雅工房 作品集

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歴史散策  女帝輝く世紀 (2)

2017-02-22 11:23:52 | 歴史散策
          『 女帝輝く世紀 (2) 』

飛鳥時代前夜

我が国の古代の時代区分の仕方にはいくつかの方法があると思われるが、伝統的なものとしては、「縄文時代・弥生時代の前期」を原始時代とし、それ以降を、「弥生時代後期」「古墳時代」」「奈良時代」「平安時代前期」を古代とし、それ以後、およそ藤原道長が登場した頃から後を中世とするのが一般的と考えられる。
そして、「戦国時代の中頃から江戸時代の終盤まで」を近世とし、「明治・大正・昭和の太平洋戦争降伏まで」を近代とし、それ以後を現代とされているようである。

このうち、「古墳時代」とほぼ同じ頃と考えられる、大和の地に統一政権らしいものが登場してきた後を、「大和時代」あるいは「大和朝廷時代」と呼ぶこともあるようだ。
そして、その「大和朝廷時代」のうち、飛鳥(明日香)の地に政権の中枢が置かれるようになって後を、「飛鳥時代」と呼ぶことがある。この「飛鳥時代」という分類は、もともとは美術史において使われたものだそうで、飛鳥時代から奈良時代にかけての優れた文化を、飛鳥文化・白鳳文化・天平文化と分類したが、最近では、飛鳥時代は歴史全体の時代区分として用いられることも多くなっている。
本稿の舞台となる時代は、まさに、この飛鳥時代と奈良時代である。

さて、応神天皇の五世孫とされる継体天皇が大和入りしたことは前回で述べたが、王朝の交代があったかどうかはともかく、相当の軋轢を伴ったものであったことは間違いあるまい。そして、継体天皇の崩御の前後においても、皇族間、あるいは豪族間の激しい闘争があったらしいことが想像されるが、やがて、欽明天皇の御代となって一応の落ち着きを得る。

欽明天皇は、近江国あたりから進出してきたと考えられる継体天皇を父に、大和の朝廷の皇女である手白香(タシラカ)皇后を母にしており、まさに両勢力の融和の象徴ともいえる天皇である。それは同時に、継体天皇と共に進出してきた豪族たちと大和の伝統的な豪族、物部、蘇我といった勢力との微妙な均衡の上に立っていたともいえる。
生年は西暦509年とされているが、明確ではない。ただ、手白香皇女が皇后になったのは継体天皇の即位を507年とすれば、概ねその頃であろう。即位は、宣化天皇崩御の年である539年というのが通説のようであるが、継体天皇崩御(531年)に伴って即位したとする説も色濃く伝えられている。もしその説を採るならば、531年から539年のおよそ八年間は、この間の天皇とされる安閑、宣化と欽明の関係はどうなっていたのか、これも諸説あり、欽明天皇も又、継体天皇に負けないほどの謎を背負っている。

しかし、欽明天皇の在位は三十二年間(一説では四十年間)に及び、天皇の権威を安定させるのに大きな働きを成している。
この間は、引き続き大陸、主として朝鮮半島の諸国との間で戦乱や和睦が繰り返される時代が続いていた。特にわが国と関係の深かった任那(ミマナ)が新羅(シラギ)に滅ぼされたのも562年のことである。
また、わが国の文化に大きな影響を及ぼし続けることになる仏教の伝来もこの頃であり、552年に百済の聖明王にって仏像と経典が伝えられている。
欽明崩御後は、敏達、用明、崇峻と欽明天皇の皇子が皇位に就いていくが、継体天皇系と大和系の主導権争いは続いていたと思われる。しかしそれは、両勢力の融和のための動揺期間であると言えなくもない。そして、その揺れ動く朝廷に推古天皇が登場するのである。
継体天皇崩御から推古天皇が登場するまでの期間は、飛鳥時代を誕生させる準備期間であったのかもしれない。

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ジャンル:
小説
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