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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 10 )

2017-02-22 11:15:50 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 10 )

再び女性天皇に

舒明天皇の御代はおよそ十三年、決して短い期間ではない。
日本書紀によれば、その間には、大陸との行き来が激しかったらしいことや、天候不順からくる飢饉があったことなどが記されている。しかし、舒明天皇の巻の記事の半分以上は即位に至る諸豪族の争いが記されていて、山背大兄王を強く推挙していた境部摩理勢(サカイベノマリセ)を蘇我蝦夷(ソガノエミシ)が討ち果たす記事など、こちらが主題かのようにさえ見る。
つまり、舒明天皇の御代は、国内政治的には比較的平穏な期間だったように思われる。

舒明天皇十三年の冬十月九日に、天皇は崩御された。
十八日に宮の北で殯(モガリ・仮の安置所に祭ること)を行った。この時、東宮・開別皇子(ヒラカスワケノミコト・中大兄皇子)が御年十六歳で誄(シノヒコト・弔辞のようなもの)を奉った。(日本書紀)
翌年の正月十五日に舒明天皇の皇后であった宝皇女が即位した。皇極天皇である。
日本書紀の巻第二十四は、皇極天皇の血脈を簡単に記し、即位したこと、蘇我蝦夷を引き続き大臣として、何の変りもないとしている。つまり、皇極女帝の即位はごく自然の流れといった書き出しなのである。

それでは、舒明天皇が崩御した時点で、次期天皇候補は皇后に限られていたのかといえば、とてもそのような状況ではなかったはずである。
舒明天皇と皇極天皇の皇子である中大兄皇子は、皇太子の地位にあり有力候補の一人とも考えられるが、日本書紀に従えば、この時十六歳であり、当時の皇位継承者としてはあまりにも若過ぎる。そうなると、かねてより皇位を狙い続けている厩戸皇子(聖徳太子)の御子である山背大兄王と、舒明天皇と蘇我馬子の娘である法提郎女(ホテイノイラツメ)との間の皇子である古人大兄皇子とが有力候補であったはずである。
古人大兄皇子は、蘇我本宗家である蝦夷や入鹿が強く支援しており、山背大兄王も勢力を有していて対抗していたようである。結局は、両者の対立が大戦乱となるのを避けるために皇后である宝皇女、つまり皇極天皇の登場となったという見方が強いようである。しかしそれは、考え方によっては、皇極天皇であれば両者を含め群臣を納得させることが出来るということになる。
再び女帝誕生となったのは、単なる対立の先送りの為であったと考えるのはあまりにも安易な考えのような気がする。皇極天皇自身の存在の重さをもっと考慮する必要があるように思うのである。

皇極天皇即位の翌年十一月、蘇我入鹿は山背大兄王を斑鳩(イカルガ)に兵を送り不意打ちした。
山背大兄王の舎人たちは奮戦し、敵将の一人を討つなどし、その隙に山背大兄王は妃や一族を率いて脱出し、生駒山に身を隠した。四、五日経ち、従っていた家来たちは、東国に行き、軍を起こして引き返せば勝利できると勧めたが、「戦えば、きっと勝つであろう。しかし、自分の為に万民を苦しめることはできない」と言って、斑鳩寺に入った後、一族もろとも自ら死を選んだという。ここに厩戸皇子(聖徳太子)・山背大兄王と続いた上宮王家は滅亡した。

それにしても、山背大兄王一族が自死するあたりの日本書紀の表記は、あまりにも不自然である。
蘇我本宗家が古人大兄皇子の即位を願っていることから山背大兄王を攻めたということは分かるが、かねてより皇位を求め続けていたらしい山背大兄王が、一族諸共を呼び集めるようにして滅亡したというのである。しかも、「戦えば勝つのは分かっているが万民を苦しめるわけにいかないから」と何とも理解しがたい言葉を残したというのである。
また、蘇我氏が蘇我系の天皇の即位を求めていたことは分かるが、なぜこれほどまでに山背大兄王を憎まなければならないのだろうか。血統という面からすれば、厩戸皇子は父も母も蘇我の血を引いており、さらに山背大兄王を生んだ妻は蘇我馬子の娘なのである。
考えられる一つの理由は、欽明天皇は蘇我稲目(馬子の父)から二人の娘を妻に迎えていたが、その一人は推古天皇らを生み、いま一人(小姉君)は、厩戸皇子の母となる穴穂部間人皇女らを生んでいるのである。この小姉君の子孫はどうも蘇我氏と対立することが多かったような気配がある。もしそうだとすれば、小姉君は蘇我稲目の実子ではなく、物部氏の娘のような気がするのである。全くの想像であるが、そうであるとすれば、蘇我本宗家としては、物部氏の血を引く山背大兄王を即位させることはとても容認できなかったと考えられる。

このような推理が成立するとすれば、厩戸皇子が物部氏討伐に加わったことや、蘇我馬子と共に推古朝を支えたという日本書紀などの記録は、そのまま受け入れてよいのか疑問が残る。
さらに言えば、山背大兄王滅亡の様子を見ると、何としても山背大兄の上宮王家を歴史の表舞台から消し去る必要があったように見える。むしろ、山背大兄王という人物や一族は、本当に存在していたのかとさえ思えてしまうのである。これは、私個人の想像ではなく、そのように主張する研究者もおり、上宮王家には謎が多すぎる。

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