難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

額田姫王探索 飛鳥をウロウロ

2018年02月18日 | 日記
平成30年正月
額田姫王を求めて、飛鳥をウロウロ

   <作成中、1月8日〜2月18日>

平成30年1月 5日(ミゾレ、寒いさむい 飛鳥)

 まず、去年の夏に、勉強不足で、探索できなかった、
中大兄皇子と、中臣鎌足らが、蘇我入鹿、暗殺の、
謀議を企んだ、相談の場所を調べに、
談山神社(たんざんじんじゃ)へ。

 談山神社の、名前の由来は、大化の改新 乙巳の変の
謀議をメグラした山に在る神社だから、明治の神仏分離令に
より、お寺さんから、神社に変更した際に名前を、
談山神社に決められたそうです。
でも、矢張り又、何かが私を、遠ざけようとします。
 そう、天気予報を聞いて心配していた通り、
談山神社の駐車場に到着した時は、雪が降り注いでいて、
路面にも、薄っすらと積もり始めていました。

 相談をした場所は、談山神社から、徒歩で20分以上
しかも、坂道が急との情報。
「今日は中止にして、明日にするか。」


 次の予定場所の、今回のメイン、額田姫王が
晩年を過ごした、粟原寺(おうはらでら)跡へ。
ナビに導かれて、談山神社から、約15分、
山際の、村落に到着しました。
まだ雪は降り止まず、細くて急カーブの道が、
右左二手に分かれている交差点で、ナビが、
目的地付近に到着しました。案内を終わります。」
突然終了し、矢印で、粟原寺跡の方向を指し示すのみ。
つまり後は、自己責任で。ということらしいです。
 道には、ハイカーのための、粟原寺跡の案内矢印が在り、
村の住民のための、雪が薄っすらと降り積もった、
上り坂の離合できそうにない、細い村道。
上から、村民の車が降りてきた時の、言い訳は?
「今日は中止にして、明日にするか。」


 今日の3番目の目的地へ。
 桜井市 長谷寺(はせでら)へ向かいました。

 大和の国 長谷寺
 西国三十三所 観音霊場第八番
 真言宗豊山派総本山


民間の駐車場に車(ホンダLIFE)を止め、正門からお参り。
三ツ折で続く階段を登ってゆきました。


「土佐日記」の紀貫之が読んだ、古今集の梅の花がありました。

「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」

 階段の両脇に、わら笠をさしてもらった大きな花が。


小雪に揺れて、咲いていました。

参拝を終え、受付で花の名前を聞いてみました。
「大きな美しい花を見せて貰ったんですが。
お花の名前は何なのでしょう?」

「牡丹です。冬牡丹と言っています。」
「この寒い冬に 牡丹ですか?」
「ええ、温室で育てて、花が咲いた牡丹を持ってきて、
参道の階段に生けています。」

「とてもお手を、おかけなんですね。」




 段差は低いのですが、かなりの段数を登った所に、ご本堂が
ございました。
 ご本堂には、十一面観世音菩薩がおられ、とても大きく
お参るする人々を、とても優しく見守って貰っていました。

  (案内パンフから)

隣で手を合わせれおられた方に、
「とてもお優しくて、心が癒やされるようですね。」と、
ため息と一緒にお話しをしましたら、
「そうでしょ、このお顔に見惚れてしまいまして、
檀家になってしまいました。」
「檀家になったおかげで、御本尊様にもっと近づいて、
お祈りすることもできるんですよ。」

とても満足げに、お話しされておられました。

 奈良や飛鳥が好きで、定年後、奈良に移り住む人が多いと
聞きます。私の義理の兄も、定年後、奈良に移り住み、
飛鳥探索に明け暮れ、とうとう、自分だけ先に、奈良で
人生を全うしたと、無理矢理に奈良に連れてこられた、
義理の姉が、葬儀の時にボヤイテいました。
そういえば、飛鳥の近くに新興住宅街が沢山有るなと
思ったのですが、やはり古代史ファンの需要が在るようです。
私にも、少し願望が在るようですが。でも私の 鬼嫁 では??
 閑話休題!!

 残念ながら、ご本堂内は撮影禁止の立て札が、たくさんあり、
撮影は、遠慮させていただきました。
 境内全体に、落ち着いた長い歴史を感じさせていただける
とても好きなったお寺です。

 遅い昼食を、参道街の土産物やさんで、名物のうどん
定食を頂き、暖かく美味しいうどんに大満足しました。

長谷寺 奈良県桜井市初瀬731−1
    TEL;0744−47−7001
    駐車場代;500円(平成30年1月5日現在)


寒さに負けて、今日は早めに、ホテルに直行
泊まりは、いつもの{サンホテル大和郡山}に
チェックイン。
 このホテルは、丁度奈良観光には地理的に、中央部に在り、
交通の便がいいのと、車の騒音も気にならない程度で
熟睡できるのが、毎回使う理由です。
欠点は、モーニングサービスの内容が少し、寂しいのが!
まっダイエットを、強く 鬼嫁 から言われている身には
向いているのかも。
 それに、そのおかげでしょうか、海外からのツアー客が
少なく、予約が取りやすいと思えます。

 ホテルで少し仮眠して、夕食を取りに、ホテルから
少しのところ(徒歩約3分)にある、何時もの
居酒屋{おねえ}へ。
母娘の親子でやっておられる、とても気楽なお店です。
年に一二度の客なのですが、顔を覚えていただいており、
気さくに応対していただいております。
今日は新年ということで、金箔入りの日本酒を
お屠蘇代わりに、一杯振る舞っていただけました。
常連さんが次々に、来店され、和やかに楽しく、夕食を
過ごすことが出来ました。
 ちなみに、この日は、ビールと日本酒大2杯、おつまみに
串カツ6本盛り合わせと、別にあと2点をいただき、
三千円ちょっとでした。(御参考までに)
 話が逸れてしまうのですが、おつまみに注文した
「とん平焼き」なのですが、最近良く、居酒屋の
メニューに載っているのですが、この店の工夫で美味しく
作られており、この名前で無ければ、わだかまりは
無いのですが、私のような、大阪でサラリーマンを
経験したものからしたら、
「これは、とん平焼きとはちゃうやろー。」
と言うと思います。
私が「とん平焼き」と、舌と脳裏にに焼き付けているのは、
大阪梅田 曽根崎商店街のお初天神へゆく途中の、
曽根崎小学校の前(都市部若年層減少のため、現在廃校に
なっています。)にあった、とん平焼き専門店の
将に「とん平焼き」です。
 私が就職し、先輩に連れて行ってもらえた、飲み屋街。
ハシゴで、二軒目に行く途中で。
「あっこの店が、大阪北の名物や。」と言って、
連れて入らせていただいたのが、この店でした。
 とん平は、暑さが5mm以上ある豚のステーキを、
軽く焼き、お好みの下地のメリケン粉汁を引いて、
その上にステーキを乗せ、その隣に、卵を割って、
黄身を潰して伸ばし、その上に、隣のメリケン粉汁が付いた
ステーキを手前に乗せ、卵でくるみ、ソースとマヨネーズを
塗り、4つほどに切り離して、客の手前の鉄板に移してもらえる、
とても暖かくて、美味しい料理でした。
以前、コンビニの弁当コーナーで、「とん平焼き」を見つけ、
懐かしくて買って食べたのですが、「なにこれ、薄い豚肉を
2枚ほど重ね、卵で巻き上げて、ソースとマヨネーズを
大量に掛けただけやんか!」

そういえば、10年ほど前、現役時代 九州に出張した時、
いつもの居酒屋で、とん平焼きのメニュウが加えられていたのを
見つけ、注文したのを思い出しました。その時も、
「えっこれ何?」と思い、九州ではこれが「とん平焼き」
何だと思ったことを思い出しました。
コンビニも、「おねえ」も同じ料理法でした。
一度、曽根崎商店街に行って、「とん平焼き」を
確認してこようと思っています。乞うご期待!

 1月 6日(曇り、時々ミゾレ 寒い)
 今日は、去年も泊まっている、大和郡山市筒井の近くに、
神社の中に、とても素敵な、お仏像が在るのを教えていただき、
カメラに納めさせてもらえたのですが、「神社の中に、仏像??」
の不怪さに、ホテルの近くを、地図で探索しましたら、
小じんまりとされているのですが、幾つもの、神社仏閣が在り、
とても興味を惹かれ、朝から、車で探索を始めました。
 去年の神社は、その前に車を止める余地が在りましたので、
ジャマにならないように駐車し、お参りし、取り逃していた
境内の写真を取らせていただきました。
去年の紀行ブログに、追加しますので、ご覧いただければ
幸いです。


 去年の紀行ブログに追加しようとしたんですが、不正な文法があると
表示され、追記さしてくれません??
 緊急処置として、此の紀行に掲載します。


神社鳥居

神社横 寺院用入口の場所として分けられているようです。

 道路側から、お地蔵さんの祠、その先が仏像のある祠、
 その後ろが、お坊さんの像がある祠です。

 (スマホで格子を覗いて接写)

 (スマホで格子を覗いて接写)

祠の前上部に、由緒が書かれた? 木版がありました。
 消えて読めませんでした。



 この後、地図検索で探していた、お寺神社を求めて、LIFEで探索開始。
この地区は、時間の長い流れが感じられる、いにしえよりの奈良
そのもので、古い民家、農家、細い曲がりくねった道、昔からの
集落、村落、部族の集団を感じさせられました。
私の軽四ホンダLIFEでは、角を曲がるのが困難な、道が続いていました。
地元の人は、この細い道を、毎日普通に利用されているんだ!と
感心してしまいました。農家の駐車場には、外車も沢山見受けました。
 でも何箇所か、曲がり角の塀に、擦り傷が在るのを見つけてしまい、
妙に納得してしまいました。
(すみません、不遜な言動、忘れて下さい。 m(_ _)m )

 ナビを頼りに、とろとろと寺院を探していったのですが、
車が通れそうもない道が多く、本当に多く、地元の車との
すれ違いも気を使い、目的の場所を見つけても、止める余地は皆無。
 小一時間、ウロウロしましたが、無理と諦めました。

 次の予定地、大和郡山市額田部地区へ。

額田部北は、泊まっているサンホテル大和郡山から、直線距離で、
1kmぐらい、インターネットで検索し、気になった所を探して
ホンダLIFEで、朝一番で、散策していた、筒井地区とは2km程
なぜ額田部地区を散策したくなったといいますと、まず
私の憧れ、額田姫王(ぬかたのおおきみ)の生誕の地又は、幼少期を過ごした
場所という情報をネットで見つけ、これは行ってみなくてはと、
現在でも、あこがれの女性シンガーの生誕地を、見学に行くファンが多いと
聞いています。同じ思いでしょうか?
 ちなみに、聖徳太子の時の女帝、推古天皇の本名は、額田部皇女
(ぬかたべのひめみこ)
とされています。
 単純にこのことから私は、この額田部地区が、天皇系列に大きく
関わりがあるように思えてしまうのですが、素人の妄想でしょうね。

 この地区には、東西に貫く高速道路が在り、サンホテルから
高速道路を横切る手前までは、私の営業現役時代にお世話になった、
パナソニックや、パロマ、ハウス食品等の、大手の工場が沢山出来ており、
建設の時には、遺跡との関連が随分大変だったろうと、想像しました。
私の現役時代、この地区にはよく来たのですが、額田姫王の関連性など
露ほども知らず、古い町並みが在るんだなあと思うくらいでした。
 今回は、少しこの、額田部地区を、前もってNETで調べ、龍安寺、
推古神社、額田部窯跡等を、散策します。
 サンホテルの前の三叉路から南下、工場街から、高速道の下を横切り、
額田部北町に入りました。

 寒い正月明けの奈良、観光客は皆無。この分なら、車は少ないと
甘く見ていました。朝一の探索場所、筒井地区とは、全く違っていました。
 通行の車がとても多いのです。しかも、筒井と同じように道が狭く。
道を探して、車でゆっくり散策をする余裕はありません。
クラクションで、追い立てられるということはありませんでしたが、
「観光客だな!」と言う雰囲気で、持て余されているようでした。
ナビを見る余裕もなく、今私は何処にいるのという状況になって
しまいました。

 20分ほど、車で迷走している時、突然小道から、小さな女の子が
飛び出してきました。
 もちろん、とろとろと走っていましたので、車はすぐ止まれましたので、
事故にはならなかったんですが、その幼稚園児ぐらいの女の子の顔が!!

 皆さんはもう、私の妄想を推測されたのでしょうね?

「ごめんなさい。」

と、照れ笑いを浮かべて、頭を軽く下げてくれました。
その笑顔こそが、私が思い描いている、幼女 額田姫王の笑顔そのもの
でした。
 幼女 額田王姫は、あっという間に、走り去っていきました。

 額田部の町並みは、とても年期、いえ、歴史を感じさせてもらえる
旧家が並び、古の奈良の町並みを感じさせていただきました。
その中にも、新しい住宅がチラホラと見受けました。
近隣の大手工場に通っておられる方も多いのですから、
その方にとっては、もちろん新様式の家の方が、住みやすいでしょうからね。
 ここは、車での散策は無理と気づき、今度暖かくなってからもう一度
徒歩での散策を計画してみようと、思いました。
そのときに、幼女 額田姫王に出会えるかもしれない?!!
 あっ、私は、決して変態じゃないですから、心配しないで下さい。

 次に、高取城と、壺阪寺へ向かいました。

 高取城と、壺阪寺は同じ道筋に在り、道の行き止まりが、
高取城跡になっていました。
 まず壺阪寺を拝観させて頂きました。
壺阪寺といえば、壷坂霊験記ぐらいしか頭のなかになく、
 眼の病に霊験がある、観音様がおられるお寺と記憶していました。


ネットで検索していましたら、壺阪寺のある位置が、
黄金ラインと言われている、平城京、耳成山、藤原宮、飛鳥の古墳群を
南北に連ねるライン上の、一番南に在るお寺で、意識的に
その位置に建てられたと、言われていました。
その直線上の遺跡が、壺阪寺には見える場所があると書かれていました。
 これは行かない訳にはいかないとやって来ました。

 ご本堂の、回廊に張り出しが在り、清水寺の舞台のようになっている、
 回廊から、黄金ラインが(言葉が違ったかな?)望めました。


 この日は天気が悪く、遠くまでは望めがせんでしたが、
 画像を拡大してもらいましたら、北方がよく望めます。







 お寺を参拝させてもらい、福祉事業にも傾注されており、
インドなど海外との慈善事業に尽くされ、お礼の意味で、インドから、
立派な仏像が招来されていました。
 宗教団体として、実に有意義なお寺と、敬服させて貰いました。

 壷坂霊験記って、もう一つストーリが思い出せないので、
ネットで探してみました。

 盲目の沢市は、妻のお里が明け方になると出掛けていくのに気付き、
男ができたのではと疑い妻を問い詰める。
お里はこの三年間、沢市の目が治るようにと壷阪寺の観音様に願掛けに
行っていたと打ち明ける。
邪推を恥じた沢市は、お里とともに観音詣りを始めるが、目の見えない
自分がいては将来お里の足手まといになると考え、満願の日にお里に隠れて
滝壺に身を投げる。
夫の死を知り悲しんだお里も、夫のあとを追って身を投げてしまう。
二人の夫婦愛を聞き届けた観音の霊験により奇跡が起こり、二人は助かり、
沢市の目も再び見えるようになる。 (ウキペディアより)

 備考で興味が湧く記載もありました。

 沢市が盲目になったのは実は白内障であり、滝に飛び込んだ衝撃で
 治ったのであろう、とする説がある。

 2世豊沢団平・加古千賀夫妻による「壺坂霊験記」制作秘話をモデルに、
 溝口健二監督映画『浪花女』が製作された。

 壺阪寺の本堂横手には、お里と沢市が身を投げたとされる谷がある。
  (いずれも、ウキペディアより)

 「浪花女」の俳優は、坂東好太郎、田中絹代で、義太夫の
「壷坂霊験記」が創作された経緯を、とてもドラマティックに描かれていた。
 その中で、「♬ 妻は夫をいたわりつ、♬ 夫は妻を慕いつつ」の、今はこんな、
夫婦おれへんよな!と思う、名セリフが出てきます。俺の 恐妻 でわな。

奈良県高市郡高取町壺阪3番地
TEL 0744-52-2016
駐車代;500円

来た参道の山道を、そのまま上に登って行ったところが、
 高取城跡です。

 壺阪寺の駐車場を出て、来た道のその先の上り道を、登っていきました。
昨日に続き、この日も、みぞれもよう。
だんだん道が狭くなり、道が行き止まりになってしまいました。
 行き止まりに、高取城の案内板が在り、外は、ミゾレ降り積もり。

 険しそうな、階段の先が、高取城? 多分?!

 そこが、高取城の入り口でした。
駐車場はなく、辛うじて、3台ぐらい止めれるスペースがありました。
しかし、車の外は、極寒の山中、細い険しい、階段の見学路、私には!!
さすがディープな城マニアと思える人達が、何組か、登って行かれました。
 又4、5十代のオッチャンが、大きな犬を連れて、階段の上から
降りてこられました。
その元気さに只々感心しました。
 怖気づいた私は、そそくさと退散です。
又機会があれば、温かい日にでも来るか、…… 来るかもしれない。

 気を取り直し、
 飛鳥の栗原寺(くりはらでら)跡を散策に。

 途中に、キトラ古墳がありましたので、無料駐車場に止め、散策。
もう一つ、栗原寺跡の場所が解らなかったので、同じ地区の、
檜隈寺跡を、散策しました。

 遺跡の前に、鳥居がありました。


 お堂の礎石らしいです。

 遺跡の一つです。?

 重要文化財 十三重の石塔

 檜隈寺遺跡の側に、資料館が在り、展示資料に、付近の地図を見つけましたので、
栗原寺跡を調べました。
 その資料館から、東側の山の裾のあたりでした。
車で、そのあたりに行き、探したのですが、それらしい手がかりを、見つける
ことは出来ませんでした。
この寺の僧が、道昭で、日本で初めて、死後に火葬(荼毘)にふされたとされています。
 私がこれに興味を覚えたのは、この2年後に、天武天皇の后、持統天皇が、
同じく、火葬に付され、その焼けた遺骨を、天武天皇の眠る稜の中に、並べて
埋葬されていたと言う事実です。
これは、後世の、盗掘者により、判明したことなのですよね。
つまり、盗掘がなければ、バレなかった。
 先になくなった、天武天皇は夫婦二人分の広さが在る、陵墓に埋葬され、
妻の、持統天皇がやってくるのを待っている所へ、焼け滓だけが、銀の骨入れに
入ってやって来た。
「おいおい、どういうコッチャ?」
「だって、あんたと一緒の墓に入るの嫌やもん!!」
「いつまでも、私を放ったらかしにして、額田姫王バッカリ。」
「僧の、道照が、いいことを教えてくれたわ。」「ヘンッ!」

 古代に夢を走らせるのは、楽しいですね。
何時の世も、女房は怖いですね。

 今日も天気が私の飛鳥探索を阻みます。
粟原寺跡の散策は、明日に延ばし、サンホテルに帰りました。

 この日の夜も、{おねえ}に行きました。
ちなみに、この日の勘定は、3千円で、お釣りがありました。


 1月 7日(晴れ (^O^))

 今日は昨日までとは違って、晴れ、昨日までの寒さはなし。

 延ばされ続けた、粟原寺(おうはらでら)へ
晩年の額田姫王を求めて。

 初日と同じコースで、車を進め、近くに車を止められる所があれば、
そこに止めさせてもらい、少し遠くても、歩いて行こうと
決意していました。
 探しても途中には、止めれそうな場所は見つかりませんでした。
ナビの誘導を諦め、地図画面を頼りのに、古い村落の狭い上り道を、
何箇所か取り付けられていた、誘導矢印を頼りに、愛車LIFEで、
かき分け、かき分け進んで行きました。
農具などを納めておられる倉の角を曲がった所を、登っていきましたら、
道が途切れ、そこに(→ 粟原寺)の表示板がありました。
 やったー!! やっとたどり着けたぞ!


 予測どおり、駐車場などは整備されていなかったのですが、
LIFEで迷惑をかけない程度に、止めれるほどのスペースがありましたので
止めさせていただき、早速、寺跡を散策させて頂きました。



 壊れかけた、粟原寺の案内板がありました。



 粟原寺の記念石碑の裏側に、昭和4年12月と記されていました。


 車を止めた場所の反対側、此方が正門側だったかもしれません?

 お寺建屋の跡。この何処かで、額田姫王は、晩年をすごしていたんだ!



 予想通り、観光客は一切見えず、粟原寺にたどり着くまで、地元の人とも
お会いすることはありませんでした。
 額田姫王の晩年については、いろいろな説があるようですが、
この場所を訪れて、想像以上に、寂しい場所と感じてしまいました。
この粟原寺が、終の棲家だとすれば、歴史孝策上、80歳までの長寿になり。
私は少し苦しいのですが。あっ!すいません。

 高安城跡 散策
 石切神社拝観

 


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◎ 難波の宮 古代史 年表 2017年作成 (追記校閲中)


◎「白村江の戦い」 の なんで? <本編 -その1->


◎ 「白村江の戦い」 のなんで? (前振り)へ


◎ 百済 白村江を求めて 韓国へ ーその1ー


◎ 百済旅行プラン ー旅行予定ーその2ー 




◎ 古代史 のんびり散歩    


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◎ 「難波宮ッテ?」 古代史感のすれ違い    メイン ブログです。




 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。



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