雅工房 作品集

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 17 )

2017-02-22 08:14:19 | 歴史散策
          『 女帝輝く世紀( 17 ) 』

持統天皇の登場

壬申の乱を勝ち抜き、新しい王朝を築こうとしていたかにさえ見える大王、天武天皇が崩御した。朱鳥元年九月九日、西暦でいえば686年のことであった。
この朱鳥(アカミトリ、シュチョウ、スチョウ、と読み方は確定していない)という元号は、何かを物語っているように思われてならない。全く個人的見解であるが。

わが国の元号は、孝徳天皇の御代の「大化」に始まり、この後に「白雉」と改元されたが、孝徳天皇の崩御により消滅した形となり、再び、天皇年号に戻っているようである。
この「朱鳥」は、天武天皇十五年七月二十日に三十二年ぶりに制定されたものであるが、その目的は天武天皇の病気平癒を願ってのことである。
天武天皇は、この年の正月行事は自ら行ったとされているので、病気が重くなったのは、日本書紀に記されている五月の頃らしい。当然、宮中や神社仏閣で祈祷などが行われ、改元もその一環と考えられる。但し、天武天皇は改元の一か月余り後の九月九日に崩御しているので、この改元が天皇自らの意思であったかどうかは分からない。
そうだとしても、この翌年には「朱鳥」という元号は、少なくとも日本書紀では使われなくなり、天皇年号に戻っているのである。「朱鳥」という改元が天武天皇の意思でなかったとしても、その御代に制定された元号が早々に公式文書から消えているのは何故であろうか。伝えられているほど、天武天皇の存在意義は大きくなかったのではないかと推定するのは、極論過ぎるのだろうか。

もっとも、「万葉集」や「日本霊異記」には、「朱鳥」という元号が記録されているそうである。朱鳥四年、六年、七年、八年、という記録があることから、公式文書とされる日本書紀はともかく、民間など一部では使用されていた可能性がある。
次に元号が登場してくるのは、文武天皇の御代の「大宝」(701-704)であるが、もし、「朱鳥」が十五年まで続いていたとすれば、元号は継続されていたことになる。さらに言えば、「白雉」と「朱鳥」の間に、「白鳳」「朱雀」といった元号が存在していたらしい記録もあるようで、限られた地域かもしれないが、案外この間も元号が継続していたのかもしれない。
そのように考えだすと、日本書紀に、『戊午(ボゴ・ここでは七月二十日を指す)に、改元(ハジメノトシヲアラタ)めて朱鳥元年と曰(イ)ふ』とあるのも、別の元号から変更したようにも感じられてしまう。

それはさておき、天武天皇崩御により後継者問題が起こるのは当然のことである。
天智天皇崩御時には、後継者たる皇子は皆無と言える状態であった。おそらく、崩御の数年前までは、後継者は弟の大海人皇子(天武天皇)ということで群臣たちも周知していたと思われる。しかし、現実は、天智天皇が望んだことか、大友皇子が望んだことか、大海人皇子の疑心からか、あるいは群臣たちの勢力争いからかはともかく、壬申の乱という戦乱に至っている。
しかし、天武天皇の崩御時においては、後継者になり得る皇子は大勢いた。名目上は、ということになるが。

日本書紀の天武天皇八年五月の記事には、天武天皇は、皇后(持統天皇)と、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河島皇子、忍壁(オサカベ)皇子、芝基(シキ)皇子の六皇子を伴って吉野宮に行幸したことが記されている。
そこで、天皇は、「朕、今日、汝等とともに庭に盟(チカ)いて、千歳の後に、事無からしめむと欲す。いかに」と六皇子に呼びかけ、皇子たちも、「道理は、もっともです」と応じている。そして、草壁皇子が代表する形で、
「天神地祇(アマツカミクニツカミ)と天皇よ、どうぞお聞きください。私たち兄弟、長幼合わせて十人余りの王は、それぞれ異なった母から生まれました。しかし同母、異母に関わらず、共に天皇の勅(ミコトノリ)に従って、互いに助け合い、逆らうことは致しません。もし今より後、この盟(チカイ)に背くようなことがあれば、この身は滅び子孫は絶えましょう。決して忘れたり、過ったりは致しません」と誓い、他の五皇子も同様に誓った。
これに対して天皇は、「我が息子たちは、それぞれ異なった母から生まれた。しかし、今よりは、同母の兄弟のように慈しもう」と言い、さらに、「もしこの盟(チカイ)に背けば、即座にこの身は滅びるであろう」と、誓った。
『吉野の盟約』と伝えられるものである。
この六皇子のうち、河島皇子と芝基皇子は天智天皇の皇子である。この記事をそのまま受け取れば、この二人も含めて、すべて同母の、つまり同行していた皇后(持統天皇)の実子として遇するということになる。それは、六皇子はすべて皇位継承の資格があるということであるが、同時に、皇后の権威を高めることに役立つ盟約ともいえる。

ただ、天武天皇崩御が現実となれば、その後継がこの六皇子の中から選ばれるということにはならない。
天武天皇には、全部で十人の皇子がいた。それに六皇子に含まれている天智天皇の皇子を加えれば、十二人の後継候補者ということになるが、そこには、当然順位付けがされていたはずである。
生母の身分や政治的な思惑を一切排除して、これらの皇子の人格や実績のみで後継候補を考えるとすれば、幾つかの文献などから判定すれば、一位は高市皇子で二位は大津皇子ではないだろうか。現実的には皇后の実子ということで、草壁皇子が最有力であったと考えられるが、何分彼は病弱であったらしい。
また、壬申の乱において、天武天皇側が大義名分としたと想像できるものの一つは、大友皇子の生母がいわゆる卑母といわれる身分であり、天皇後継者に成りえないという主張であったと考えられる。高市皇子は、そういう事情を十分承知していたと考えられ、この皇子には皇位を望む野心はなかったらしい。
そうなれば、後継候補は草壁皇子と大津皇子に限られてくる。

大津皇子の生母は、皇后(持統天皇)と同母の姉である。大津皇子誕生の頃は、彼女が正妃であったと考えられるが、大津皇子誕生後間もなく亡くなっている。これが、現皇后を生母とする草壁皇子と致命的な差となっていたのである。
当然、皇后(持統天皇)の狙いは、草壁皇子を即位させることにあった。その布石として、天武天皇に「天下(アメノシタ)の事、大小を問わず、悉(コトゴト)くに皇后(キサキ)と皇太子(ヒツギノミコ・草壁皇子を指す)に啓(モウ)せ」との勅(ミコトノリ)を出させている。天武天皇崩御の五十数日前のことで、すでに病は重く、皇后の強い意志が働いていることは十分考えられる。
それに、年齢も草壁皇子の方が一歳上であったとされるので、草壁皇子後継で問題がないように思われる。

しかし、どうやら大津皇子という人物は相当有能であり、群臣の評価も高かったらしい。やや線が細かったともいわれる草壁皇子の母としては、天武天皇の勅程度では安心できなかったらしい。
天武天皇崩御とともに、「皇后、臨朝称制したまふ」と日本書紀には記されている。この臨朝称制(リンチョウショウセイ)というのは、臨時に政務を行うことで、即位する前にとりあえず「称制」という地位に就いたということではないと考えられる。皇后(持統天皇)は、壬申の乱においても、少なからぬ働きをしており、群臣たちを押さえるのに問題はなかったと思われる。おそらく、天武天皇に衰えが見え始めた頃から、政治の実権は皇后にあったのではないだろうか。
その朝廷内で天皇崩御以前から実権を握っていたと思われる皇后が、臨朝称制後最初に行った大事は、大津皇子を滅ぼすことであった。天武天皇崩御後二十日余り後のことで、謀反の罪に問われた大津皇子は、二十四歳にして自死に追い込まれたのである。
天武王朝においても、政敵を数多く葬っているが、大津皇子事件は、皇后の父天智天皇を彷彿させるようにも思われる。あるいは、これが当時の政争の常套手段であったのだろうか。

その後、皇后の称制時代は丸三年に及ぶ。
草壁皇子は二十五歳になっていたと考えられ、当時の即位年齢としてはやや若かったかもしれないが、それが即位にそれほど大きな障害になるとは思えない。むしろ、大津皇子の謀反事件は相当強引なもので、大津皇子に同情的な勢力の声なき声に配慮せざるを得なかったのではないか。そして、若干の冷却期間を置かざるを得なくなり、そうしてる間に、草壁皇子は二十八歳で没してしまった。持統称制三年四月のことである。
翌年一月、皇后は即位する。持統天皇の登場である。
おそらく、溺愛し、多くの犠牲を払って即位を願った草壁皇子の死去は、持統天皇といえども失意のどん底に落ちたと思われるが、その上での即位は、天皇家を護る決意とともに新たな目的に向かっての即位であったと考えられる。

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