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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 15 )

2017-02-22 08:40:36 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 15 )

壬申の乱

壬申の乱は、天智天皇崩御後、その跡を継いだ第一皇子の大友皇子率いる近江朝廷軍と、吉野に隠遁していた天智天皇の実弟とされる大海人皇子が率いる地方豪族を中心とした勢力とが激突した、古代における最大の内乱である。
動員された兵力は、双方共に二万とも三万ともいわれ、当時としてはとてつもない兵士が動員されたものであったらしい。

大友皇子は、この時二十四歳。天智天皇の第一皇子とされているが、天智天皇は数多くの子女を設けており、いわゆる長男という意味ではなく、身分的に最上位の皇子という意味であろう。ただ、当時の常識として、皇位は父から子へと自動的に相伝されるものではなく、兄弟あるいは皇后も有力候補者であった。それまでの即位時の天皇の年齢は、三十歳以下というのは少なく、兄弟への相伝というのが多いのである。
それに、大友皇子の母は皇女ではなく、いわゆる卑母と呼ばれる身分の女性であったから、簡単に皇位を継承できる立場ではなかった。現在、大友皇子は第三十九代弘文天皇として認知されているが、それは明治時代に入ってからのことである。正式に即位したという説もあるようだが、いくつかの条件を考えれば、事実とは考えにくい。

因みに、天智天皇には多くの妻に当たる女性がいるが、皇女が一人もいないというのも不思議であり、この天皇の本性が見えるような気もする。皇后の倭姫王の父は古人大兄皇子なので、舒明天皇の孫に当たる皇族の一員である。同時に、古人大兄皇子は天智天皇の義兄であり、謀反の罪で中大兄皇子(天智天皇)に討たれている。後の持統天皇らを儲けた遠智娘(オチノイラツメ)の父は蘇我山田石川麻呂で蘇我本宗家が滅亡した後は族長の地位にある有力者であった。この人物からは今一人姪娘(メイノイラツメ)が妻となっていて、後の元明天皇らを儲けている。
この後の、皇位継承者には天智天皇の血脈が伝えられていくが、母系でいえば、蘇我氏の色が強いともいえる。しかし、この石川麻呂も、乙巳の変で天智天皇に味方しながら、四年後には謀略にかかり自害に追い込まれているのである。
その他にも多くの妻がいたと考えられるが、大友皇子の母である伊賀采女宅子娘(イガノウネメヤカコノイラツメ)をはじめ、有力豪族の娘ではあるが皇族とは縁の薄い出自であったようだ。

さて、一方の大海人皇子であるが、一族と舎人などの供と共に近江を離れ吉野宮に入ったが、この時、左大臣蘇我赤兄(ソガノアカエ)らが見送ったが、これは、儀礼的なことよりも、間違いなく吉野に向かうのを確認するためであったと考えられる。近江の都近くで兵を挙げられる危険を感じていたのかもしれない。実際に日本書紀には、ある人は「虎に翼を着けて放った」と言ったとし、また吉野に着いた時には、大海人皇子は、諸々の舎人を集めて「自分はこれから仏道修行を行う。そこで、私に従って修業しようと思う者は留まれ。もし朝廷に仕えて名を成そうと思う者は引き返して宮廷に仕えよ」と言ったが、誰一人去る者はいなかったという。
この時、舎人がどれほどいたのか分からないが、皇太子付の舎人の定員は六百人とされていたので、おそらくそれに近い数百人はいたと考えられ、壬申の乱では舎人たちが活躍している。
つまり、近江朝廷は大海人皇子の謀反を心配し、大海人皇子自身もその気十分だっと考えられるが、重病の天智天皇は簡単に虎を野に放ってしまったのである。
数多くの謀略を重ねてきたと考えられる天智天皇は、最後の最後で判断を誤ったように思うのである。

壬申の乱は、当時しては広範囲、かつ大兵力の激突となったが、戦いの模様を詳述することは本稿の目的ではないので割愛するが、迅速な動きと美濃などの地方豪族を味方につけた大海人皇子方が勝利する。大海人皇子が吉野を出てから一か月余りで近江朝廷軍は壊滅、大友皇子も死に追い込まれている。
この結果、大海人皇子は天武天皇として即位することになるが、両親を同じくする兄弟とされる中大兄皇子と大海人皇子は、もっと穏やかな形で皇位継承を成すことが出来なかったのだろうか。壬申の乱に至った原因を少し探ってみよう。

まず、はっきりしていることは、他に様々な要因があるとしても、直接的な原因は、天智天皇の実子である大友皇子と大皇弟(ヒツギノミコ)あるいは皇太子とされていた大海人皇子との皇位争いという、ごくごく単純なものといえる。そして、当時の常識としては大友皇子に皇位を継がせるための群臣の推挙を受けられないことは承知していながら、天智天皇が大海寺皇子を謀殺することなく野に放ってしまったことが大友皇子を滅亡に追い込んでしまったのである。

あるいは、そもそも天智天皇の近江への遷都には不満をいだく豪族・群臣は多かったことが、皇族を含めた朝廷を二分させる要素を含んでいた可能性があったのかもしれない。さらに言えば、遷都だけでなく、それまでの天智天皇つまり中大兄皇子の謀略はあまりにもひどく、鬱屈した思いの勢力が大海人皇子支持に回っていた可能性もある。

そして、どうしても、中大兄皇子と大海人皇子の関係の謎が浮かび上がってくる。
日本書紀には、中大兄皇子は早くから登場してきているが、大海人皇子の消息は、中大兄皇子つまり天智天皇の最晩年までは極めて断片的である。中大兄皇子は、早くから敵対勢力、あるいは将来敵対勢力になり得る相手を主として謀略を以って滅亡させている。しかし、大海人皇子は一度もその対象になっていない。大海人皇子は献身的に兄に仕え続けていたのか、あるいは別の理由があるのか・・・。私に別の理由があるように思われてならない。何も立証できないが。

さらに、この二人の関係を語る時、必ず登場してくるのが、額田王(ヌカタノオオキミ)である。
この古代史のトップクラスのヒロインは、最初は大海人皇子に嫁ぎ十市皇女(トイチノヒメミコ)を儲けていたが、その後中大兄皇子の妃になっている。ただ、その後も額田王と大海人皇子の関係は微妙なものであったらしく、これが壬申の乱につながる下地になっているという説がある。これは単なる憶測ではなく、万葉集に残されている二人の歌は、それが恋愛歌を収めている「相聞」の部ではなく「雑歌」の部に乗せられているからといって、二人の関係にただならぬものを感じるのを否定することはできない。その歌を記しておこう。
『 あかねさす 紫野行き 標野(シメノ)行き 野守は見ずや 君が袖振る 』( 額田王 )
『 紫草(ムラサキ)の 匂へる妹(イモ・主に妻や恋人を指す)を 憎くあらば 人妻ゆえに われ恋ひめやも 』( 大海人皇子 )

この歌が詠まれたのは、天智天皇が即位した年のことで、狩猟の後の宴席の場で群臣居並ぶ中のことであったとされている。
額田王を廻る二人の皇子の恋心が、国家を二分する戦いを導いたのだとすればなかなかドラマチックではあるが出来過ぎのような気がする。しかし、同時に、歴史を大きく動かせるような大事も、その根幹に個人の業(ゴウ)のようなものがあるものだとすれば、この説を一笑に付することも出来まい。

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