聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

歳を取るってね。。。いろいろ考えるわけです。

2008年06月23日 | わたしの思い
年をとるってことは、いろいろ考えるってことですよね。
時間はすべての人に平等に過ぎていって、だれも不公平がないんですよね。
やから、時間をどうつかうか、どう年をとってきたかってことは、自分の責任のわけです。
まあ、運命っていうか、自分でどうしようもない出来事が降りかかってくることも多々ありますが、そのときの対応や選択も含めて、自分で進んできたわけです。
この年っていっても、もっと年配の方もおられるし、その方々からしたら、わたしはまだ若い、何言ってるんだ?って思われるかもしれませんが。
まあ、女47歳、もうじき48歳になると、人生でいうと、上り坂を過ぎて頂上をすぎて下り坂に入ってる、そう今は下っていってるわけですね。
で、下った先のことも常に考える年なわけです。
自分で自分のことができるうちはいいんですよね。
努力したらできるってことは、ほんとうに感謝で、幸いで、すばらしいことです。
でも、自分でどうしようもなくなる、そういうときが必ず来るわけです。
自分以外の方々にお世話になってしか、生きつづけることができないときがくるわけです。
でも、大きく考えたら、生まれて死ぬまで、人間は一人では生きられないもので、常に助け合いながら生きているわけでもありますが。

よく、年をとったら、長患いせずに寝たきりになって他人様に迷惑かけずに、ぽっくりと死にたいと言われますが。
これほど、傲慢なことはないですね。
そんなこと、病気で長患いしている父親や介護している私から言えば、何言ってるんだ、何傲慢なこと言ってるんやと思います。
そんなこと、神さまでしか決められないし、自分で望むものでもないですもの。
長患いして、ぽっくりいかなくたって、他人様に迷惑かけて長生きしたって、いいじゃないですか。
それでも人間は生きる意味があるんです。生きていく必要があるんですよ。
それは神さまが生かしてくださってるからなんですよ。
自分の力で生きているなんて傲慢なこと考えてると、間違った方向に行ってしまいます。
テレビでいろんな人が、寝たきりにならずにぽっくり死にたいとか、寝たきりで長生きしたって意味が無いなんてことを、平気で言ってますが。
その言葉を聞くたびに、腹が立ってきます。
まあ、そういう人たちをも、神さまは赦されておられますけどね。

いろんなことを考えると自分の中でも矛盾があります。
人には厳しく自分に甘く、総論賛成各論反対、まあ、そんなことばかりです。
頭の中では、いろんな感情がうずまいています。
その時々で気持ちも考えも180度変化しています。
まあ、人間ですから、それも当然かもしれません。感情の動物ですから。
人間感情が先で、理屈は後でひっつけるものです。

私は今が一番幸せです。
この先のことは考えられません。いや、考えていますが、考えたくない気持ちもあります。
考えるとドツボにはまることもあります。
考えても、どうにもならない方向へ進んでいくこともあります。
この先のことは、不安でたまらないですが、自分でできることはやって、あとは神さまに委ねるしかないことです。
風に乗って舞う鳥の羽のように(フォレストガンプという映画に出てくる映像です)、神さまに持ち運ばれて行く人生を送ろうと考えています。
そのときどきで、不安や不満や憤りや悲しみや苦しみ、いろんな事にでくわすわけですが、すべてを益にしてくださる神様にゆだねて生きることができますように。

最後は、お祈りになってしまいましたm(_ _)m
いろんな考えは、結局は、最後は祈りになるのかもしれないですね。

マルコ福音書7章 昔の人の言い伝え その1

2008年06月10日 | 新約聖書日記
◆昔の人の言い伝え
『 7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7:16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。
7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

7:1 Some Pharisees and teachers of the Law who had come from Jerusalem gathered around Jesus.

7:2 They noticed that some of his disciples were eating their food with hands that were ritually unclean-that is, they had not washed them in the way the Pharisees said people should.

7:3 (For the Pharisees, as well as the rest of the Jews, follow the teaching they received from their ancestors: they do not eat unless they wash their hands in the proper way;

7:4 nor do they eat anything that comes from the market unless they wash it first. And they follow many other rules which they have received, such as the proper way to wash cups, pots, copper bowls, and beds.)

7:5 So the Pharisees and the teachers of the Law asked Jesus, "Why is it that your disciples do not follow the teaching handed down by our ancestors, but instead eat with ritually unclean hands?"

7:6 Jesus answered them, "How right Isaiah was when he prophesied about you! You are hypocrites, just as he wrote: /"These people, says God, honor me with their words, /but their heart is really far away from me.

7:7 It is no use for them to worship me, /because they teach human rules /as though they were my laws!'

7:8 "You put aside God's command and obey human teachings."

7:9 And Jesus continued, "You have a clever way of rejecting God's law in order to uphold your own teaching.

7:10 For Moses commanded, "Respect your father and your mother,' and, "If you curse your father or your mother, you are to be put to death.'

7:11 But you teach that if people have something they could use to help their father or mother, but say, "This is Corban' (which means, it belongs to God),

7:12 they are excused from helping their father or mother.

7:13 In this way the teaching you pass on to others cancels out the word of God. And there are many other things like this that you do."

7:14 Then Jesus called the crowd to him once more and said to them, "Listen to me, all of you, and understand.

7:15 There is nothing that goes into you from the outside which can make you ritually unclean. Rather, it is what comes out of you that makes you unclean."

7:17 When he left the crowd and went into the house, his disciples asked him to explain this saying.

7:18 "You are no more intelligent than the others," Jesus said to them. "Don't you understand? Nothing that goes into you from the outside can really make you unclean,

7:19 because it does not go into your heart but into your stomach and then goes on out of the body." (In saying this, Jesus declared that all foods are fit to be eaten.)

7:20 And he went on to say, "It is what comes out of you that makes you unclean.

7:21 For from the inside, from your heart, come the evil ideas which lead you to do immoral things, to rob, kill,

7:22 commit adultery, be greedy, and do all sorts of evil things; deceit, indecency, jealousy, slander, pride, and folly-

7:23 all these evil things come from inside you and make you unclean."』

(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV マルコによる福音書から)


新約聖書略解、新約聖書注解、新聖書講解シリーズに続く

マルコ福音書6章 ゲネサレトで病人をいやす その2

2008年06月04日 | 新約聖書日記
つづき

新約聖書注解Ⅰ 日本基督教団出版局 を、まとめて
『この部分は用語や内容から見て、全体としてマルコの筆によるまとめの文と考えられる。
ゲネサレト地方でのイエスの活動が要約されている。
イエスはこの地方で律法学者やファリサイ派の人々と論争し、弟子たちを教えるが、それだけではなく、多くの病人をいやしたのだと福音書著者は言いたいのであろう。
ここでは悪霊追放は全く言及されていない。群集のあいだでのイエスの人気がまたも強調される。

イエスと弟子たちの舟は最初の目的地ベトサイダではなくゲネサレトに着く。
ゲネサレトはガリラヤ湖北西岸にひろがる肥沃な平原。そこにはイエスが宣教を開始したカファルナウムがある。
「渡る」「舟」「・・・し始めた」「病人」はマルコが好んで用いる言葉。
多くの人々がイエスの居場所を知って集まる、彼のもとに病人を連れてくる、病人がイエスの服にさわっていやされるという記述もこの福音書における他の編集句にも見出される。
治癒奇跡を求めてイエスのもとに殺到する群衆をマルコは批判しない。
批判の対象は―次に述べられるように―律法学者やファリサイ派の人々の敬虔である。』

新聖書講解シリーズ2 マルコの福音書 いのちのことば社 を、まとめて
『ゲネサレは、ガリラヤ湖の北西岸にある平原地帯である。
ゲネサレの人々は、イエスが来られたことを知ると、病人を担架に乗せて運んできた。
しかしこのゲネサレの人々も、イエスを悪霊を追い出し病気を治してくださる方としか考えていなかったようである。
彼らは、イエスの説く神の国の福音には関心がなく、病気の治癒にだけ異常な期待を持っていた。
そこに民衆の正直な、しかし醜い利己的な姿がある。
もっともこれはゲネサレの民衆だけの問題ではなく、いつの時代、どの民衆にも当てはまることである。
民衆が期待しているものと、イエスが民衆に与えようとしておられるものとの間には、本質的で決定的な違いが存在していた。

しかしそのような食い違いにもかかわらず、イエスは民衆の要望にこたえて、多くの病人をいやされた。
イエスは民衆の苦しみをそこまで知っておられたのであった。
真実の宗教は、人々を霊的真理に導くものであり、また民衆の必要にこたえるものでなければならないということを、このイエスの姿から教えられる。』


お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
イエスさまの深い憐れみに、感謝します。
弱く醜いわたしですが、深く憐れんでくださり、いつも守り、癒し、導いてくださることに、感謝します。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン

マルコ福音書6章 ゲネサレトで病人をいやす その1

2008年06月03日 | 新約聖書日記
◆ゲネサレトで病人をいやす
『 6:53 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。

6:54 一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、

6:55 その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。

6:56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。


6:53 They crossed the lake and came to land at Gennesaret, where they tied up the boat.

6:54 As they left the boat, people recognized Jesus at once.

6:55 So they ran throughout the whole region; and wherever they heard he was, they brought to him the sick lying on their mats.

6:56 And everywhere Jesus went, to villages, towns, or farms, people would take their sick to the marketplaces and beg him to let the sick at least touch the edge of his cloak. And all who touched it were made well.』
(日本聖書協会 聖書 和英対照 和文・新共同訳 英文・TEV マルコによる福音書より)


新約聖書略解、新約聖書注解、などへ、つづく


エステル記6章 モルデカイ、王から栄誉を受ける その3

2008年06月01日 | 旧約聖書日記
つづき

新聖書講解シリーズ旧約9 エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記 いのちのことば社 を、まとめて

『「その夜、王は眠れなかったので」。これは、十章からなるエステル記の中心である。
まさにこの一節は、エステル記のターニングポイントとなった。
神の摂理の御手は王の眠りの中にまで及んだ。
王はモルデカイの栄誉を考え、ハマンはモルデカイの処刑を考えていたとは皮肉な話である。
王は栄誉を与えたいと思う者の名前を隠して、栄誉を与える方法をハマンに問うた。
「王が栄誉を与えたいと思われる者は、私以外に誰があろう」。
ハマンのうぬぼれのほどがうかがわれる。
そしてこのうぬぼれが皮肉にもモルデカイへの最大級の栄誉を進言することになった。
神は、このうぬぼれ男の心をさえも利用しておられるのである。
神は御意のままに彼の心を手玉にとっておられる。

本章において教えられる第一のことは、絶妙な神の摂理の御手についてである。
本章一節は、本書の分水嶺というべきもので、この一節をもって舞台は逆転する。
神の摂理はエステル記の中心思想であるが、本章において最もよくそれが現れている。
本章における主役は、もはやエステルでもモルデカイでもない。アハシュエロス王が一躍主役の座に着くが、その背後に見えざる真の王の姿を認めざるをえない。
本書の主役であるエステルやモルデカイが全く知らないところで、「その夜」暗黒の中ですでに舞台の逆転が始まったのである。神ご自身の直接介入以外には全く考えられない。
確かに神は、王の眠りにさえ干渉された。

本書における学びの第二のことは、へりくだる者への神の栄誉である。
「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」(ヤコブ4・6)とは、聖書における永遠の真理である。モルデカイは、自分の功績のことなど全く忘れ、この世の権力を恐れず、ただひたすらに神を恐れ、神の力強い御手の下にへりくだった。そして、「ちょうど良い時に」神は彼を高く引き上げられたのである。
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」(伝道者3.1)「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(11)。

本書における第三の教訓は、高ぶる者への神のさばきについてである。
へりくだる者への神の栄誉と高ぶる者への神のさばきは、神の真理の両面である。
高ぶりをとりさることは、至難の業である。
高ぶりは人間が犯した最初の罪であり、種々の邪悪のかしらである。
高ぶりは神を無視し、神に挑戦し、自己を神とする罪であること。そして、高ぶりがあるところどこでも大いなる災いがある。
モルデカイがへりくだる者への神の栄誉のシンボルであるように、ハマンは高ぶる者への神のさばきのシンボルでもあった。
一人はいのちを救うために生き、一人はいのちを奪うために生きた。
一人は神の栄光を求めて生き、一人は自己の栄光を求めて生きた。
一人は最高の栄誉を受けても自分を崩さず平常の勤務についたが、一人は最高の栄誉に有頂天になった。
前者は神の民に属する神の子であり、後者は神の民の敵である悪魔の子であった。
実に「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」(ペテロⅠ5・5)』


お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
高ぶりを捨て、自己の栄光を求めて生きるのでなく、
神の前にへりくだり、神の栄光を求める生き方ができますように。
弱い私を、お導きください。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン