雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

権限と忖度のせめぎ合い ・ 小さな小さな物語 ( 976 )

2017-10-31 14:27:50 | 小さな小さな物語 第十七部
相も変わらず、などといえば失礼かもしれませんが、「言った・言わない」「存在している・いや怪文書だ」等々、どちらかが根負けするのを待っているような議論が続けられているような気がします。
しかも、本来論議すべき本質からは少しずれているような気もしますし、負け犬の遠吠えのような人物の泣きごとを大々的に取り上げたり、それに対して、もう少しどっしり構えてくれればよいのにと思われるような答弁が繰り返されたりして・・・。
これ、テレビで放映されていることを考えますと、きっと、わが国のことなのでしょうねぇ。

本来国会における討議とは・・・、などと私が申し上げても詮無いことですが、意見が相違する人や陣営が討議を重ねることによって、少しでも良い政策を導きだす場であるはずだと思うのです。
しかし、残念ながら、昨今の状況のうち、テレビなどで放映されるものを見ている限り、本質部分の大半は結論が決まっていて、激しく見える論争の多くは、揚げ足取りや、個人の知識不足などを責めたてる物が多いような気がしてならないのです。攻める方も攻められる方も、どっちもどっちという感があり、少々虚しい気がします。
さらに言えば、このところは、与野党の対立というよりも、権限と忖度がせめぎ合っているような気がしてしまいます。

「忖度(ソンタク)」という言葉は、今年になってメジャーデビューしたような存在ですが、今では子供でも笑い話に使っているようですが、つい先日までは、言葉としては知っていても漢字で書ける人は少数派だったのではないでしょうか。
以前にもこの欄で書かせていただきましたが、忖度を辞書で調べてみますと、「他人の心中をおしはかること」とあります。
一方の「権限」を辞書で調べてみますと、「①公法上、国家または公共団体が法令の規定に基づいてその職権を行いうる範囲。また、その能力。 ②私法上、ある人が他人のために法令・契約に基づいてなしうる権能の範囲。」とあります。
つまり、国会などで論争されているいくつかの問題において、「忖度があったか否か」を争っている場面をよく目にしますが、全くナンセンスで、およそ一人前の社会人であれば、忖度できないような人はむしろ欠陥の有る人物ではないでしょうか。要は、それが法的にあるいは人道的に問題があるかどうかなのです。
「権限」も同様で、公的なしかるべき地位にある人に対しては、その職務を執行するに必要な権限は与えられているものなのです。職位が高くなればなるほど、権限が大きく強くなっていくのは当然のことです。職位に応じた権限を行使することは、むしろ責務を果たすことになるはずです。問題は、それが合法の範囲内かどうかという事なのです。

大きな権限を有している人の意向を忖度することは、見方によっては「ヨイショ」でしょうが、その多くは自らの職責を果たすのを有利に展開させる為に行われます。上司は権限を用いて部下に自分の意向を推進させようとしますが、微妙な問題に関しては、おそらく忖度を期待することも少なくないはずです。時には、忖度を強要するような場面があるかもしれません。
つまり、法令や職務規律が厳守されている組織であればあるほど、権限と忖度は激しくせめぎ合っているものなのです。それは、時には、法規制などの線上でのせめぎ合いになることも少なくないはずです。その機微に優れていることも、公職にある者であれ、私企業で働く者であれ、有能である一条件ではないでしょうか。
従って、「忖度があったとか無かったとか」「権限を行使したとかしなかったとか」などということは何の論点にもならず、そこに法令や規定に違反している行為があるか否か、それ以前の人間としての根源的な恥ずべき行為がなかったかどうかを問うべきではないでしょうか。

( 2017.06.09 )

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