大分の土地家屋調査士ブログ

「土地家屋調査士の業務と制度」を中心に、それに広い意味で関連する様々なことについて一人の人間として思うところを書きます。

読んだ本-「ルポ トランプ王国ーもう一つのアメリカを行く」(金成隆一著:岩波新書)

2017-02-20 18:47:12 | 日記
面白い本でした。・・・と言うか、けっして「面白い」とは言えないような現実を伝えている本なのですが、知っておかなければならないことを伝えてくれているものだと思いました。

「トランプではなく、トランプという怪物を支持する、いや、支持してしまう現代アメリカに関心を持った」という著者が、トランプが大統領選挙で大勝した地域を中心に1年間かけて取材したルポです。そこで伝えられる事実は、いささかショッキングです。

たとえば、「ラストベルト(さびついた工業都市)の象徴的な街」と言われるオハイオ州のある街で、去年の元日に次のように言っていた人がいます。
「アメリカ人はそんな人間が好きだ。だから、トランプが当選する可能性は大きい」「でも個人的には、それが正しい選択とは思わない。彼が良い政治家になれるとも思わない。」「まだ誰に投票するか真剣に考えていないけど、トランプではないのは確かだ。彼のことをオレは好きになれない。」
とてもまともな考え方です。しかし、その人が2か月後には「オレ、やっぱり(予備選で)トランプに投票したよ」となったのだそうです。
2か月でこのような変化が起きたことが、その後さらに続き、8か月後の本選挙での「トランプ当選」に至ります。

このようなことが起きてしまうのは、「民主党は勤労者から集めたカネを、本当は働けるのに働こうとしない連中に配る政党に変わっていった」(元民主党員尾トランプ支持者)という認識によるところが大きいようです。
ここで言われる「本当は働けるのに働こうとしない連中」というのは、「不法移民」とか向けられる言葉でもありますが、さらには「エスタブリッシュメント(既得権層)」に向かうものであるようです。政党に関係なく、いったん『既得権層』との認識が広まってしまうと、もう挽回が不可能」になった、と分析されます。
それは、実際の利害にかかわることであるとともに、「名誉」にもかかわることです。クリントンが「トランプ支持者の『半数』は人種差別や男女差別主義者など「デプロバル(deplorable)な人々の集まりだ』と発言」(失言)したことがトランプ支持者や潜在的支持者の怒りを書き立てた、と言われています。「オバマ大統領にもヒラリーにも『あなたに必要なことを、私はあなた以上に知っている』という姿勢を感じる。私はそれが大嫌いです」と言う人も出てくるわけです。

そのような怒りが、「かつての豊かな暮らしが終わる、低所得層に転落しそうだ、という不安を抱くミドルクラス」を「『規格外の行動力を持った指導者に変えてほしい』という願望」へ向かわせるのであり、それが「トランプ」になった、というわけです。

アメリカの人々が、あのトランプを大統領に選んだ、ということは、本当に信じがたいことなのですが、本書を読むとその理由が少しわかったような気がします。「エスタブリッシュメント」という言葉は、辞書を引くと「既存の体制」とか「支配層」などと出てくる言葉ですが、それがまさに「既得権層」になってしまい、国民のことを顧みなくなった時に、「民主主義」はこのような「抵抗」をする、ということなのでしょう。
それが「民主主義の健全さ」をしめすものにとどまり、それ以上の大きな悲惨な事態をまねかないことを望むばかりです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「境界紛争ゼロ宣言!」について

2017-02-12 14:46:15 | 日記
日調連では、この4年間、「境界紛争ゼロ宣言!」を基本スローガンにしています。今更ながらの話になりますが、これについて書きます。

まず初めに結論的なことを言っておくと、私はこれはとても正しいことだと思っています。しかし、その反面、その正しさがまったく活かされずに有名無実化されている現実があるようにも思えます。ですので、なんでこんなことになっちゃうのか?・・・というところから、思っているところを書くものです。

まず「境界紛争ゼロ宣言!」の正しいこと、について。
土地家屋調査士が、その業務を通じて実質的な意味で社会的に役立ち、その専門性を発揮しているのは「土地境界問題」をめぐって、です(これについて後述)。このことから「土地家屋調査士の土地境界問題の専門家としての確立」と「専門家としての現実的貢献」ということを、一言で言い現わしたものとしての「境界紛争ゼロ宣言!」を中心に据える、というのは正しい、と思います。

もちろん、「スローガン」などというものは好き嫌いのあるものなので、「ちょっとな・・・?」という感じを受けている人も多いかと思います。
たとえば、「ゼロ宣言」を唱えるスローガンが様々ある中での比較で言うと、「待機児童ゼロ宣言」というのは、実際に待機児童を「ゼロ」にする、ということを宣言する「有言実行」のものであるのに対して、「境界紛争ゼロ宣言」の方は、本当に実現することを「宣言」しているわけではなく、まさに「宣言的な宣言」なのでイマイチ腑に落ちない感を受けている人も多いのではないか、と思います(正直、私にもそういう感じがありますが・・)。
まぁ、「スローガン」というのは、さまざまな内容を持つものの中からさまざまなものを削ぎ落してつくられるものなので、この一言で十全な内容が言い尽くされるわけではない、と割り切ることも必要でしょうし、これもまた他の「ゼロ宣言」との比較で言えば、似たものに「交通事故ゼロ宣言」があります。
これも「宣言」したからと言って本当に交通事故がゼロになる、というものではありません。それでも「交通事故ゼロ宣言」と言う、というのは、ひとつには「交通事故がゼロになったらいいな」という社会の希望をあらわしている、ということでしょう(この点では「境界紛争」の方は、今の時点ではそれほど切実な社会の希望であるわけではないのかもしれません)。
また、こう言うことによって、「交通事故を起こさないようにしよう」と注意喚起し、啓発をしている、という面もあるでしょう(この点についても「境界紛争」にはあまりあてはまらないかもしれません)。
さらには、「交通事故が起きないようにするための各種施策を講じていきます」ということを自他に向けて表明する、という意味をも持つ、と言えるでしょう。
「境界紛争ゼロ宣言!」は、この最後の意味には当てはまるものだと言えるでしょう。「土地に関する制度として境界紛争が起きないような制度をつくり、それを土地家屋調査士が実践していく」ということを表明するもの、という意味です。

「境界紛争ゼロ宣言!」は、こういう意味でとらえてはじめて意味のあるものです。「待機児童ゼロ宣言」と同じような意味でとらえたら、「できもしないことを言っているだけの空疎で無責任な放言」にしかなりません(そして、現実にはそんな感じになっちゃっているように思えます)。
「制度としてつくっていくこと」「それを土地家屋調査士が実践していくこと」を内容にするものでなければならないわけです。これは、土地家屋調査士が「境界問題解決に最も貢献しうる位置にある」ということの上で、しかし今まで通りのことしかしないのでは実現できない課題としてあります。それは、これまで土地家屋調査士が行ってきたことの枠を超えて行っていかなければならないことなのであり、そのための努力をと伴わなければならないものです。

ところが、まるで今までと同じようなことだけをして、ただ「境界紛争ゼロ宣言!」と繰り返していればいいかのようなことが現実に行われていることになってしまっているのが現状だと言うべきでしょう。ダメだなぁ、と思うところです。

ここで、初めの方に書いたところに戻ります。初めの方で、「土地境界問題」こそが、土地家屋調査士が、その業務を通じて実質的な意味で社会的に役立ち、その専門性を発揮する領域としてある、ということを、書きました。
これは、土地家屋調査士が「不動産の表示に関する登記の適正迅速な実施に寄与する」という、法律で示された役割以外の、社会に対して直接果たしうる役割について、ということで考えるべきことです。
たしかに、土地家屋調査士は、この「不動産の表示に関する登記・・・」ということで、それなりの社会的な役割を果たしています。だからこそ、60有余年の歴史をもってこの社会に存在し続けてこられた、と言えるのでしょう。
しかし、この役割というのは、あくまでも「行政機関の補助をする」という役割でしかありません。行政機関のありかたが、「統治機構」のありかたが問われるこれからの時代においては、この役割だけしか果たしていないのであれば、社会的な存在意義を十分に明らかにすることができない、ということになってしまいます。
そのような「危機感」をも含んだものとして考えているのか?ということを問い返さなければいけないのだと思います。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「グランドデザイン」・・続き

2017-02-06 18:50:41 | 日記
以前に書いた「土地家屋調査士制度 グランドデザイン(案)」についての続き、です。

「グランドデザイン」では、「土地家屋調査士の強み」「弱み」がどこにあり、外部環境の有利面と不利面がどこにあるのか、という「分析」がなされたことになっています。
その分析手法が適当なのか、また実際に行っている「分析」がその名に値するものなのか、等々の問題はありますが、何か物事を考えるときに「主体的(内部的)要因」と「客観的(外部的)要因」とを分析しなければいけない、ということは、「敵を知り己を知れば」の孫子の兵法にもあるように、ごくごく当たり前のことで、そのような検討をすることの意味は大きいと言えるでしょう。だからこそ、そのような分析をきちんとする必要がある、ということであるわけで、「そこのところがちょっと・・」という話になってしまうわけですが・・・。

「グランドデザイン」では、「強み」の第一として「土地家屋調査士は国家資格者としての地位を持つ」ということが挙げられています。これを「第一」として挙げざるを得ないところに私は「強み」よりも「弱み」を見てしまいますが・・・。

この「国家資格者としての地位を持つ」ということを「強み」としてとらえると、「その地位を保つようにしよう」というのが「方針」になります。
そして、その「方針」をもっとも直接に具体化しようとすれば、「国家資格者としての地位」を直接に与えてくれる「国家」、直接的に言えば所管官庁たる法務省に切って捨てられないようにしよう、という方針になります。所管官庁との「よい関係」を保つために、言うことをよく聞き、スピーディに対応できるようにしよう、ということになるわけです。
また、これだけで足りないと思えば、別の「力」を借りるようにしよう、ということになります「政治力」で行政機関をけん制して、その庇護を絶やさないようにしよう、というの方針です。
これは現に行われていることですし、そのこと自体を否定するつもりはありません。生きていくのに息をして飯を食うように、行うべきことだとは言えるでしょう。だから、これらのことが、どこまでうまくできているのか?・・・ということが問われるわけであり、現状を見ていると「それだけしか問われない」ということにさえなっています。私はそこにさみしさを感じるのですが・・・。

一昔前の時代であれば、これだけやっていれば十分、とも言えたのかとも思います。「護送船団方式」は、土地家屋調査士の社会でも無縁ではなかったからです。もちろん本質的には以下に述べるように「これだけ」ではいけないのですが、時代のゆとりがそのようなものであることを許容していた、ということなのでしょう。

しかし、今は、もっと本質的なことが問われるようになっています。「国家資格者としての地位」を持っていることが強みなのだとしたら、なぜ土地家屋調査士という「国家資格者」が必要なのか?社会はどのような必要性を持っているのか?現にある土地家屋調査士はその必要性に答えられているのか?・・・ということを自ら問わなければいけないのです。ここをきちんと分析をすることが必要なのであり、それは「強み」や「弱み」を考えることにもなる、というのが本来の姿なのだと思います。

話を戻しましょう。「強み」についてです。
「グランドデザイン」では、「国家資格者としての地位を持つ」ことを「強み」としてあげて、その内容を「不動産表示登記制度を独占業務とすることのできる環境にある」と表現しています。
この表現の仕方にも違和感がありますがそれはさておき、「「不動産(表示)登記制度」が問題だ、というのは確かであり、むしろポイントはこちらにある、と考えるべきでしょう。「土地家屋調査士の強み」は、「不動産登記に関しての業務独占にある」ということです。
不動産取引に当たっては、「登記」を抜きにして考えることはできない、ということが現実としてあります。だから、分筆だとか表題登記だとかの不動産登記を行おうとするときには土地家屋調査士に依頼せざるを得なくなっているわけですし、不動産取引を考える人(顧客)が、それに関わる業務を他者に依頼しようとするときには、登記までを含めて行うことができる土地家屋調査士に依頼しようとする強い力が働くことになります。
これが、土地家屋調査士の「強み」です。ですから、この「強み」は、かなりの部分を「不動産登記制度」に依っている、ということになります。「土地家屋調査士の強み」は「不動産登記制度」に関する検討と離れてできるはずがないのです。

「不動産登記制度が土地家屋調査士の強み」と言う時、二つの方向があります。ひとつは、わが国の不動産登記制度が国民の信頼を得ている、という「強み」です。そしてもう一つは逆方向ですが、不動産登記制度が現代の実態にそぐわない旧態依然の「よく訳の分からない世界」として見られ、土地家屋調査士にはその世界と現実世界とをつなぐ役割を期待される、というややゆがんだ「強み」です。
前者は、社会的な現実に根差した「強み」ですが、後者は「古い制度」の持つ形骸化した「強み」です。だから、「強み」としてあるもののうち「後者」的なものからは脱却して、前者的なものを伸ばしていく、ということが中長期的な方針になるべきなのだと思います。

前者については、不動産取引を行うにあたっては「好むと好まざるとにかかわらず避けて通ることができない」という消極的な面もあるでしょうが、おおむね、これまでの日本の社会経済活動をその基礎の部分で支えてきた制度としての有効性として、国民の信頼を得ている、ということとして言えるでしょう。そして、土地家屋調査士も、その一翼を担ってきた、と言え、それが土地家屋調査士の「強み」にもなっている、と言えるのだと思います。
その上で、しかしそのような信頼がいつまでも維持できるのか、と言うと、問題があります。後者の面があり、それが今日の社会情勢の中で許容限度を超えるほどの問題をも生じさせてきており、中途半端な弥縫策では済まなくなってきている、という状況があります。
最近社会問題化している「相続未了」「所有者不明土地」の問題は、そのような事態を端的に示す問題だと言えるのでしょう。土地家屋調査士の業務領域の問題として言えば、そのような環境の中で、これまでどおり「筆界確認」をすることができるのか?という問題でもあります。

このような状況に対して、土地家屋調査士は、実務の最前線の現場に立つものとして、実際にぶち当たった問題を早期に指摘して、「改善・進歩」へ向けた提案をしていくことが求められています。「不動産登記制度は行政のもので、私たちはその下で言われた通りに動くだけ」というのではなく、自分たち自身の主体的な問題として考えていく必要があるわけです。

この点について、「グランドデザイン」はどうも無関心であるように感じてしまいます。それは、「想定される将来」として「登記制度が地籍情報管理制度に飲み込まれ」ることを「想定」しているところからきているのか、と思えます。
「登記制度」自体には将来はなく、「地籍情報管理制度」の中に「将来」を見る、という発想です。このように考えれば、「登記制度」自体の個々の問題点をあげつらってちまちま「改善」するよりも、「地籍情報管理制度」の全体構想の中に未来を見た方がいいだろう、ということになっている、という構造です。「グランドデザイン」の内容が、現実の問題と切り結ばない空疎なものに感じられてしまうのは、このようなところに原因があるのかと思います

このような考え方が正しいとは私には思えません。また、このような考え方が土地家屋調査士の世界の中で(日調連の中で)主流的な考え方(と言うより、「支配的な風潮」と言った方がいいのかもしれません)であるわけではないように思えます。その意味で「グランドデザイン」について、あれこれ検討することの意味もあまりないように思えはするのですが、それでもなおこだわるのは、このような「グランドデザイン」での考え方と、主流的な考え方(支配的な風潮)との間には、大きな違いがありつつ、直近の問題に関しては似通った結論になっているように思えるからです。
それは、不動産登記制度が直面する問題に対して積極的・主導的立場に立つ必要はない」ということです。「支配的風潮」は目の前の利益を優先して「国家資格者としての地位」を守ることに汲々とする、というところから、「グランドデザイン」は「地籍情報管理制度」を展望すると言う一見「高邁」な見地から、当面の方針としては同じところ(「何もしない」)に落ち着いてしまう、という「奇妙な一致」をもたらしてしまっているわけです。

その意味で「グランドデザイン(案)」は、はしなくも「グランドデザインは描けない」という現状を示してしまった、と言えるのでしょう。・・・しかし、それでいいのか?・・・真剣に考えていかなければいけないのだと思います。





コメント
この記事をはてなブックマークに追加

観た映画―「スノーデン」

2017-01-31 10:13:02 | 日記
先週末、映画「スノーデン」を観ました。

アメリカの元CIA、NSA職員で、「アメリカ政府が対テロ諜報活動の名のもと、世界中のメール、チャット、SNSを監視し、膨大な情報を収集している実態を暴露」(映画公式HP)して、「スパイ」の嫌疑をかけられて「亡命」状態にあるエドワード・スノーデンを描いた「実録もの」映画です。

この映画を観ようと思った直接的なきっかけは、監督であるオリバー・ストーンが新聞のインタビュー記事(朝日新聞1.24)で、この映画の製作に当たっては
「米国のどの映画スタジオにも断られ、大変でした。彼らの多くは政府と関係があり、政府の何かを踏んでしまうのを恐れて自己規制したのだと思います。制作にはとても困難を伴い、なんとか配給会社は見つかりましたが、小さな会社です」
と答えていたのを見たからです。そんな映画なので大分では上映がないだろうと思っていたら、各県1館では上映があるようです。ありがたい時代になったものだと思います。(もっとも1週間だけの上映なので、今週には終わってしまいます。)

映画の内容が「基本的に実話」なのだとすると、アメリカ政府による情報収集は恐るべきものとしてある、というのが、(映画への感想としてはいかがかとも思いますが)とにかく感想の第一です。インターネットでつながって、私たちが様々な情報にアクセスできる状態というのは、逆に優れた能力を持つ巨大な組織からすると私たちを丸裸にできる状態なのだ、ということが、映像によってリアリティを感じさせられる形で示されています。とにかく恐ろしい・・・。

映画の内容は、主にスノーデン氏からの聞き取りに基づいているようなので、自分を美化していたり、自己弁護が過ぎているところもあるのかもしれません。しかし、それを差し引いても、自らの安全を省みずに、「国家犯罪」とも言うべきものに対して、一人で立ち向かい、公然とその非を追及する姿には感心させられます。しかもそれが、ごく保守的な考えをもつ「オタク」みたいな青年だということに、将来への明るい希望を見るような思いもしました。

ところで、この映画をみるきっかけとなったオリバー・ストーン監督のインタビュー記事は「トランプ政権への期待」と題されたものでした。
「米軍を撤退させて介入主義が弱まり、自国経済を機能させてインフラを改善させるならすばらしいことです。これまで米国は自国経済に対処せず、多くが貧困層です。自国民を大事にしていません。ある面では自由放任主義かと思えば、別の面では規制が過剰です。トランプ氏もそう指摘しており、その点でも彼に賛成です」
と言っているのですが、トランプ就任以来の子供じみた暴走ぶりを見ていると、このような「好意的」な見方は裏切られているとしか言いようがないように思います。

それにしても
「ヒラリー・クリントン氏が勝っていれば危険だったと感じていました。彼女は本来の意味でのリベラルではないのです。米国による新世界秩序を欲し、そのためには他国の体制を変えるのがよいと信じていると思います。ロシアを敵視し、非常に攻撃的。彼女が大統領になっていたら世界中で戦争や爆撃が増え、軍事費の浪費に陥っていたでしょう。第3次大戦の可能性さえあったと考えます」
と言っている部分には、今回のアメリカ大統領選挙が「キングコブラvsガラガラヘビ」の対決だったこと、だからこそトランプの勝利と言う本来あり得ないことも起きてしまったということを思い知らされました。

映画を観た後、現実に戻ると、映画の中の「非現実性」が、より増幅して目の前に現れたように感じて、ほのかな明るい希望も消えてしまう感じです・・・。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「土地家屋調査士制度グランドデザイン」

2017-01-23 18:55:39 | 日記
先週、土地家屋調査士会の全国会長会議が行われた、ということです。私自身はもちろん出席していないのですが、資料類をみせてもらいました。

その中に「土地家屋調査士制度グランドデザイン(案)」というものがありましたので、それについて書きます。(これらの資料は全国の各会に送られているものですので、関心のある方は各会に問い合わせてみてください。)


この「グランドデザイン」については、この2年間ほど検討が行われてきたもの、ということです。その検討に当たった人たちはよく知っている人たちですし、優秀で真面目な人たちであることも知っているのですが、少なくともこの「案」としてまとめられたものを見る限りにおいては「土地家屋調査士制度のグランドデザイン」なるものを描こうとすること自体に無理があり、ただ「グランドデザインは描けない」ということを自白してしまっただけのもののように思えてしまいました。・・・内容を見て行ってみましょう。

冒頭で
「地籍制度全体が検討されている時代に、登記制度を基盤にした土地家屋調査士制度だけが変わらないでいられるはずがない。」
と言われています。問題の立て方がちょっとおかしいような気もするのですが、それはさておき、確かに「変わらないでいられるはずがない」というのは確かだと思います。

「グローバリゼーションが進む中で生き残るためには、なぜ日本には土地家屋調査士が必要かを説明する必要がある。その説明が合理的でなければ、今のままの土地家屋調査士は生き残ることができないであろう」
とも言われています。「グローバリゼーション」が根本的な理由のように言われるのはちょっと違うように思いますが、「なぜ日本には土地家屋調査士が必要か」を明らかにする必要がある、というのは確かにその通りなのだと思います。そうでなければ「生き残ることができない」というのもその通りです。

しかし、この「生き残る」ということについては
「日本土地家屋調査士会連合会としては、どんな時代になっても、専門家として土地家屋調査士が生き延びる方策を考えていかなければならない。」
とも言われています。「土地家屋調査士が生き延びる方策」が必ず考えられなければならないものとされているわけです。

しかし、そうなのでしょうか?それが出発点にある、ということがおかしいのだと思います。
目指すべきものは「土地家屋調査士が生き延びること」に置くべきなのではなく、「土地家屋調査士が社会的に有意義な存在としてあること」に置くべきです。もちろん、「社会的に有意義な存在としてあること」が実現できるのであれば「生き延びる」こともできることになるでしょうが、それは結果としてのことであり、「生き延びること」を目的として置く、というのは違うのです。

最近流行りの言葉で言うと「土地家屋調査士ファースト」の考え方、ということになるのでしょうが、それは、「既得権益保持であり、「土地家屋調査士エゴ」になってしまうのです。そして、そのように振舞っていると、社会的にはじきとばされてしまうことにもなります。

実際、「グランドデザイン」の内容を見ていると、その名称の意味する「壮大な」ものにはなっておらず、極めて手前味噌で我田引水的なものが目についてしまいます。
たとえば、「土地家屋調査士は、不動産に関するすべての情報を土地家屋調査士、明確化しうる唯一の国家資格者である」というようなことが言われていますが、その根拠は何でしょう?それこそ「合理的説明」が求められるのだと思いますが、論証なしの言いっぱなしです(単に筆が滑っただけなのかもしれませんが)。
一方で、土地家屋調査士の世界に広がる「不都合な真実」に目を向けながら、それらを正面から問題にし続けてしまうと身も蓋もないようなことになってしまうので途中でやめてしまって、「土地家屋調査士の強みは、測量能力を生かした調査と法律判断である」などという、全く実証されない言い古された自画自賛で集約してしまっているのは、いささか残念です。

自分たちが生き残ることを目的にして「グランドデザイン」を描こうとする、という発想法そのものを改めないと、本当の意味での壮大な設計はできないのだと、つくづく思いました。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加