雅工房 作品集

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 14 )

2017-02-22 08:41:28 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 14 )

中大兄皇子と大海人皇子

斉明天皇の最晩年、斉明天皇七年(661)一月、六十七歳の女帝は筑紫に出陣した。かねて支援していた百済が新羅・唐の連合軍により滅ぼされてしまったため、これを救援し復活させるためであった。軍勢には、中大兄皇子、大海人皇子(オオアマノミコ)らに加え、大海人皇子の妻である太田皇女・鸕野皇女(ウノノヒメミコ・後の持統天皇)等の女性も引き連れていた。当時は女性も先陣に加わることも珍しいことではなかったようである。かの有名な額田王(ヌカタノオオキミ)も加わっていたらしい。

この出陣の様子を見ると、幾つかのことが想像できる。
まず、天皇が出陣するからには、当然総大将は天皇であろうが、老女帝にそれだけの実力が備わっていたのであろうか。まさか武力が優れていたとは思えなかったが、欠かすことの出来ない霊力を有していたのかもしれない。
今一つは、おそらく中大兄皇子の思惑からであろうが、天皇を飛鳥に残しておくことに危険を感じたのではないだろうか。数多くの謀略を駆使してきただけに、自分に対する危険にも敏感であったと思われる。つまり、天皇の出陣は、中大兄皇子の身の安全のためであった可能性が高い。
斉明天皇は遥々筑紫に下向したが、さらに朝鮮半島にまで向かうつもりがあったのかどうかは分からないが、七月に崩御する。波乱多い天皇の崩御の地が九州であったことに哀れを感じる。

斉明天皇の崩御を受けて、「皇太子、素服(ソフク・白い喪服)して称制(ショウセイ・天子の後継者が即位せずに政務を執ること)したまふ」と日本書紀に記されている。
当時、天皇崩御から次期天皇即位まで数か月かかるのはふつうで、一年を越えることも珍しくなかった。しかし、中大兄皇子が天智天皇として即位するのまで、六年半を要しているのである。女帝を筑紫まで下向させるほど海外との関係は厳しい状態であったと考えられるが、即位が遅れたのはそのためとは考えにくい。また、次期皇位を狙うと考えられる人物は、すでに謀略に遭って世を去っており、中大兄皇子が即位するのに何の障害もないはずである。
考えられることとしては、皇位は、自分が就くと言って就けるものではなく、当時は群臣の推挙を必要としていたらしいことである。彼には、それが無かったと考えるのが妥当のように考えられる。

称制から五年余を経た(667)三月に中大兄皇子は近江大津宮に遷都を行なった。そして、その翌年一月、ついに即位する。天智天皇の誕生である。
遷都の時期の切っ掛けは、二月に斉明天皇と間人皇女(ハシヒトノヒメミコ・孝徳天皇の皇后で、中大兄皇子の妹に当たる)を、御陵に合葬したことのようである。しかし実際は、朝鮮半島における大和朝廷軍の敗戦を受けて、群臣たちの非難、不満が抑えきれなかったためと考えられる。日本書紀にも、「万民は遷都を願わなかった」と記している。
つまり、近江への遷都には、群臣のすべてが従わなかったと考えられ、近江の地においてはじめて群臣の推挙を受ける形が整ったと考えられる。
日本書紀は、天智天皇即位後について相当の紙数を割いている。また、皇極天皇の御代の頃から、まるで政権の中核にあったかの印象もあるが、正式の天皇としての治世期間は四年に過ぎないのである。

天智十年(称制も加えている。671)九月に天智天皇は病気になった。
十月十七日、病はいよいよ重くなり、大海人皇子を呼び寄せて言った。「自分の病は重い。後事をそなたに託したい」と。
大海人皇子は答えた。「どうぞ、天下のことは大后(オオキサキ・倭姫大后)に付託され、大友王(オオトモノオオキミ)にすべての政務を執り行うように申されてください。私は、天皇の為に出家して修業したいと願っています」と。
天皇が許可すると、大海人皇子は内裏の仏殿の南に出て髭や髪を剃り落とした。天皇は袈裟を贈った。
十九日に、大海人皇子は天皇と面会し、吉野に参って仏道修業をしたいと願い出た。天皇の許しが出ると、ただちに吉野に向かった。大臣たちは宇治まで見送って引き返した。

大海人皇子は天智天皇の皇太子の地位にあった。当然後継者の最有力者と目されていたと考えられる。しかし、天皇は実子の大友皇子を太政大臣に就かせており、この皇子に継がせたい気持ちを持っていることを大海人皇子は察していた。そして、天智天皇という人物が、目的のためには手段を選ばないことを数多く見てきていたはずである。
大海人皇子は、妻子や一族や舎人たちを供に連れて、近江脱出に成功したのである。その妻子の中には、天智天皇の娘であり正妃である、後の持統天皇も同道していた。

中大兄皇子と大海人皇子は、父母を同じくした兄弟とされている。父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)である。日本書紀には大海人皇子を「大皇弟(ヒツギノミコ)」と記されているので、中大兄皇子が兄、大海人皇子が弟ということになるが、これがどうも断定しがたい。
中大兄皇子の生年は、西暦626年で、定説と考えられている。一方の大海人皇子の生年は、文献にある死去の時の年齢等から推察して、622年、623年、631年という説があり、いずれも通説の域には達していない。つまり、二人の年齢は、どちらが上とは断定できないのである。
大海人皇子の幼少期の記録は少なく、どうも謎めいている。皇極天皇が最初に嫁いだ高向王との間の御子・漢皇子(アヤノミコ)こそ大海人皇子なのだという研究者があり、個人的には強く引かれる。もし、そうでないとしても、二人は異父兄弟であった可能性があり、大海人皇子には、飛鳥、あるいは尾張あたりの豪族に影響を持つ人物がいた可能性は高いと思われる。
皇極天皇(斉明天皇)が設けた二人の皇子は、やがて、壬申の乱へと突き進んでいくのである。

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