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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 12 )

2017-02-22 08:43:01 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 12 )

皇極天皇の謎

中大兄皇子らによる時の権力者蘇我入鹿を暗殺したという事件は、天皇の面前であったことでもあり大事件であったことは確かである。
現在ではこの事件を「乙巳の変(イッシノヘン)」と呼ぶのが通説で、大化の改新というのは、この後の孝徳天皇の御代に行われた一連の改革を指すことになる。
また、クーデターと呼ぶこともあるが、その実態はクーデターに程遠い気がする。入鹿が横暴を極め天皇の地位を狙ったから誅罰したという中大兄皇子の言葉を正しいとすれば、それは政権奪取ではなく、不埒な君臣を討っただけのことであり、政権奪取の意思がなかったことになる。

皇極天皇はこの事件を受けて、皇位を中大兄皇子に譲るむね詔(ミコトノリ)する。クーデターを認めた形であるが、息子の勝手な振る舞いに怒っているようにも見える。
天皇の詔を受けて中大兄皇子は腹心の中臣鎌子に相談すると、「古人大兄皇子は兄(異母兄)であり、軽皇子(カルノミコ・皇極天皇の同母弟)は叔父である。ここで殿下が即位すれば、弟としての謙遜の心に反するでしょう。しばらくは叔父君を立てて民の望みにこたえるのが良いでしょう」と申し上げたという。日本書紀の記事であるが、思わず本音が漏れてしまったのか、民の望みは軽皇子即位だと忠告したのである。
そこで、中大兄皇子の内密の申し出を受けて、皇極天皇は軽皇子に譲位された。軽皇子は再三固辞し、古人大兄皇子が適任と申し出た。そのような事が繰り返された結果軽皇子が即位し孝徳天皇誕生となる。この部分の記録も、軽皇子と古人大兄皇子が皇位を譲り合ったかのように記されているが、その中に中大兄皇子は入っていないのである。

孝徳天皇の即位は、皇極天皇四年の六月十四日となっているが、入鹿が暗殺されたのは十二日のことで、朝廷内にさしたる混乱も起きていないのである。
新政権は、皇極前天皇には皇祖母尊(スメミオヤノミコト)という尊号が与えられ、皇太子に中大兄皇子、左大臣は阿倍内麻呂(アヘノウチマロ)、右大臣は蘇我倉山田石川麻呂、中臣鎌子を内臣とした。
右大臣や中臣鎌子は事件の功労を賞されているようであるが、新天皇は皇極天皇と同様蘇我の血を受けており、本宗家は滅亡したとはいえ蘇我氏が全滅したわけではなかった。結果としては、皇族や群臣の勢力図に若干の変化があった程度のようにも見える事件なのである。
中大兄は引き続き皇太子の地位にあり、次期天皇の最有力候補の地位を保っている。研究者によっては、今回ばかりでなく、この後も中大兄皇子がなかなか皇位に就かなかったのは、その方が自由に朝廷の改革が進められると考えたからであると説明しているものもあるが、今一つ納得できない。

孝徳天皇は、皇極天皇四年を「大化元年」に改めた。これまでわが国には元号は無く、天皇の統治年数を記していた。「大化」はわが国最初の元号であるが、この次の「白雉」と合わせて十年ほどで、孝徳天皇の崩御と共に従前に戻っている。
この時代を象徴する言葉の一つとして、「大化の改新」という言葉があるが、どうも独り歩きしている感がある。初めて元号を設定したのは大きな出来事といえばいえるし、戸籍や田畑の調査、官位などを新しく制定したりしているが、天皇の周辺はさわがしく、十分な協力体制を得られなかったように見える。即位翌年、翌々年と「改新の詔」を出しているが、それほど革命的とは言えまい。
朝鮮半島諸国などとの関係は厳しくなっていたし、何よりも国内の皇族や群臣から十分な協力は得られなかったようである。そうとはいえ、孝徳天皇が意欲的に統治にあたっていたらしく、この期間の改新の実行者が中大兄皇子という説は、とうてい納得できない。

孝徳天皇の皇太子として、朝廷内でそれなりの働きはしたことであろうが、この皇子が力を注いでいたのは、自分の勢力拡大と競争相手を滅亡させることであったようだ。
最大の競争相手である古人大兄皇子は、先の皇位争いの時点で、身の危険を察し出家して吉野に入っていたが、中大兄皇子は気を許すことなく、謀反の疑いで討伐している。さらに、乙巳の変で協力を受け、娘二人を妃としている蘇我倉山田麻呂も謀反を理由に誅罰しているのである。
中大兄皇子が主導したものか、中臣鎌子があおったものか分からないが、この皇子は陰惨な手法に優れていたように思えてならない。

そして,終には、そのターゲットは孝徳天皇に及んでいる。
孝徳天皇が遷都を行なった時期は今一つはっきりしないが、即位の翌年末には難波長柄豊崎宮(ナニワノナガラノトヨサキノミヤ)に移ったようである。まだ仮宮で他の施設も利用しながらのようであるが、難波の地は外交上の要所であった。天皇が難波を選んだのは、朝鮮半島諸国との関係が難しい時期であったことや、統治者としての意欲からか、あるいは旧勢力から距離を置く狙いもあったのかもしれない。
しかし、飛鳥の地を離れることは群臣たちに不評であったようである。中大兄皇子は孝徳天皇に飛鳥へ戻ることを迫り、受け入れられなくなると、皇祖母尊として依然影響力を持っている母(皇極天皇)、孝徳天皇の間人皇后(ハシヒトコウゴウ・中大兄と同母の妹)、さらに一族の多くを引き連れて飛鳥へ去ってしまったのである。群臣の多くもこれに従ったという。
孝徳天皇はやがて失意のうちに崩御する。

この強引な事件は、中大兄皇子の実力を見せつけるものと思われる。しかし同時に、そこには皇位を離れていてもなお皇極前天皇の存在感が強く感じられるのである。
皇極天皇の在位期間は僅か三年半ほどである。皇后時代から隠然たる力を擁していたのかもしれないが、中大兄皇子はよほどこの実母を頼りにしていたらしい。
そう言えば、皇極天皇という人物には謎に包まれている部分がある。

宝皇女(皇極天皇)は、敏達天皇の曽孫であり、母系を辿っても欽明天皇の曽孫である。つまり、本当は宝皇女ではなく、宝姫王とでも呼ばれていたはずである。その宝皇女は、最初、高向王(タカムクノオオキミ)と結婚している。高向王は用明天皇の孫とされるが、父の出自は不詳である。二人の間に漢皇子(アヤノミコ・生まれた時点では皇子とは呼ばれなかったはずである)が生まれている。この二人のその後の動静が全く記録に残されていない。
やがて、どういういきさつか、田村皇子(舒明天皇)に嫁ぎ皇后となるのである。
この流れをどう理解すればよいのか。宝皇女は、人並み優れた美貌の持ち主か、特別な霊力を有していたのか、それとも何らかの特別な人為的な力が働いていたのか、謎は深い。
そして、高向王と漢皇子のその後は辿れないのか・・・。ここにも謎が隠されているように思えてならない。

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ジャンル:
小説
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