雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

歴史散策  女帝輝く世紀 ( 11 )

2016-10-13 08:35:11 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 11 )

大化の改新

『 皇極天皇四年の六月十二日、天皇は大極殿にお出ましになった。古人大兄が傍らに控えていた。
中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は、蘇我入鹿が疑い深い性格で、昼夜に剣を携えていることを知り、俳優(ワザオキ・芸人)を使って剣をはずさせようとした。入鹿は笑って剣をはずし、座に着いた。
倉山田麻呂(クラノヤマダマロ・蘇我氏。入鹿の従兄弟)は玉座の前に進み出て、三韓の上表文を読み上げた。

その時、中大兄は衛門府に命じて、十二の通門を封鎖して行き来を禁じ、衛兵を一ヶ所に集めて賞禄を与えようとした。そして、中大兄は自ら長槍を取って大極殿の傍らに隠れた。中臣鎌子らは弓矢を持って中大兄を守った。海犬養連勝麻呂(ウミイヌカイノムラジカツマロ)に命じて、箱の中の二本の剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田(カツラギノワカイヌカイノムラジアミタ)とに授けて、「油断するな、不意をついて斬れ」と命じた。子麻呂らは水で飯を流しこんだが、恐怖のため嘔吐した。中臣鎌子は叱り励ました。
倉山田麻呂は、上表文の読み上げが終わろうとしているのに子麻呂らが来ないので不安になり、全身汗みずくになり、声を乱し手を震わせた。
鞍作臣(クラツクリノオミ・蘇我入鹿のこと)は不審に思って、「なにゆえ震えているのか」と訊いた。倉山田麻呂は、「天皇のお側近くなのが畏れ多く、不覚にも汗が流れるのです」と答えた。

中大兄は、子麻呂らが入鹿の威勢に押されて襲いかからないのを見ると、「やあ」と気合を掛け、子麻呂らと共に不意をついて、剣で以って入鹿の頭と肩を斬り裂いた。入鹿は驚いて立ち上がった。子麻呂は手で剣を振り回して入鹿の片足を斬った。
入鹿は転がりながら玉座のもとに辿り着き、叩頭して、「皇位に坐すべきは天の御子です。私めに何の罪があるのですか。どうかお調べください」と言った。
天皇は大いに驚き、中大兄に仰せられた。「なぜこのような事をするのか。何事があったのか」と。
中大兄は地に伏して奏上した。「鞍作は天皇家をことごとく滅ぼして、皇位を傾けようとしています。どうして天孫を鞍作に代えられましょうか」と。

天皇は立って殿中に入られた。
佐伯連子麻呂・稚犬養連網田は入鹿を斬り殺した。
この日に、雨が降り、あふれた水で庭は水浸しになった。敷物や屏風で鞍作の屍を覆った。 』

以上は、中大兄皇子と中臣鎌子が主導して皇極天皇の面前で蘇我入鹿を斬り殺した場面を、日本書紀から抜粋したものである。
この後中大兄皇子は、皇族や群臣たちや諸豪族たちを集めた上で、入鹿の屍を父である大臣蘇我蝦夷に送り届けた。事情を知った蝦夷は、宝物などを焼き自刃する。ここに蘇我本宗家は滅亡し、歴史に大きな動揺を与えたことは確かであろう。
この暗殺劇は、中大兄皇子と中臣鎌子の劇的な出会いから慎重に計画されてきたもので、かつては、この事件そのものを「大化の改新」と呼ぶことが多かった。さすがに最近では、この事件の年の干支をとって「乙巳の変(イッシノヘン)」と呼ぶのが一般的である。
それでもこの事件を、この時代における最大のクーデターであったとする意見は根強い。しかし、本当にそれほどの事件であったのだろうか。

長年大和政権に勢力を張っており、天皇擁立にも大きな影響力を持っていた蘇我本宗家の親子を武力で倒したのであるから、その後の歴史に与えた影響は小さくはないだろう。クーデターと呼ぶのも大げさ過ぎることもないかもしれない。
しかし、クーデターというのは、武力によって政権を奪取することだとすれば、少し違うような気がする。確かに蘇我本宗家の勢力は絶大で、蘇我馬子は天皇であったという研究者さえいるらしい。だが、この時代の政権の中心人物は天皇だとする本稿としては、入鹿の暗殺は、外交的な意見の対立もあったのかもしれないし横暴な振る舞いもあったのかもしれないが、要は次期天皇を廻る延長線で起きた事件のように見えてくるのである。
見事なまでに実力者の暗殺に成功はしたが、中大兄皇子も中臣鎌子も政権を手にしたわけではないのである。将来の布石となったかもしれないが。

この事件は皇極天皇は事前に知らされていなかったらしく、皇極朝の多くを担っていた蝦夷・入鹿が討たれたことは相当な衝撃であったようである。中大兄皇子も皇極天皇を支える重要人物の一人であったと考えられるが、おそらく後継者の有力候補とみなしていた実の息子によって、最も信頼していた重臣が目の前で惨殺されてしまったのである。
皇極天皇は、皇位を中大兄に伝えるよう詔(ミコトノリ)した。これまで天皇は終身在位で、存命中にその座を下りることはなかった。従って、皇極天皇の詔はわが国最初の譲位による皇位継承を実現させようとしたものである。しかし、事の経緯を見ると、皇極天皇は、「とてもやってられないわ。それならお前がやりなさい」といった気持であったのではないかと推察してしまうのである。

皇極天皇の意向に関わらず、中大兄皇子には即位できる環境にはなかったようである。つまり、それだけの実力も群臣の支持もなかったと思われるのである。
古代について学ぶ時、それも私のような趣味レベルの場合は、その根本となるのは「古事記」と「日本書紀」にほぼ限られる。この両書であれば簡単に目にすることができるし、研究書も多く出版されている。
この両書について、その信頼性を云々する意見は古くからあるが、完全無視にして当時を推し測ることは不可能といえる。ただ、この両書に限らず現代にいたるまで、公文書に近い物であればあるほど、発行された当時の権力者の思惑が加味されていることを配慮しておく必要があることも否定できない。
そう考えた時、中大兄皇子の人物像や乙巳の変の背景などは、素直に両書の記述を受け取ることが出来ないような気もするのである。

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