雅工房 作品集

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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 18 )

2017-02-22 08:13:20 | 歴史散策
          『 女帝輝く世紀 ( 18 ) 』

王朝の構図

持統天皇の即位は、三年を越える称制期間を経た持統天皇四年(690)一月のことであった。
天智天皇(実際は大友皇子)と天武天皇とが王権を争った壬申の乱は、古代最大規模の内戦であった。それに勝利したて天武天皇は天皇の権威・権力を高めることに注力した。そして、その目的は一定の成果を上げている。
同時に、天武・持統天皇の御代を白鳳時代と呼ぶことがあるように、継続した一つの王朝のように見える部分が有る。それは、持統天皇が天武天皇の忠実な後継者であったと見ることも出来るが、少し視点を変えて見れば、この両王朝は、そしてこれ以後の数代の天皇の御代さえも、持統天皇が描いた構想の中にあったように思われてならないのである。

まず一つは、天智天皇の病が重くなった時点で、身の危険を感じた天武天皇は近江から吉野に脱出したが、妻である持統も行動を共にしている。壬申の乱においても、吉野や伊勢などの勢力掌握に少なからぬ働きがあったかに思われる。うがった見方をすれば、戦乱の先頭に立ったのは天武天皇であるが、後方にあって陣営を引き締めていたのは持統であったように見えて仕方がないのである。
もう一つは、持統天皇には、珠玉ともいえる草壁皇子がいたが、それ以外に子供がいないことが気になる。もちろん、子供は天からの授かりものと考えれば、子供が一人だけだというのは不思議なことではないが、当時の皇族の女性は、一般的に多産である。御子の数が一族の繁栄に直結するからである。持統天皇の皇子が一人ということに不自然さを感じるのであるが、その理由の一つは、草壁皇子を溺愛するあまり皇位を争うような皇子の誕生を避けたのかもしれない。もっと大きな理由と推察されるのは、持統天皇の実姉であり、本来天武天皇の皇后となるべき立場にあった大田王女が大津皇子を産んだ直後に亡くなっていることにあるように思われるのである。当時の女性にとって、出産はまさに命を懸けた大事であった。草壁皇子を得た持統天皇は、草壁皇子を即位させるために命を懸ける危険を避けたのではないかと思われるのである。つまり、天武天皇との同衾を拒んだのではないだろうか。その代わりのように、壬申の乱の後に、天智天皇の皇女を二人も天武天皇の妃に受け入れているように思えてならないのである。

そして、これは定説から離れることになるが、天武天皇の出自に疑問が浮かんでくるのである。天智天皇と天武天皇は、父が舒明天皇、母が皇極(斉明)天皇の同父・同母の兄弟というのが一応の定説であるが、長幼を含め古くから異説もある。個人的な感覚であるが、やはり天武天皇は、皇極天皇が舒明天皇に嫁ぐ前の夫である高向王、あるいはそれ以外の人物を父とする出自ではないのだろうか。つまり、天武天皇の父には近しい天皇はいないのではないのではないか。
従って、持統天皇には、天武天皇の皇子といえども父系だけでは天皇位を望むことはできないという判断があったのではないだろうか。天武天皇の皇子が皇位に就くためには、后妃を通じて天皇の系譜に繋がる必要があると考えたのではないだろうか。そして、その繋がるべき系譜にある天皇とは天智天皇であったのではないだろうか。

「不改常典(フカイジョウテン)」と呼ばれるものがある。
これは、慶雲四年(707)、元明天皇即位の詔に初めて登場したとされるもので、「かけまくも かしこき近江大津宮に あめのしたしらしめしし 大倭根子天皇(オオヤマトネコノスメラミコト・天智天皇)の、天地(アメツチ)と共に長く 日月(ヒツキ)と共に遠く 改(カワ)るましじき 常の典(ツネノノリ)と 立て賜ひし敷き賜へる法(ノリ)」という言葉を指す。
この言葉の意図するところは、皇位継承法であるという考え方と、国家統治法とする見方があるようだ。個人的には、皇位継承の正統性を補強するものと受け取っている。

当時の皇位継承の条件の一つに、年齢の条件があったと考えられる。父や母の系譜はもちろん重視されたが、概ね三十歳程度が即位の条件と考えられていたようで、日本書紀などにも年齢を重視しているかの表現はいくつか見られる。
この「不改常典」というものが本当に天智天皇によって発せられたものとすれば、年齢が二十二、三歳であり、生母の系譜も条件に程遠い大友皇子を、直系相続が何より正しいのだと強引に詔したものと想像される。
しかし、皇位は、壬申の乱により天智から天武に移っており、「不改常典」が元明天皇の即位の時点で登場してきているのは、いかにも不自然である。そのような考え方が皇室周辺で醸成してきていたとすれば、詔を発するのは天武天皇となるのではないかと思われる。

つまり、「不改常典」は持統天皇から文武天皇に譲位する時点で生み出されたもののように感じられてならないのである。
文武天皇は、持統天皇が愛してやまなかった故草壁皇子の子供であり、母は天智天皇の皇女で後の元明天皇であるから、系譜においては非の打ち所はない。しかし、現天皇からいえば孫の世代であり、年齢も十五歳であった。かなり、強引な譲位であり、それを補強する伝家の宝刀として登場してきたのではないだろうか。
しかも、その発信者は天武天皇ではなく天智天皇であることは、実に興味深い。これは個人的な想像であるが、この詔が、皇位継続に大きな影響を与えるためには、天武天皇では容認されない何かが、持統天皇にも、当時の皇族や有力豪族たちの中に潜在していたように思われるのである。そして、その何かとは、天武天皇の出自に関する事と想像するのである。
この「不改常典」は、少なくとも、元明・元正、そして聖武天皇の誕生までは大きな働きをしたと考えられるのである。

持統天皇の御代は、称制時期を含めて十一年ほどである。
天武天皇の御代と合わせて白鳳時代と称せられるほどであるから、政治的、文化的にも業績は小さくないと考えるべきであるが、その在位中の足跡を調べてみると、あらゆる業績を圧倒するような事実が浮かび上がってくる。それは、吉野行幸である。吉野は、夫である天武天皇と共に、近江朝廷から脱出したあと身を寄せた地であり、古来神聖とされる地でもある。しかし、それにしても在位中の吉野行幸が三十回となれば、これを理解することはなかなか難しい。
これに関しては、多くの研究者により様々な説明がなされているが、完全に納得できる説明は見い出せない。この行動を理解できない限り、持統天皇を理解するのは難しいのかもしれない。

おそらく、持統天皇にとって吉野の地は、凡庸な推理では及ばない奇跡の地であったのではないか。
そして、孫である軽皇子が十五歳になるのは待ちかねていたかのように譲渡するのである。

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ジャンル:
小説
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