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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 6 )

2017-02-22 11:20:03 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 6 )

女帝誕生

我が国の最初の女性天皇は推古天皇とされることは再三述べた。これは、神功皇后、飯豊皇女を天皇と数えないことが条件であるが。
継体天皇についても再々述べているが、この前後に朝廷内で大きな変化があったことは確かである。それも皇位に関してである。しかし、旧来からの大和王権の皇女である手白香皇女を娶ることで一体化に成功したように見える。

推古天皇が即位したのは、西暦593年のことであるが、継体天皇が崩御してから六十二年後のことになる。
この六十二年という年月を長いと見るか短いと見るか論ずるのは難しいが、継体崩御の頃の実力者はおそらく世を去っていて代替わりしていると考えられるが、さまざまな事件や出来事はまだ正しく伝えられていたのではないだろうか。そうだとすれば、この間の様々な出来事が推古天皇を誕生させた要因の一つであることは間違いあるまい。

継体天皇没後の後継天皇を列記してみると、安閑(在位期間531~535)、宣化(535~539)、欽明(539~571)、敏達(572~585)、用明(585~587)、崇峻(587~592)となる。
これらの天皇の継承原因はいずれも崩御によるものである。もっとも、我が国で譲位による皇位継承を行ったのは、皇極天皇が最初(継体天皇も譲位を行ったという説もある)であるから、これらの天皇全てが崩御するまで皇位にあったことはごく普通のことである。しかし、それぞれの継承には難事を想像させることも多い。

まず、最初の三天皇であるが、いずれも継体天皇の皇子である。ただ、安閑天皇と宣化天皇は、継体天皇が大和入りする以前からの妃である尾張目子媛を母としており、欽明の母は大和朝廷の血を引く手白香皇女である。継体後継をめぐっては、この二勢力の間に相当激しい争いがあったらしい。
それについて古来いくつかの説があるようで、いずれも何らかの伝承や文献の後押しもあるようだ。例えば、安閑・宣化王朝と欽明王朝がある期間並立していたとか、継体・安閑・宣化の三天皇は同時に殺されたらしいというものもある。
その真偽については追わないが、激しい争いがあったということはほぼ事実らしい。その争いは、単に皇子同士の争いということではなく、有力豪族の主導権争いが絡んでいたことも間違いあるまい。
そしてもう一つの見方は、後継天皇が継体天皇の皇子であることも重要であったのだろうが、その母が誰であるかということも同様の重要さを持っていたようにも思うのである。継体天皇の大和入りに手白香皇女を皇后に迎える必要があったことと同様で、母や妻の存在は軽いものではなかったことが想像されるのである。

激しい争いの後、大和朝廷系の母を持つ欽明天皇が即位し、その在位期間が三十二年に及ぶことから、一応の安定政権であったように考えられる。しかし、この欽明天皇も謎が多い。継体天皇の嫡男でありながら、その生年月日は今一つはっきりしない。即位に至る経緯も、何が真実なのか分かりにくい。その一方で、朝鮮半島の諸国との軋轢の厳しい中を統治し、大伴氏が失脚し蘇我氏と物部氏の対立の激しさが増す時代を乗り切っており、百済の聖明王により仏教の公伝があったのもこの天皇の御代である。難しい時代の治世を担った天皇であったことは確かであろう。

欽明天皇には名前が明らかなだけで六人の妻がいた。その中の内の三人は特に興味深い。
まず、皇后は、宣化天皇の皇女石姫である。後継者となる第三十代敏達天皇は石姫の子である。
次は、妃の一人の蘇我堅塩媛(ソガノキタシヒメ)である。この女性は蘇我稲目の娘である。この妃には、後の用明天皇、推古天皇となる子などがいる。
もう一人は、同じく妃の蘇我小姉君(ソガノオアネノキミ)である。いずれも母親が分からないが蘇我稲目の子で、堅塩媛は姉で蘇我馬子は弟である。もっとも、姉や弟の順ははっきりしない。この妃の子には、穴穂部皇子、用明天皇に嫁ぎ厩戸皇子(ウマヤドノミコ・聖徳太子)を生む穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)、後の崇峻天皇となる子などがいる。

欽明天皇崩御後は、皇后の皇子が敏達天皇として即位する。順調な皇位継承であるが、敏達天皇の母は宣化天皇の皇女であり、絶大な権力を握りつつある蘇我氏の母を持つ皇子たちとは、決して友好的ではなかったとも考えられる。蘇我氏の母を持つ義妹の額田部皇女(ヌカタベノヒメミコ・後の推古天皇)を娶っているのは、その懐柔策の一つだったのかもしれない。
やがて敏達天皇が崩御すると、次期皇位を廻る軋轢が高まる。敏達天皇には竹田皇子がいたが病弱だったようで、敏達の兄弟が有力候補となる。当時は、即位の条件にある程度の年齢が重視され、子供より兄弟の方が有力視される傾向があったようだ。

そうした中である事件が起きたという。
それは、次期天皇候補の一人と目されている穴穂部皇子が、敏達天皇の喪に服している皇后・額田部皇女を犯そうとしたのである。何とも生々しい表現であるが、記録して残されているのである。額田部皇女は美女であったとも伝えられているので、単なる色恋ということも否定できないが、おそらく、額田部皇女を手に入れることが皇位に就く有力手段と考えられていた節もある。むしろこちらが本筋と考えられる。
それともう一つ、当時は蘇我氏と物部氏の勢力が拮抗しており激しいつばぜり合いが行われていたが、なかなか判断の難しい一つに、同じ蘇我稲目の娘でありながら、堅塩媛は蘇我系であり、小姉君の方は物部系と考えられるのである。もしかすると、小姉君は養女であったような気さえする。
そうした中で、額田部皇女は両勢力の融和の象徴のように思われていた感じもするのである。

結局、次期天皇には額田部皇女の同母兄である用明天皇が即位するが、蘇我馬子の強い後押しがあったことは間違いない。これにより、蘇我氏を母とする天皇が初めて誕生したことになるが、用明天皇は在位一年半ほどで病没する。
ふたたび皇位をめぐる争いとなり、またも穴穂部皇子が物部守屋の支援を受けて皇位を狙ったが、蘇我馬子は額田部皇女を奉じて穴穂部皇子らを誅殺した。さらに、用明天皇の皇子である厩戸皇子(聖徳太子)、竹田皇子、穴穂部皇子の弟である泊瀬部皇子(ハツセベノミコ・後の崇峻天皇)らを結集して物部守屋を討ち果たした。これにより、いよいよ蘇我氏の勢力は抜きん出ることになる。
この時の戦いでも分かりにくいのは、馬子が奉じたのが額田部皇女であり、用明天皇の皇后であった穴穂部間人皇女ではなかったことである。穴穂部皇子と戦うのであるから当然ともいえるが、穴穂部皇子の弟は味方陣営に入っているのであるから、なかなかに難しい。

さて、皇子たちと豪族たちの思惑も加わった激しい戦いの後、第三十二代崇峻天皇が誕生する。用明天皇の義弟であり、額田部皇女、蘇我馬子らの推戴を受けた順調な即位と考えられる。
崇峻天皇の在位は五年ばかりであるが、目だった事件はなかったようである。馬子を大臣に就け、安定した期間だったのかもしれない。
しかし、やがて、天皇が臣下により白昼殺害されるという事件が起こる。猟の獲物が献上された場で、天皇が馬子を疎んじる発言をしたことを聞き、馬子は天皇暗殺を決意し、東漢駒(ヤマトノアヤノコマ)に命じて天皇を殺害させたのである。
天皇暗殺という出来事は、第二十代安康天皇が子供の頃に父を殺された眉輪王によって殺害されるという事件が起こっているが、臣下に政治の公式の場で殺されるという事件は、この後にも発生していない。

天皇暗殺という異常事態の中で、事件の首謀者である馬子はじめ皇族や豪族たちは、懸命に打開策を模索したことだろう。
この時点で皇位継承の候補者となれば、崇峻天皇と同世代に居らず、次の代である敏達天皇と最初の皇后広姫との皇子である押坂彦人大兄、竹田皇子、厩戸皇子の三人と思われる。このうち押坂彦人大兄は蘇我氏との血縁がなく対象外とされたであろうし、他の二人はまだ十代で、当時の天皇としては若すぎると考えられた。そこで、窮余の一策として額田部皇女が浮上したかのように見える。
しかし、本当にそうであったのだろうか。馬子ほどの大政治家が、次期天皇を予測せずして天皇殺害に動くことなどあるのだろうか。むしろ、敏達天皇崩御からの皇位継承に関わる節々で、額田部皇女は当事者として関わっており、馬子はその能力を高く評価していたのではないのだろうか。
公式には、わが国最初とされる推古天皇の誕生は、決して窮余の一策でも苦肉の策でもなく、その能力を見込まれての誕生のように思えてならないのである。

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