「難波宮って?」 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

「白村江の戦い」 の なんで? ー本編 その1ー

2017年01月25日 | 歴史

白村江の戦い、不思議 本編です。

念願の、

百済 白村江を求めて」 平成28年5月

  の旅を終え

 定年後 始めた 《 古代日本史の旅 》

大化の改新から、平城京築営までの、各地探索を続け
念願の、韓国 百済 旅行で、なんと、ド素人の私が、
白村江の場所にたどり着けるという幸運に巡り合え、
大化改新から平城京までの、古代史探索に一区切りがつけました。
 そして、とても難しく、不思議で、興味をそそる謎
「白村江の戦い」 に行きついてしまったのです。

 私は最初、この歴史的な出来事は、日本、朝鮮、中国が関与する
出来事で、しっかり事実関係は確認され、解き明かされていると思って
いたのですが。
図書館で、本を読みあされば、読みあさるほど、ハッキリしない謎に
突き当たり、挙げ句の果ては、平成の御代の今日でも、なんと!
白村江の場所すら確定されていないと言う事実に気づかされ、
余りの意外性と、不可解に驚きを覚えてしまいました。

謎を確定する一番確実な史料としては、残された関連のあった
それぞれの国に伝わる、国史だと思うのですが、それぞれの国の事情で、
自分の国にとって都合が良いように、核心部分が異なって記述されて、
伝承されており、謎が謎として、残されたままになってしまっている
事に驚き、呆れてしまいました。

 謎を一つずつ、並べていきたいと思います。

 

1) 百済王朝滅亡 660年から、白村江の戦い 663年

  こんな日本とって、とても大事な戦いまでの期間が、たった3年
 準備も何もあったもんじゃないだけれど
 それまでは、百済が、新羅や、高句麗、唐から攻められ、
 危なくなったら、いつも、百済から、援軍要請があり、
 不思議な程、親切にノコノコ、援軍を出兵していたのに、
 日本に助けを求める暇も無かったのか百済はアッサリと、
 唐と新羅の連合軍に占領されてしまい、
 王朝は滅亡してしまったのです。
 前もって、唐が百済を攻めるという情報が、無かったのだろうか?

 この謎の回答の一つとして、ロマン好きな小説家が、
 新羅の英雄 金春秋後の新羅王 武烈王が、高句麗 倭国 
 順番に親善訪問し、それぞれの国で、親善外交を繰り広げ、
 自国(新羅)の都合がいい方向へ、話をもって行き、
 その成果が見事に現れ、百済危機の状況判断が、
 日本として遅れてしまったとされています。
 事の正否は不明ですが、他国への親善訪問を重ねたと言う事実は、
 その外交手腕として驚愕に値しますよね。
 今から千三百年も昔に、移動するにしても、高速艇も、新幹線も、
 飛行機も、もちろん、電話もインターネットも無い時代ですよ!
 この時代からすでに新羅系朝鮮は、現代に至る韓国と同様、
 外交上手だったんだ。
 日本人は、のんびりとしていて、事が起こってからでないと、
 対応できないのは、今も昔も(女房を怖がる私も含めて)
 変わりませんね!!!

 この中に気になる事実が隠れているのです。

 金春秋が、高句麗の次に倭国に遣って来たときに、
 飛鳥で親善外交を繰り返し、大和の宮廷内に、新羅国の親派を
 幾人も造り出したようです、そしてその中の一人に、
 後の天武天皇 大海人皇子が居たと、言われているのです。
 もしそうだとすれば、その後、白村江の戦いから、壬申の乱に至る
 何故かなと不思議に思っていた、謎の幾つかが、簡単に推測
 できてしまうのです。
  その一つ、大海人皇子が病身の天智天皇から、
 譲位を申し入れられたとき、それをアッサリと断り、
 吉野へ隠居する理由で、大津の宮を離れる時、
 その旅立ちを見送った重臣が、 「虎に翼を着けて放すが如し。」
 言った訳。そうです。
 虎は当時日本には居ない獣(タブン?)、朝鮮にいる獣です。
 「新羅の虎を、逃がしてしまったぞ!」と言いたかったのかもしれません。

 

2-1) なぜ、斉明天皇は老体をむち打ち、わざわざ九州にまで、
 西征したんでしょう。

 戦争準備の邪魔になるだけだよね?
 中大兄皇子に任せておけばよかったんじゃないか。? 

  日本書紀が、斉明天皇をどう後世に伝えたっかったのか?
 たとえの一つに、今も飛鳥に残る
 不思議な石像遺跡(亀石や、今でも学校の遠足等で、
 間違ってその近くで、休憩をしてしまったら、生徒のパニックが
 容易に想像できる、男のアレの石像など)や、
 難波の宮から飛鳥に遷都し、新しい岡本の宮の造営で、
 当時としては、途方もない大掛かりな土木工事を行い、
 その工事に駆り出された数万の人々は、
 狂心(たぶれごころ)の渠工事と非難した。等
 謎めいた、神秘的女帝に描かれていますよね。

  その神秘性で唐 新羅の連合軍に充たろうとしたのでしょうか?
 もしかしたら、斉明天皇 本人は、そのつもりだったかもしれませんよね。

 

2-2) 西暦661年7月、百済派遣軍を指揮するため。

  博多に向かって、難波津を出向した、斉明天皇の一行には、
 大海人皇子、その妊娠中の妃(航行中に、無事ひめみこを
 出産され飛鳥に引き返される。)や、その他大勢の、
 皇族がお供し、途中に愛媛の道後温泉に3ヶ月近くも
 滞在されたのです。
 あの(私の大好きな女性キャラクター)、
 額田王姫(ぬかたのおおきみ)も随行し、
 「にきたつに、船乗りせむと、月待てば、潮もかないぬ、
 
今は漕ぎ出でな」
 
と、高校の古文で習った有名な歌を詠んでいます。
 この歌を習ったとき私は、「だからどうしたの?」と、
 古文の先生が有名な和歌だと、力を込めて教えて頂いたのですが、
 もう一つ歌の意味が解らない、感性の低いダメな生徒でした。
 クラスの皆も、へーアッそうともう一つ盛り上がらなかったんですが、
 皆さんのクラスではどうでしたか?

  大事な、キャラクター総出演のこんな大所帯で、大移動。
 これって、今の「会社の慰安旅行」のハシリと思えて
 しまったんだけれど?

 ◎ 平成28年9月の毎日新聞が、学説紹介として。
   難波津を出発して、時間を掛けて移動したのは、
  重大な国政の行方を案じ。
  方位学を重んじて、月の出の位置を基準に行き先を決めたためとし、
  その方位に月の出が来るのを待って移動した為で、
  航路の中には、九州 宗像市 沖の神聖な小島「沖の島」 も
  含まれていたと、されていました。
  面白い学説と感心させられました。
  それならば、額田王姫の 「月待てば、」の意味が変わってきて、
  よく分かりますよね。
  月に影響される、潮の満ち干引きだけではなく、月の出の方向を
  見ていた為で、この戦が、少しでもよい方向に行くようにと
  祈願したためと思われますよね。
  この事は、学校では微塵だに教えてくれませんでしたね。
  私が受けた、戦後教育では無理ないか!
  今の、古文の先生、この事を、旨く生徒に教えてくださいね。 

   私は、つまらないことが気になる性格で、
  「でも、神聖な小島「沖の島」 は、女人禁制だよね、
  女帝 斉明天皇は上陸できたんだろうか?」
  女人禁制になったのは、後世のことで、当時はその掟は無かった。
  と言うことでしょうか?

    「沖の島」の女人禁制について、最新の小説「神様の御用人」で、
  (「神様の御用人 6」浅葉なつ ㈱KADOKAWA 出版)
  題材にされていて、古代は、沖の島の神社には、女官がいて、
  神様を奉っており、なんと、その女官の一人を大海人皇子が娶り、
  高市の皇子をもうけたとしています。
  コミック的な、明るくて面白いシリーズの文庫本ですので、
  一度、購読さえれることをツヨクおすすめします。
  コミック的で面白く、日本神話が面白くなること請け合いです。

 ◎ 興味深い学説があります。

  この「難波の宮って?」に興味を覚えるまでは、私は少しも
 知らなかった、歴史上の事実なのですが、この戦いの一方の当事者、
 新羅の国王 武烈(金春秋)が動乱の真っ最中 661年6月に死亡。
 暗殺の疑念あり。!!

  そのわずか1ヶ月後
 日本の天皇、斉明天皇、北九州の仮宮で 661年7月 崩御。

 もしかして、暗サ
 でもそうだとして、誰が得をするの?
 歴史的結果として、高句麗(北朝鮮)が得をしたと、
 その学説には書かれているのだけれど?
 また、調べたいことが増えました。

 

2-3) この後の、歴史進行の大事なキャラクターになる、大海人皇子
 記載が「白村江の戦い」のなかに一言も無いのです。
 この事から、色々な歴史家、小説家が、妄想を巡らし、この後で出てくる、
 百済の王、豊璋を、当てはめている方が、何人もおいでになります。
 私は、「それは少し無理があるんじゃ無い?」と、思うんですが。
 その他の、興味深い説に、大海人皇子は、百済救援のリーダーになっており、
 倭国の水軍に随行し、そして、唐の大水軍に破れてしまったため、
 大敗の責任者である事を隠すため、日本書紀には書かれなかった、
 いや、書けなかった。とされています。
 この他に、大海人皇子 のちの天武天皇については、日本書紀の中で、
 なんで?と 思える記載が多くあります。
 日本書紀の作成を、命じられたのは、天武天皇 本人なのに「なんで?」
 答えの一つに、日本書紀を作成したのは、当時書記官に多く登用されていた
 百済からの避難民だったため、と言われています。
 新羅の親派と見られていた 大海人皇子を許せなかったのでしょうか?。

  そう言えば、中臣の鎌子(藤原鎌足)を、豊璋に当てる作家も居ましたよね。

 

3-1) 日本書紀に「白村江の戦い」は、かなり詳しく、物語風に
 書かれているんだけれど。
 自分達に都合の悪いことは書か無いというのが、歴史書の原則のはず
 なんだけれど。
 今の私達、日本人が読んで、その筋書きは、その当事者の都合の悪いこと
 だらけだよね。
 ちなみに、勝者の新羅の正式な歴史書には、自分達にとって、
 都合が悪いのか? 白村江の「白」の字も、書かれていないそうです。
 新羅の系列を引き継いでいる、今の韓国でも、教科書には、
 「白村江の戦い」の、「白」すら、載っていないそうです。

  日本書紀の編集者は、どういう立場でこの、白村江の戦いを、
 見ていたのかが本当に謎です。
 だって、この内容で、得をする人が居たんでしょうか?
 もし、得をする人物が居たとすれば、それは誰?

 

3-2)日本から送り込まれた、百済の王、豊璋の記載が余りにも、
  露骨にコキオロされています。

   豊璋が、幼年期に倭国へ百済から百済王の子として、
  人質(両国友好のあかし?)に連れてこられ、倭国で成長し、
  書かなくてもよい、余計な逸話として、養蜂業( ミツバチの生育生産 )に
  手を出し、見事に失敗してしまったことまで、詳しく記載され、
  王としての素質に、初めから疑問符を付けているとしか、思えない
  人物として描かれています。

   その頼りない豊璋を、西暦660年、百済が唐に破れた時、王族が全て、
  唐の洛陽に、人質として連れて行かれてしまい、反抗の旗印が居なくなり、
  困った、百済復興の立役者、百済の将軍 福信の要請に応じて、
  百済王として、護衛の軍隊を付けて、百済復興の本拠地、州柔(つぬ)に
  西暦661年

   斉明天皇
  
「将軍達にそれぞれ命令を下し、百の道からともに前進させなさい。
  雲のように集い、
雷のように動いて、みな 沙たく(新羅の地)に集結し、
  敵を倒して百済の窮迫を、
やわらげなさい。
  
各官史は王子のために十分な用意をし、礼をつくして発遺させるように。」

  と、誰が聞いても恐れ多い、唐の軍事力の恐怖を微塵にも感じることが
  出来ない、最高の国命で、豊璋を送り出しているのですが。
  これでは、旨く行くはずがないじゃ無いを、前提に話が進んでいき、
  案の定、戦争の真っ直中に、有ってはならない出来事が綴られていきます。

 ◎ この、百済の将軍 福信の救援要請で、少し気になる文章があります。

  福信が救援要請の手みやげに、
  「戦いで捕らえた、唐の捕虜 百余人を、たてまつった。」
  「これは今、美濃国の不破、片県 二郡にいる 唐人達である。」
 
  と日本書紀に書かれています。

   そうです、後の、壬申の乱で、大海人皇子の軍が陣を牽いた
  不破の関にです。
  もしや??!
  不破の関を旅行した時、資料館で、係りの女性事務員に教えて貰った
  不破の関の川を挟んでの、村どうしの対立の原因が?!!

   「河を挟んで、二つの村の間では、壬申の乱で、
  近江側、大海人皇子派に分かれて応援したため、
  それ以来仲が悪くなり、結婚なんてとんでも無い、

  と言う関係が、太平洋戦争が終わるまで、1300年以上続いたらしいです。」

  と、教えていただけました。
  そういうこだわりは、この壬申の乱で、敵味方に分かれただけを、
  理由にするのは、少し無理が有ると思うのですが?
  もしかしたら、それまでも、
  土着の倭人め!
  「唐から連れてこられた、捕虜め!

  と言うお互いの気持ちが、あったんじゃー無いかなと、思って
  しまったんですが。

  大海人皇子が吉野から逃げ出し、不破の関までに移動する間の通り道で、
  寄せ集めた土着の武士団は、国同士の大きな戦いの経験は殆どなかった
  はずです。
  そもそもそれまで、日本では、何万人もがぶつかり合う武士団同士の
  戦いの歴史は無かったはずですから、どう戦えばいいかを知る由も、
  なかったはず。
  この集団に不破の関で、合同連携戦術の訓練したと、書かれているのです、
  これを指導指揮したのは、
  もしや、大陸で、陸続きの隣国の侵略を繰り返し、大きな戦いをイヤと言う
  ほど熟知していた、この唐人達。?

  壬申の乱 三日目 を参照ください。

  そして、大海人皇子 が勝ったのは、この唐の捕虜百人を味方に出来たから。
   (*^_^*)

 

 ① 百済の州柔(つぬ)に将軍 福信により、百済王として迎えられた
 豊璋は、
 「この州柔は、田畠に遠く、土地もやせており、
 ……、ここは防戦の場所である。」
 「民は食物に事欠くであろう。いまは作物の豊かな避城(へさし)に、
 ( 錦江の対岸、平地が広がる )
 移らないという法はない。」

 と不平を述べた。

 随行している倭国の将軍が、そこでは、敵の攻撃を
 防げないという、諫めを無視し、防御の難しい、平地に都を移してしまった。
 「バカじゃないの。」
 「今まさに、戦争真っ最中に、何寝ぼけたことを!」
 飛鳥では、百済の王子様として、ええ所のボンボンとして、甘やかされて、
 育てられたんだろうね。
 おいしい物が食べられないなんて、考えられなかったんだろうな。

  案の定 663年 2月 新羅が避城(へさし)の近くまで、攻めてきたため、
 また、都を州柔(つぬ)に戻すことになった。

  豊璋が倭国から百済に帰って来たとき、喜んでこれを出迎え、
 国政をことごとく豊璋にゆだねたてまつった、
 百済の将軍 福信は。
 「しまった、こんなアホ ボンやったのか?」
 と、ずいぶん落胆したでしょうね。

 

州柔(つぬ) 周留城の周囲
 平地じゃないよね。

 

 多分 中心地の、寺遺跡
稲作には適さないよね。

 

 ② いよいよ大舞台が迫った、663年6月 豊璋のバカさ加減が炸裂。

  バカな豊璋は、百済軍の一番大事な将軍、福信が謀反を図っていると
 思い込み、(小心な私では、日本書紀の表現内容を、そのままキー入力
 出来ないような、)拷問をし、挙句に、むごい方法で処刑にしてしまった。
 多分、豊璋の指導性に疑問を持った、聡明な 福信が、何かきつい提案を
 したのかもしれないと、容易く想像出来ますよね。
 しかし、他人に指図された経験のない、豊璋が逆切れした。
  今でも、ボンボンの若社長に、本当に会社の事を心配している
 古参社員が、 「それは、しかしー。」と言ったとたん、地方へ、
 転勤させられたという話に、繋がっていますよね。
 百済復興軍の鼎を自ら葬り去った痛手は、余りにも大きかった。
  早速、新羅は、663年8月 百済王が自らの良将を切ったことを知り、
 すかさず百済を攻め、州柔を落とそうと図った。

 

 ③ 新羅が、州柔に攻めて来ることを恐れた、豊璋は将軍達に。
 「大和の救援軍が、万余の勇士を率いて今にも海を越えてやって来る。
 将軍達は、あらかじめ計略を立てておくがよい。
 自分は自身で白村江まで行き、そこで救援軍を迎えることとする。」

  つまり早い話が、 「怖いから自分だけは敵前逃亡する。」てわけよね。

 

  西暦663年8月27日 白村江の戦い 勃発 ( 後述 )

 

 ④ 白村江の戦いの最中、みるみる官軍は敗れ、多くの者が水に落ちて
 溺死した。

 このときも、白村江の戦いが不利と見た、百済の王 豊璋は、数人と船に乗り、
 サッサと高句麗へ逃げ去った。
 オイオイ、自分だけ逃げたんかい!

  でも、なぜ、倭国の船で、大和に逃げなかったんだろう?
 これも、謎だよね。  

 

  663年9月7日 州柔城(周留城)がついに唐に降伏。

  これにより、百済復興の戦いは( 敵の新羅から見れば、百済の残党による、
 反乱は。 )終止符を打った。

 

 ◎ 日本書紀の下した結論: ①、②、③、④ から

  間抜けな、豊璋を選んだのが、失敗だった。

 

4-1) 「白村江の戦い」会戦の謎? 

 この戦いの結果は、倭国の水軍が、唐の水軍に大敗したと言う、
歴史的事実なのですが。
 日本書紀の記載を基に、戦況を組み立ててみます。

 663年8月 
 唐国 軍船 170艘 錦江の上流で唐が百済占領の中核都市
 公州から、河を下り、
 百済 反乱軍の、周留城に近い川岸付近、白村江に戦列を構えた。

 8月27日 
 日本の軍船の先着部隊が、周留城に近い白村江に到着。

 先に到着して、戦列を構えていた、大唐の軍船と遭遇し会戦となった。

 日本の軍船の先着部隊は敗退。
 大唐は追尾せず戦列を固めて、守った。

 8月28日
 日本の将軍と、あの アホ ボンの百済王 豊璋が軍事協議
 「我が方が先を争って攻めかかれば、相手はおのずと退却するであろう。」

 と気象も見ずに協議し、戦隊をよく整えぬまま進めて、陣を固めていた大唐の軍
 攻めかかった。
 すると大唐は左右から船を出してこれを挟撃し、包囲攻撃した。
 みるみる大和軍は敗れ、多くの者が水に落ちて溺死し、船のヘサキを巡らす
 ことも出来なかった。

 唐の歴史書の記載
 「熊津江(公州)より白村江に向かったが、白村江の入口に至った時、
 日本軍に出合い、4戦して日本軍の船400艘を焼き討ちしたので、
 煙は天を蔽い、
 海水は一面に赤くなって日本軍は壊滅した。」

 27日の会戦は、恐らく、出会い頭の戦いで、用意も作戦もないまま、
 先遣部隊だけで、始めてしまい、待ちかまえていた、唐軍に敗退した。

 初戦に勝利した唐軍は、日本軍を深追いせず、隊形を整えたのでしょう。
 勝ちに流されて、深追いをしなかったんだ。

 この事から唐軍はやはり、戦い慣れをしており、統制も取れていたと
 考えられますよね。

  ここで気になる情報があります。
 数年前の、NHKの歴史番組で、白村江の戦いが取り上げられており、
 日本が負けたのは、唐の水軍には巨大軍船があり、日本船と比べれば、
 まるで、山を見上げるごとき巨大船で、歯が立たない大きさ
 堅牢さをアニメで、描かれており、銃も、大砲もない時代
 敵の船に横付け又は正面からぶつかり、敵の船に乗り付けて攻撃する、
 戦術の日本水軍に、巨大船の上から、投擲器から火のついた玉を飛ばし、
 日本水軍の船を、焼き払う戦術で戦い、唐船が大きすぎて、乗り移れない
 ままで、初めから勝てるはずがない戦いであったとされ、日本船が、
 みじめに蹴散らされていました。

  このNHKの歴史番組のリアリティータップリのアニメは面白かったのですが、
 本当に、当時そんな大きくて堅牢な船が作れたの?
 唐は、陸戦の軍隊で、巨大船を作る技術は、それほど養われて居なかったと
 思うのです。
 何故そお思うかと言えば、それから、600年後の蒙古襲来の時、
  1274年 文永の役 1281年 弘安の役。
 この戦いの記録は、白村江の乱に比べ、桁違いに多く残されており
 信憑性も、有ると思われる伝承です。その内容から。
 船造りとしては、蒙古が征伐した 世界一の造船時術を持った、
 旧唐国の江南地区で造らせた軍船で、攻めてきたとき、そんな、
 山を見上げるごとき船であった、と言う伝承は聞いていないのですが。
 確かにこの時、日本にはその当時無かった、投擲器で、船から
 火のついた玉を飛ばして攻撃され、博多の町を焼き討ちされたと
 記録されています。
 この戦いで、投擲器を伝える伝承は、その驚きから、初めて目にする
 恐怖が伝えられており、白村江での投擲器による火の玉の経験が
 伝えられていない事が、ハッキリと想像できます。
 日本の武士も、地元の海岸の地形を熟知していて、果敢に夜陰に紛れ
 小舟で、蒙古の軍船に乗り込み、多くの軍船を焼き討ちに掛けたため、
 海岸の地形を熟知していない蒙古の軍船は、博多の岸に近づいて
 停泊できず。そうこうしている内に、日本の神風、台風に襲われ
 全滅させられたと、記録されています。
 その、600年も前 西暦663年にNHK創作の巨大戦艦が造られており
 白村江の戦いに参戦できたと言うのは、少し無理が有ると思える
 のですが
  NHKは、古代史の放送番組を、とても常識では理解できない、解釈で、
 造られることがあると、よく耳にします。
 皆さんは、どの様に、ご想像されますか?

  白村江の戦いの経過を、「日本書紀」「唐書」 に記載された内容で
 想定していきたいと思います。

 次ページ 「白村江の戦い」 の なんで? <本編 -その2>へ

 


 

◎「白村江の戦い」 の なんで? <本編 -その2>へ
  飛ぶ。

◎ 「白村江の戦い」 のなんで? (前振り)へ

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 ◎ 百済 白村江を求めて 韓国へ ーその1ー

           へ飛ぶ

 ◎ 百済旅行プラン ー旅行予定ーその2ー 

 

 


 

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  すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。

 

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