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歴史散策  平安の都へ ( 7 )

2017-06-10 08:33:20 | 歴史散策
          歴史散策
               平安の都へ ( 7 )

桓武天皇

称徳天皇が後継者をを定めることなく崩御して、いわゆる天武王朝(筆者個人は持統王朝と考えている)が終焉の危機を迎えた時、後継者の選択は大変な難事と思われたが、意外なほどにすっきりと白壁王(光仁天皇)に決まった。
その経緯などについては前回までに述べてきたが、やはり、白壁王には他戸王(オサベオウ)という御子がいたことが決め手になったように思われる。
つまり、天智天皇の孫とはいえ天武・持統の血脈を護ってきた称徳天皇政権下においては、六十二歳の白壁王は忘れ去られていたといってよいほど注目を浴びない存在だったはずである。一方で候補に挙がった天武天皇の孫たちも、さらに高齢であり、誰を選ぶとしても繋ぎの天皇になると考えていたはずである。

そう考えた場合、白壁王が天智天皇の孫であるとしても、その御子である他戸王の生母は聖武天皇の皇女である井上内親王であり、母系を通じてであるが天武・持統の血統を護ることになり、むしろ母系で繋ぎ護られることの方が良いとまで考えた人たちもいたように思うのである。この部分は、筆者の個人的な見解であるが。
そして、白壁王の次に他戸王を即位させて行けば、かつて、継体天皇が大和入りするにあたって、旧ヤマト王朝の血を受け継いでいる手白香皇女を皇后に迎え、その後曲折はあったが欽明天皇によって王権が安定したことを思い浮かべたものと考えられる。
しかし、白壁王擁立に動いた藤原氏の思惑は、さらに先を見据えていたのである。

白壁王が光仁天皇として即位し、やがてその御子である他戸王が皇太子となり次期天皇になるのであれば、この天皇は父方は天智天皇のひ孫であり、母方は聖武天皇の皇女であり天武天皇の流れを受け継ぐことになるので、藤原氏一族の専横を懸念しながらも、納得できる皇位継承だと多くの皇族や豪族たちは考えたと想像される。
だが、白壁王擁立の中心人物である藤原百川らの思惑は全く違うものであったのである。その狙いは、天武系天皇の排除であり、それに繋がる豪族など有力者たちからの王権奪取だったのである。

光仁天皇を誕生させた時の朝廷政治の首座は左大臣藤原永手であったが、光仁天皇即位の翌年に薨去し、右大臣吉備真備も辞任した。その後、首座の地位に就いたのは右大臣大中臣清麻呂(オオナカトミノキヨマロ)であった。
この人物は、藤原仲麻呂の乱で功績あげ孝徳上皇に認められ昇進してきているが、温厚で敵の少ない人物であったようだ。また、その時の功績により大中臣の姓を与えられ中臣姓から改名している。聖武天皇の御代から桓武天皇までの六代の朝廷に仕えて八十七歳で天寿を全うしているが、失脚らしい経験はほとんどなかったらしい。
また、他戸皇太子の東宮傅(トウグウノフ・皇太子の教育機関の一つ。大臣や大納言が兼務することが多かった。)を務めていたが廃されたため免ぜられたが、山部親王(後の桓武天皇)が皇太子になると、その東宮傅に任じられている。
このように、政争に巻き込まれることなく高官の地位を守り続けているが、同時に政権の行方を主導するようなこともなかったようだ。

光仁天皇の御代の朝廷を実質的にリードしたのは、内臣(後に内大臣)の藤原良継(宿奈麻呂から改名)や光仁天皇擁立に功があった新参議の藤原百川らであった。
そして、完全な天武系天皇を拒絶しながらも、その支持勢力との融和を図る切り札として他戸皇太子が誕生したと見えたが、彼らの真の狙いは、その程度の事ではなかったのである。
光仁天皇の即位の翌月には井上内親王が皇后となり、三か月後には他戸皇太子が誕生した。ここまでは光仁天皇誕生に賛成でなかった勢力も納得できる流れであった。
ところが、即位から一年余りたった772年3月、井上皇后は光仁天皇を呪詛したとしてその地位を追われ、他戸皇太子まで廃されてしまったのである。皇后が天皇を何の目的で呪詛したのか伝えられていないようであるが、もしあるとすれば、他戸皇太子の安全を願っての事としか考えられない。この時代、呪詛という問題がよく登場するが、実際にそのような事がよく行われていたらしいし、同時に冤罪というより仕組まれて陥れられるという事件も多かったと考えられる。
本件も、おそらくは他戸皇太子を失脚させるための計略であったと思われる。

翌773年1月、空席となっていた皇太子に山部親王(後の桓武天皇)が就いた。
山部親王は光仁天皇の皇子であるが、生母は高野新笠(タカノニイガサ)という百済系渡来人の出自である。当時の伝統として、天皇の位に就くためには父親の出自が重要であったが、母親の出自も同じように条件があった。皇族であることが一番であるが、蘇我氏など限られた有力豪族の娘がそれに準じていたようだ。光明皇后が誕生してからはその有力豪族の中に藤原氏も加えられたようであるが、高野新笠の出自の皇子か皇太子に就くなどとても考えられることではなかった。
余談になるが、壬申の乱を天武天皇と戦った天智天皇の皇子である大友皇子の母親は、伊賀采女宅子娘という地方豪族の出自である。大友皇子は即位していたという説があり、現に皇統では三十九代弘文天皇として認知されているが、当時、多くの皇族や有力豪族たちに支持されての即位であったととても考えられないのである。

しかし、当時としてはとても天皇候補として挙がるはずがない山部親王を密かに手中にし守り育てていた人物がいたのである。それは、藤原式家の兄弟たちで、一家の長は藤原良継であるが、良継は早くから政権の中心にあったことから天武系の皇族や豪族たちへの遠慮もあったと考えられ、中心に動いたのはむしろ藤原百川あたりではなかったろうか。
おそらく、山部親王を皇太子に就かせることは、光仁天皇を実現させる時からの筋書きであったと考えられるが、藤原氏の長老である藤原北家の左大臣藤原永手が薨去したことが実行への契機になったのであろう。
山部皇太子が実現し、やがて桓武天皇として即位することによって、藤原氏の中でも式家が抜きん出た存在になっていくのである。
その証左として、桓武天皇に続く平城天皇と嵯峨天皇の生母は良継の娘であり、その次の淳和天皇の生母は百川の娘なのである。もちろん父親はいずれも桓武天皇である。

桓武天皇が誕生したのは737年であるから、聖武天皇の御代にあたる。いわゆる天武王朝が絶頂期を迎えていた頃であり、天智天皇の孫にあたる白壁王(光仁天皇)の存在感は極めて薄く、たとえ最初の男の子とはいえ、母親の出自が低いこともあって、山部王と呼ばれることになる御子の誕生は、朝廷においてはほとんど話題にもならなかったのではないだろうか。その誕生の正確な月日が記録されていないことがそれを物語っている。
成長した後も、山部王は皇族としての手厚い待遇はされなかったらしく、官僚としての昇進を目指していたらしい。
やがて、朝廷を中心とした上流階級の多くが予想もしていなかった光仁天皇が誕生したことによって、山部王は山部親王となり、皇族としての待遇を受けるようになったが、その時点でも山部王が皇太子になり天皇に就くなどと予測した者はいなかったと考えられる。
但し、藤原式家の一部の野心家たちを除いてであるが。

このように見てくると、歴史のいたずらと言っていいほどの偶然と、多くの人たちの想像を超えるほどの野心家たちの綿密で強引な策謀とが見事な結晶となって、桓武天皇は誕生したと思えるのである。
こうして生まれた天皇は、歴史の流れに逆らうように、あるいは歴史の期待に応えるように、新しい時代を見据えて行動していくのである。

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