プロデューサー兼アーティストを務めた
現代美術展覧会Mirageが先日無事終幕いたしました。
2日間だけ京田辺に現れあっという間に消えていった
文字通り蜃気楼のようなグループ展でしたが、
2日間の観客総計は、なんと4,224名!
現代美術の展示にしては異例であると言っても
差し支えのない程の多くの人々に見てもらうことができました。
アーティストや美術関係者、研究者の方々にも多数ご来場いただきましたが、
たった2日間の展示で終わらせるにはもったいないとのお声をいただき、
今後のさらなる展開に向けて大きな手ごたえをつかむことができました。
ご来場の皆様、展覧会をサポートしてくださった皆様
(特に展覧会場で案内をしてくれた同志社の学生たち)
ありがとうございました。
さて、
先のブログに僕の作品と著作権についてのご質問がありました。
僕の作品は、一般に流通しているマンガ雑誌を素材としており
それが作品コンセプトの肝であるので、
この場をお借りして、僕の著作権についての考えを
記させていただきたいと思います。
まず、Mirage展に出品した作品「ノマドの詩」は、
マンガ雑誌の1ページを切り取り
白く塗りつぶすことで集めた数百のセリフの断片を、
モンゴルの移動住居であるゲルに展示することによって構成されています。
この、マンガのセリフの一部を素材としているという点を、
他人の著作物の一部分を利用して自身の作品としている、
と捉える事もできるでしょう。
したがって、著作権関係はどうなっているの?
と疑問に思われる方がいて当然であると思います。
美術の文脈で、
他人の手によるものの作品化と聞いてまず思い浮かぶのが、
マルセル・デュシャンによる「レディ・メイド」でしょう。
デュシャンのレディ・メイドを詳しく説明すると長くなるので
ここでは省略しますが、
デュシャンがレディ・メイドを通じて提示した重要な点は、
「いかにオリジナルな美術作品を作るのか?」という命題は、
「いかにオリジナルの観点から美術的価値を創造するのか?」とイコールである、
ということであると思います。
そのように考えると、オリジナルな美術作品とは、
アーティストによってゼロから作り上げられるからオリジナルなのではない、
ということになります。
例えば、風景画は、元になる現実の風景がなければ描くことができませんが、
その風景は、風景を描いたアーティストがゼロから作ったものではないはずです。
しかし、それでその作品がオリジナルではない、
ということにはならないはずです。
仮に、描かれているものが想像上の風景であっても理屈は同じで、
想像の元になるイメージというものが必ずあったはずです。
著作権自体がごく最近に決められた約束事であって、
これまでの文化の歴史や美術の歴史とは矛盾した要素を含んでいるのです。
また、僕の作品はマンガのセリフの断片を用いていますが、
元のマンガ作品の内容、ストーリーがわかるほどの長い引用や
その作品特有の言葉使いの使用は避けています。
特にマンガの作者による造語やキャラクター名は一切使用していません。
僕の使用するセリフは、あくまでも断片的なものであり、
特定のマンガ作品を想起させない普遍的な言葉です。
そのような言葉とは、本質的に人類で共有するものであって、
だれか特定の人物の著作物ではあり得ないと考えています。
(たとえば、あるマンガから「大切なのは記憶…記憶だ…」
というセリフを引用したとしても、この言葉は非常に普遍的なものであって、
特定の個人の著作にはならないのではないでしょうか。)
最後に、
僕の作品は誰かの著作権を「侵害」するものではありません。
僕が作品の素材にすることよって、誰かのマンガが売れなくなったり、
元になるマンガのオリジナリティが損なわれたり、
本来マンガの作者に入るはずの莫大な利益が僕に転がり込んでくる、
なんてことはまず考えられません。
僕はこれまで自身の作品を制作、発表する中で、
当然のことながら、人一倍この問題について熟考してきたつもりです。
そして、以上が僕の現時点での結論です。
現代美術展覧会Mirageが先日無事終幕いたしました。
2日間だけ京田辺に現れあっという間に消えていった
文字通り蜃気楼のようなグループ展でしたが、
2日間の観客総計は、なんと4,224名!
現代美術の展示にしては異例であると言っても
差し支えのない程の多くの人々に見てもらうことができました。
アーティストや美術関係者、研究者の方々にも多数ご来場いただきましたが、
たった2日間の展示で終わらせるにはもったいないとのお声をいただき、
今後のさらなる展開に向けて大きな手ごたえをつかむことができました。
ご来場の皆様、展覧会をサポートしてくださった皆様
(特に展覧会場で案内をしてくれた同志社の学生たち)
ありがとうございました。
さて、
先のブログに僕の作品と著作権についてのご質問がありました。
僕の作品は、一般に流通しているマンガ雑誌を素材としており
それが作品コンセプトの肝であるので、
この場をお借りして、僕の著作権についての考えを
記させていただきたいと思います。
まず、Mirage展に出品した作品「ノマドの詩」は、
マンガ雑誌の1ページを切り取り
白く塗りつぶすことで集めた数百のセリフの断片を、
モンゴルの移動住居であるゲルに展示することによって構成されています。
この、マンガのセリフの一部を素材としているという点を、
他人の著作物の一部分を利用して自身の作品としている、
と捉える事もできるでしょう。
したがって、著作権関係はどうなっているの?
と疑問に思われる方がいて当然であると思います。
美術の文脈で、
他人の手によるものの作品化と聞いてまず思い浮かぶのが、
マルセル・デュシャンによる「レディ・メイド」でしょう。
デュシャンのレディ・メイドを詳しく説明すると長くなるので
ここでは省略しますが、
デュシャンがレディ・メイドを通じて提示した重要な点は、
「いかにオリジナルな美術作品を作るのか?」という命題は、
「いかにオリジナルの観点から美術的価値を創造するのか?」とイコールである、
ということであると思います。
そのように考えると、オリジナルな美術作品とは、
アーティストによってゼロから作り上げられるからオリジナルなのではない、
ということになります。
例えば、風景画は、元になる現実の風景がなければ描くことができませんが、
その風景は、風景を描いたアーティストがゼロから作ったものではないはずです。
しかし、それでその作品がオリジナルではない、
ということにはならないはずです。
仮に、描かれているものが想像上の風景であっても理屈は同じで、
想像の元になるイメージというものが必ずあったはずです。
著作権自体がごく最近に決められた約束事であって、
これまでの文化の歴史や美術の歴史とは矛盾した要素を含んでいるのです。
また、僕の作品はマンガのセリフの断片を用いていますが、
元のマンガ作品の内容、ストーリーがわかるほどの長い引用や
その作品特有の言葉使いの使用は避けています。
特にマンガの作者による造語やキャラクター名は一切使用していません。
僕の使用するセリフは、あくまでも断片的なものであり、
特定のマンガ作品を想起させない普遍的な言葉です。
そのような言葉とは、本質的に人類で共有するものであって、
だれか特定の人物の著作物ではあり得ないと考えています。
(たとえば、あるマンガから「大切なのは記憶…記憶だ…」
というセリフを引用したとしても、この言葉は非常に普遍的なものであって、
特定の個人の著作にはならないのではないでしょうか。)
最後に、
僕の作品は誰かの著作権を「侵害」するものではありません。
僕が作品の素材にすることよって、誰かのマンガが売れなくなったり、
元になるマンガのオリジナリティが損なわれたり、
本来マンガの作者に入るはずの莫大な利益が僕に転がり込んでくる、
なんてことはまず考えられません。
僕はこれまで自身の作品を制作、発表する中で、
当然のことながら、人一倍この問題について熟考してきたつもりです。
そして、以上が僕の現時点での結論です。














