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歴史散策  平安の都へ ( 3 )

2017-06-10 08:36:56 | 歴史散策
          歴史散策
            平安の都へ ( 3 )

称徳天皇

第二十五代武烈天皇が崩御し継体天皇が即位したことにより王家の系譜の変動があったと考えるならば、その新王朝は第四十八代称徳天皇の崩御により終焉を迎えたと考えられる。
この間、およそ二百六十年という長い期間は、古代日本の文化的隆盛期であり、現代につながる多くの文化や制度などが誕生し育まれている。そして、この王朝は、我が国の歴史上際立って多くの女性天皇が誕生した時代でもあった。

そして、この時代の女性天皇が決してお飾りでも繋ぎでもなかったことについては、前回の作品『女帝輝く世紀』で述べているので重複は避けたいが、あえて加えるならば、女性天皇の時代は決して推古天皇に始まったのではなく、継体天皇の時代に萌芽しているのだと筆者個人は考えている。
おそらく、継体天皇の軍事力や経済力によって王権の移動が実現したのであろうが、それによって継体王朝が始まったようには見えないのである。継体天皇の崩御、並びに後を継いだとされる安閑・宣化両天皇の時代については、今もなお多くの謎に包まれている。この王朝が安定するのは、その次の欽明天皇の時代になってからである。
安閑・宣化・欽明天皇はいずれも継体天皇の皇子であるが、無視できないことは欽明天皇は旧ヤマト王権の血を引く手白香皇女であることなのである。さらに言えば、継体天皇の御代でさえも、この手白香皇女の存在があってこそ旧勢力の協力を得ることが出来、新王朝が育っていったと思うのである。
つまり、少なくとも精神的には、『女帝輝く世紀』は、継体天皇の大和入りの頃には始まっていたのだと筆者は考えているのである。

そして、この王朝は、称徳天皇によって幕を引かれることになる。
称徳天皇は、この王朝の最盛期ともいえる繁栄を築いた聖武天皇を父に、藤原氏繁栄の中心人物の一人である光明皇后を母として誕生した。西暦718年のことである。(なお、この時代の和暦は変遷が激しいので、本稿では原則として西暦を用いることにする。)
聖武天皇は、持統天皇が愛してやまなかったとされる草壁皇子の孫にあたる。天武天皇には多くの皇子がいたが、皇后となった後の持統天皇の強い意向で草壁皇子が後継者となったが(正式に皇太子となっていたかどうかは諸説ある)、それに至る過程で大津皇子の刑死などかなり強引な後継者争いがあったようで、天武天皇崩御の後、草壁皇子が後継天皇に就くことは簡単ではなかったようだ。
この為、皇后が後継者となり持統天皇が誕生するが、即位三年目の頃に草壁皇子は崩御してしまった。持統天皇は、おそらく歯を食いしばるようにして忘れ形見である軽皇子を養育し、十五歳になるのを待ちかねて皇位を譲った。文武天皇の誕生である。当時としては異例の若さであった。譲位後も持統天皇が後見していたが五年後に崩御した。

文武天皇の治世は十年に及ぶが、二十五歳の若さで崩御してしまう。
この王朝の中心人物の一人と考えられる持統天皇の執念を引き継いでいたわけではないだろうが、後継天皇は、文武天皇の母であり、草壁皇子の未亡人である阿閇皇女が元明天皇として即位した。この女性は天智天皇の皇女でもあるので血統的には何の不足もない人物であるが、今度は文武天皇の忘れ形見に皇位を継がせようという願いを抱いてのことであっただろう。
元明天皇は在位八年にして氷高皇女に譲位した。元正天皇の誕生である。この皇女は草壁皇子と元明天皇との間の皇女で、文武天皇の姉にあたる。
そして、在位九年にして文武天皇の忘れ形見である首皇子に譲位して、聖武天皇が誕生する。文武天皇崩御後十七年を経ているが、文武天皇を誕生させるのと同様の執念を感じる。

称徳天皇の生母である光明皇后は、藤原不比等の娘であり、藤原氏出身で史上初の皇后となった人物である。聖武天皇の生母も藤原不比等の娘であるから、称徳天皇は藤原氏の血統、それも不比等の血統を色濃く引き継いだ皇女といえる。
727年9月、聖武天皇と光明皇后の間に基皇子(モトイノミコ)が誕生した。天皇にとっても慶賀であるが、藤原氏にとってはまさに珠玉といえる皇子誕生であっただろう。藤原不比等邸で生まれたとされる基皇子は生後一か月にして皇太子となった。しかしこの皇子は、翌年、満一歳の誕生直前に亡くなってしまった。

738年、阿倍皇女(後の孝謙天皇・重祚して称徳天皇)が立太子して、史上初の女性皇太子となる。この時、聖武天皇には、夫人である県犬養広刀自との間には安積親王(アサカノミコ)がおり、年齢も阿倍皇女より年少とはいえ十一歳になっており適任と考えられるが、生母の後見力に大きな差があり、女性皇太子誕生となってしまったようである。このあたりの経緯を考えてみても、朝廷内の藤原氏の権力の大きさが窺えるとともに、生母、つまり女系の政治的な重みを無視することが出来ないことが分かる。
そして、この安積親王は十七歳にして亡くなっているのである。脚気による病死とされているが、時の権力者藤原仲麻呂の手による毒殺という噂も無視できない。

749年、安倍皇太子は聖武天皇の譲位により即位する。第四十六代孝謙天皇の誕生である。
孝謙天皇の御代はおよそ九年であるが、当初は聖武天皇(実際は上皇)や光明皇后(実際は皇太后)、そして藤原仲麻呂等の後見により治世がなされていたようである。やがて、聖武天皇が崩御し、光明皇后も病気がちとなり、母の看病に専心するために皇太子となっていた大炊王に譲位した。淳仁天皇の誕生である。
孝謙天皇(重祚して称徳天皇)は生涯結婚しなかったが、最初に皇太子となったのは、聖武天皇が死に臨んで遺言した道祖王(フナドオウ)であった。この人物は、天武天皇の皇子である新田部親王の御子である。しかし、皇太子にふさわしくないという理由で翌年には廃され、同じく天武天皇の皇子である舎人親王の御子である大炊王(オオイオウ)を皇太子にしていたのである。これは、孝謙天皇と藤原仲麻呂の意向によるものらしいが、この王朝の絶頂期を築いたともされる聖武天皇の遺言もそれほど絶対視されるものではなかったらしい。

こうして孝謙天皇、藤原仲麻呂(姓を賜って、藤原恵美押勝と名乗った。)によって擁立された淳仁天皇の在位は六年間に及ぶが、治世の実権を把握していた期間はほとんどなかったのではないだろうか。
やがて、光明皇后が崩御すると、孝謙天皇(上皇)と淳仁天皇・藤原仲麻呂との間に波風が立つようになる。
光明皇后崩御後に孝謙天皇は病気となり、看病にあたった弓削氏の道鏡と出会い重用するようになる。
764年9月、身の危険を感じた藤原仲麻呂は挙兵の準備にあたるが、孝謙天皇側は軍事権を掌握し藤原仲麻呂を討ち果たした。
その結果を知ると孝謙天皇は直ちに淳仁天皇を監視下に置き、翌月には廃位させて淡路公として淡路島への流刑とした。そして、孝謙天皇は再び皇位に就いた。称徳天皇の誕生である。
後世、この皇位継承を重祚による称徳天皇の誕生とされているが、実態は少し違うように思われる。それは、淳仁天皇は淡路廃帝とされていることから、孝謙天皇としては単に皇位に復帰しただけで新たに即位したという意識は無かったように思われるのである。
いずれにしても、764年10月、この王朝の幕を引くことになる称徳天皇が誕生したのである。

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