪失②高齢化③社会を分断する教育レベルの向上④女性の地位の向上」
です。パッと見るとごく当たり前のことのようで、取り立てて新しい指摘ではないように思えてしまうのですが、その内容を見るとなるほど、と思わされます。
①について、「経済的合理性」「利益率でものを考える世界」が「信仰として最後のもの」としてあり、それは「反共同体的な信仰」だとします。「経済は手段の合理性をもたら」すが「目的の合理性ではない」ので「限界がある」とされます。
②の「高齢化」は、単にフィジカルの問題としてだけ言われているわけではありません。「形而上学的な展望の欠落と高齢化」との結びつきが問題で、それを「無責任な高齢者」という概念で表しています。
③について、特に日本のことが指摘されています。「日本は再び、教育という点で階層化された社会になっています」と言うのです。「高等教育の普及」によって「新たな教育格差が別の重い意味を持つようにな」る、と言われます。
④の「女性の進出」についても「教育革命」との関係で問題にされることです。

インタビューに答えた断片的な言葉を、どれだけ理解できているのかわかりませんが、これらの前社会的な同区に関する指摘を受けて、その社会の一部分である自分の身の回りのことを含めて考えさせられました。

まずは「経済的合理性」は「利益率でものを考える」ということとしても表現されています。そこには、たしかに当初は「手段の合理性」があるのでしょうが、「目的」を喪失したところで「手段」が独自の意味を持ってしまう、というのはとても危険なことなのだと思います。
その上での「高齢化」です。日本の国全体として「将来世代の借金」で今を生き延びているようなことがありますが、それは社会の隅々のいたるところで同様の構造を生み出しているのでしょう。土地家屋調査士の業界においても、「今と同じようなことをし続けていたら未来はないのではないか」、ということは、少しでもものを考える人間であればだれでも考えるようなことなのですが、「無責任な高齢者」がそれにフタをしてしまう、ということがなされているように思えます。これは構造としての問題です。

日本について著者は、「日本はテクノロジーに問題があるわけではありません。最も進んだ国の一つであり、国民全体の教育レベルが高い国です。しかし教育のある女性が働きながら子供を持つようにすることができないままです。」と指摘しています。
まさに、こういうところに問題があるのでしょう。「教育のある女性」が、その教育程度に応じた「活躍」ができずにいます。同様のことは、男性の「教育のある」人々の問題でもあります。いくら「教育」があろうと、それを活かす社会的な構造がないと「宝の持ち腐れ」になってしまいます。本来は、ものを考え、それを創造的に生かしていくことに役立つべき「教育」が、より「上」で作られるシステムを動かしていく歯車としてよりよく機能するためだけの役割しか果たさなくなってきてしうまう、という姿は、私たちの業務領域でも見ることのできるものです。

2016年は、世界と日本で「トランプ大統領」と「カジノ法案」というとんでもない形で終わろうとしています。そのような社会の潮流が私たちをも包んで進んでいる今、本書で示されたようなことを自分自身の問題として考える必要がある、と思いました。


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