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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 7 )

2017-02-22 11:18:52 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 7 )

推古天皇の御代

「日本書紀」によれば、崇峻天皇の五年(592)十一月、天皇は大臣蘇我馬子の為に殺され、皇位が空しくなってしまった。そこで、群臣は敏達天皇の皇后である額田部皇女に即位してくれるよう請うたが、皇后は辞退された。百官は上表文を奉って勧め、三度目に至りついに承諾された。よって天皇の璽印(ミシルシ)を奉った。
十二月八日、皇后は豊浦宮(トユラノミヤ)で即位した、と記されている。
この豊浦宮は明日香の地にあったと考えられている。すなわち、飛鳥時代の幕開けである。

推古天皇が即位に至る経緯については、すでに述べてきているところであるが今一度整理してみよう。
第二十九代欽明天皇が崩御した後、敏達、用明、崇峻、そして推古と欽明の御子が四代続いて即位している。即位に関して様々な事件は起きているが、結果としては順調な王権の移行と言える。さらに言えば、当時は親から子への継承が必ずしも優先されているわけではなく、むしろ兄弟間の継承の方が多く見られるのである。その大きな原因は、皇位に就く条件に年齢が相当重要であったらしく、推古天皇までの歴代天皇の即位時の年齢を見ると、第三代安寧天皇の二十九歳、第二十五代武烈天皇の十歳の二人以外はすべて三十歳以上なのである。もちろん、時代は神代に近い辺りまで遡ることでもあり信憑性に問題がないわけではないが、後の天皇と比べ、明らかに年齢、つまり皇族としての経験が重視されていたと思われる。

崇峻天皇暗殺という事件が発生し、突然のように皇位継承問題が浮上したが、その時点での有力候補者に、欽明天皇の皇子世代はすでに亡く、孫世代の三人の皇子が考えられた。
このうち、推古の夫でもある敏達天皇の最初の皇后広姫との皇子である押坂彦人大兄は、もっとも年長であったと推定されるが、すでに蘇我氏が物部氏を打ち破っており、非蘇我系の皇子としては候補にならなかったと考えられる。また、用明天皇の皇太子であったとも伝えられているが、用明天皇の御代は二年弱であり、蘇我氏の台頭とともに立場は弱体化して行ったと思われる。
次に、用明天皇と崇峻天皇の姉穴穂部間人皇女の皇子である厩戸皇子は、この時十九歳くらいと思われ、若年過ぎると考えられたらしい。
三人目は、敏達天皇と推古天皇との子である竹田皇子がいた。おそらく推古天皇はこの皇子を即位させたかったと考えられるが、年齢は厩戸皇子より年少で、十七歳くらいであったようだ。推古天皇が即位を決意した裏には、やがて竹田皇子に皇位を継承させたいと考えていたと想像できるのである。

このように、三人の候補者に皇位を引き継ぐことが難しいため、天皇暗殺という難局を乗り切るために推古天皇が誕生したと考えられることが多い。確かに、客観情勢はそのように見えるが、この間の推古天皇の周囲を見直してみると、少し違う物が見えてくる。
まず、敏達天皇が崩御して用明天皇が即位する間には、皇位を狙っていた穴穂部皇子が未亡人である額田部皇后(推古天皇)を我がものにしようと襲うという事件が起きている。事件は未遂に終わっているが、これは決して色恋騒動ではなく額田部皇后の存在の大きさを示す事件であり、用明即位にも少なからぬ影響があったと想像できる。
用明天皇崩御後には、再び穴穂部皇子は皇位を狙い物部氏らの支援を受けて戦となった。この時立ち向かったのは蘇我氏を中心とした勢力であるが、蘇我氏が奉じたのは用明天皇の皇后ではなく、その前の皇后である額田部皇后を奉じているのである。つまり、名目的には討伐軍の旗頭ということになる。そして、崇峻天皇擁立には、蘇我氏と共に額田部皇后の推挙は絶対条件であったと思われる。
また、崇峻天皇の暗殺事件は、蘇我馬子が命じて実行されたことは確かだと思われるが、その後に額田部皇后が即位するのに一か月ほどの日時しか要していないのである。馬子と額田部皇后の間には、密約とまではいかなくとも阿吽の呼吸のようなものを感じてしまうのである。
こうした流れを考えた時、推古天皇の登場は、天皇暗殺という危機を乗り切るための苦肉の策でもなければ、次の男性天皇誕生までの繋ぎであるなどとはとても考えられない気がする。

推古天皇の御代は三十六年に及ぶ。短い期間ではなく、政治的あるいは社会的な成果も少なくない。
朝鮮半島の国々とは難しい折衝が続いており、国内的には蘇我氏の権勢がますます高まり、仏教が政治・文化両面で大きな影響を与えている。
歴史書などを見れば、遣隋使の派遣、冠位十二階の制定、憲法十二条の制定、四天王寺や飛鳥寺などの大寺建立などが記されている。
同時に、推古天皇の治世の実権者は、蘇我馬子であり、厩戸皇子(聖徳太子)であったとする書も少なくない。果たして、そうであったのだろうか。
これは全く個人的な意見であるが、わが国の政治権力の中枢は、少なくとも平安時代初期の頃までは天皇であったと考えられるのである。本稿もその考えのもとで書いている点はご承知いただきたい。
確かに、物部氏を打ち果たした蘇我氏の勢力は絶大なものとなり、推古朝を通じて大きな影響力を与えたと考えられる。一説には、馬子が天皇であったというものさえある。しかし、有力豪族は朝廷内で権力は振るうことはこれまでもあり、この後も続いている。しかしその豪族たちは、後で言えば貴族たちは、天皇の外戚などの地位を得ることにより政権を握ろうとしており、少なくともこの時代には政権の中枢は天皇と考えられていたと思われる。

それでは、厩戸皇子の場合はどうであったのか。
この厩戸皇子すなわち聖徳太子という人物については、どう評価すればよいのかなかなか分かりにくい。
推古朝において厩戸皇子が政治文化の中心人物であったとする論調は、今も少なくない。その機会を得たのは、推古天皇即位の翌年四月に皇太子となり、摂政の地位に就いたからである、と考えられる。本来ならば、推古天皇が愛する竹田皇子が皇太子になるはずであるが、おそらくこの頃に亡くなったと考えられる。推古天皇としては、厩戸皇子の立太子は、涙ながらの選択であったはずである。また、厩戸皇子がわが国における最初の摂政と言われることがあるが少し違う気がする。
日本書紀の中に、「仍録摂政、以万機悉委焉」(よりて録(マツリゴト)摂政(フサネツカサド)らしめ、万機をもちて悉(コトゴトク)に委(ユダ)ぬ)という一文がある。つまり、「一切の政務を取らせて、政すべてを委任された」というのである。後世、この一文から、厩戸皇子が摂政に就いた、とされるようになったと言われるようになったと思われるが、「日本書紀」が記述していることは、政務全般に全権を与えて執行させた、と言った意味で、厩戸皇子はあくまでも推古朝における有能なスタッフの一人と考えるべきだと思うのである。第一、摂政という役職は律令の中にはなく、正式職務として登場するのは、平安時代に藤原氏が勢力を高めてからのことなのである。

それにしても、「日本書紀」における厩戸皇子への称賛は大変なものである。後世においても、太子信仰と言われるほど、聖徳太子の逸話は数多く伝えられている。しかし、この聖徳太子という尊命からして、生前に使われたものではなく、没後百年余りしてから登場しており、現在では、聖徳太子の業績とされるものの多くを否定する説もあり、その存在さえ疑問視する研究者もいる。
歴史の事実として、厩戸皇子は存在し、推古天皇の皇太子として極めて有能な人物であったことは確かと考えるが、推古天皇は飾り物のような存在ですべてを厩戸皇子が取り仕切ったという考えには納得できない。第一そうであれば、蘇我馬子という傑物がおとなしくしているとは思えないのである。
さらに加えれば、ここでは詳しく述べないが、厩戸皇子の一族は、その子・山背大兄皇子の時に滅亡してしまっているのである。

推古天皇の御代は、厩戸皇子をはじめとした官僚や蘇我馬子を頂点とした諸豪族の力に支えられて、後に飛鳥文化と呼ばれる繁栄を築き上げたのである。
その御代は三十六年におよび、世に女帝による統治に何の不安もないことを示したのではないだろうか。
推古三十六年(628)春三月の七日、病のため崩御。御年七十五歳であった。翌月、夏の四月でありながら、十日には桃の実ほどの雹が降り、十一日にはすももの実ほどの雹が降った。春から夏にかけて旱魃であった。と、「日本書紀」は記している。
そして、波乱とはいえ栄華を築いた女帝に何とも哀れを感じさせるのは、『竹田皇子の陵に葬りまつる』と「日本書紀」が結んでいることである。

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