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歴史散策  女帝輝く世紀 ( 16 )

2017-02-22 08:15:10 | 歴史散策
          女帝輝く世紀 ( 16 )

白鳳文化

白鳳文化という言葉がある。天武・持統朝を中心とした時代に興隆した文化を指すが、時には白鳳時代という言い方をすることもある。
その期間には、狭義のもの広義のものと捉え方に差はあるが、天武・持統朝を中心とした40~60年間を指す。都の位置を中心に考えれば、飛鳥時代の一部といえないこともない。
その文化の特徴は、記紀(古事記と日本書紀)の編纂開始や、万葉歌人の活躍、仏教文化の興隆などが挙げられようが、実は、天皇権威の確立、律令の制定などの政治的変化も大きな意味を占めているのである。

さて、壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥に凱旋し、母である斉明天皇(皇極天皇)の王宮・後飛鳥岡本宮に入った。そして、その南に新しい宮殿を造った。飛鳥浄御原宮(アスカキヨミハラノミヤ)である。
翌天武天皇二年(673)二月に即位する。天武天皇の誕生である。
天武天皇の御代は、崩御するまでの十三年半に及ぶ。その治世について詳述しないが、幾つかの大きな変化を生み出している。

まず、天皇の権威が高まったと考えられることである。万葉集の中に、壬申の乱の後の歌として、『 大王は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居を 京師(ミヤコ)と成しつ 』というのがある。継体天皇以後の天皇を思い浮かべた場合、神の神託を得る云々ということはあるとしても、神そのものとした記録などは無いように思われる。壬申の乱という、これまで人々が体験したことのない大規模な内戦に勝利した事も起因していると考えられるが、もっと違う理由、あるいはもっと巧妙な仕掛けがなされていたのかもしれない。

次に、「天皇」という称号の出現である。天皇という称号の成立については、推古天皇の時代という説もあるが、前項を補佐する理由となるが、天武天皇を尊称する形で登場したという考え方が有力のようである。本稿では天皇という称号をすべての天皇に用いているが、天智以前はおそらく大王と呼ばれていたと考えられる。また、天皇名を漢風諡号で記しているが、生前に使われることはなく便宜上のことである。
また、ほぼ同時期に「日本」という表記も誕生したと考えられている。わが国の呼び名は、相当古くから「ヤマト」であったらしく、外国文献では「倭」の文字が当てられている。「大和」という表記もあるが、こちらはむしろ近代でも使うことがあったように思われる。その「倭」が「日本」に変わっていった背景には、太陽神、つまり天照大神を意識した部分があったかもしれない。それは、白鳳時代における天皇権威を高める手段に、天照大神の存在が見え隠れするように思われるからである。
いずれにしても、白鳳時代の政治的な変化は、後世のわが国に少なからぬ影響を与えていることは確かであろう。

それにしても、天武天皇について日本書紀はじめいくつかの研究書を読めば読むほど謎が深まる。
天武天皇とは、本当は何者であったのか。天武天皇と天智天皇の関係はどういうものであったのか。子供を相手とはいえ、壬申の乱という古代における最大の内乱を引き起こしてまで、正義がいずれにあるかはともかく、皇位を簒奪した天武天皇の天智天皇の御子たちに対する対応は、理解するのがなかなか難しい。 
天智天皇は多くの妻(正式の妻妃かどうかはともかく)を持ち多くの御子を得ているが、皇位を継承させる皇子の母になれる妻は少なく、子供も男児が少ない。この時代、乗り込んできた形の継体天皇はともかく、皇位に就く候補には生母の血統が重視されていた。生母は、皇族の出自以外では、葛城氏や蘇我氏など「臣」クラスの豪族に限られていた。

日本書紀に記されている天智天皇の妻子を列記してみよう。
* 皇后は、古人大兄皇子(天智天皇の異母兄)の娘・倭姫である。
* 蘇我山田石川麻呂大臣の娘・遠智娘(オチノイラツメ)。一男二女あり。大田皇女(オオタノヒメミコ・天武天皇の妃。大津皇子らの母)、鸕野皇女(ウノノヒメミコ・天武天皇の皇后。後の持統天皇)、建皇子(タケルノミコ・物が言えなかったが、斉明天皇に溺愛されるも夭折)。
* 遠智娘の妹で、姪娘(メイノイラツメ)。二人の皇女あり。御名部皇女(ミナベノヒメミコ・高市皇子の妃?)、阿閇皇女(アヘノヒメミコ・草壁皇子の妃。後の元明天皇で文武天皇の母)。
* 安倍倉梯麻呂大臣の娘・橘娘(タチバナノイラツメ)。二人の皇女あり。飛鳥皇女、新田部皇女(ニイタベノヒメミコ・天武天皇の妃)。
* 蘇我赤兄大臣の娘・常陸娘(ヒタチノイラツメ)。皇女一人あり。山辺皇女(ヤマベノヒメヒコ・大津皇子の妃)。
* 忍海造小竜(オシヌミノミヤツコオタツ・地方豪族?)の娘・色夫古娘(シコブコノイラツメ)。一男二女を生んだ。大江皇女(天武天皇の妃)、川島皇子(後に大津皇子の反逆を告発した)、泉皇女(後に伊勢斎宮)。
* 栗隈首徳万(クルクマノオビトトコマロ・山城国の豪族?)の娘・黒媛娘(クロヒメノイラツメ)。一女あり。水主皇女(モヒトリノヒメミコ・天平九年(737)没と長命であったようだが、他は未詳)。
* 越道君伊羅都売(コシノミチノキミイラツメ・豪族の娘か?)。一男あり。施基皇子(シキノミコ・芝基、志貴、志紀とも。著名な歌人で、光仁天皇の父となる)。
* 伊賀采女宅子娘(イガノウネメヤカコノイラツメ・伊賀の豪族の娘か)。一男あり。伊賀皇子(大友皇子)。

以上のように、皇后の他に、子を儲けた八人が載せられている。先の四人は「臣」格の豪族の娘であるが、後継となるべき皇子はいない。次の四人は、地方豪族の娘が采女として宮仕えしていて天皇のお召しがあったらしいが、当時の天皇や貴族たちの間ではごく日常のことのようである。但し、その女性が男子を生んでも、当時の常識としては皇位に就くことはなかった。大友皇子が即位していたとか、天智天皇が弟の大海人皇子より我が子の大友皇子を皇位につけたかったことが壬申の乱の原因とするのは、本当に正しいのかいささかの疑問を感じる。
それに、壬申の乱により、大友皇子や近江朝廷の群臣が多く処刑されたりしているが、ここに書かれている天智天皇の皇子・皇女たちはそのほとんどが、それなりの待遇を受けて、むしろ大切に遇されており、後々の皇統に重要な役割を担っているのである。

さらに言えば、天武天皇は、天智天皇の皇女のうち四人を妻に迎えているのである。大田皇女と鸕野皇女は天智天皇存命中のことで理解できるが、後の二人は壬申の乱後のことと思われる。天武天皇は、何ゆえ四人もの天智天皇の皇女を妻としたのだろうか。もしそれが、天智の血脈を求めてのことだとすれば、天武・天智が父母を同じくする兄弟というのに疑問が生じる。そして、天武天皇は、なぜそれほど天智天皇の血脈を必要としたのだろうか。
やはり天武天皇は、謎多き天皇である。

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