「難波宮って?」 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

「白村江の戦い」 の なんで? -本編 その2-

2017年02月02日 | 歴史

1. 663年8月27日


  新羅の陸戦軍が、アホボン豊璋が逃げ出しして手薄な
 復興百済の拠点、周留城を包囲した。
 公州から、錦江の河を下って唐の軍船 170艘が、周留城に近い川岸
 白村江に船列を構えた。
 (私は、そんなに大きな軍船が、錦江の河口から60km以上も河上の公州へ
  本当に行き来できたのかと、疑いを持っていましたが、
  百済に旅行し、此の目で、錦江の流れを目にし、その河幅の大きさ、
  流れの緩やかさを目にし、謎が消滅させられました。
  ぜひ皆様も、百済 周留城、郡山に行って体験してください。
  「百聞は一見にしかず。」ですよ。)

  大和の軍船の先着隊が、錦江の河口、郡山から入り込み、
 白村江に到着し、白村江の周留城側に戦列を構えていた唐船
 会戦となった。
 日本は敗れて退いた。
 唐軍は深追いせず、戦列を固めて守った。(日本書記)


◎ ここまでで、想像できうる、状況と、謎??


  周留城に残り城を守っていた百済軍は、新羅に包囲され、
 逃げた(転戦した)百済王 豊璋の部隊や、日本軍とは、連絡が取れず
 戦況の情報やりとりが出来なくなっていた。
 唐の軍船が先に白村江に到着して、日本軍船の到着に備えて待ち構えている
 という、大事な情報が日本水軍に伝わっていなかった。


 一方、唐軍は、この日に会戦した日本水軍は先着部隊で、本隊は、後から
 到着すると想定し、深追いを避けた。
 誰かが、教えたのか?
 先着部隊が、余りにも少数であったため、容易に蹴散らせ、これは本隊でないと
 察知できたため、かもしれません。


 負けた、先着部隊は、唐の水軍と対戦して、その規模、実力を実践で体験
 身に染みて理解できているはずです。
 ところが、次の日の軍事会議で。


2. 663年8月28日


  日本の将軍達と、百済王 アホボン 豊璋とは、戦況をよく観察せずに、
 「我が方が先を争って攻めかかれば、相手はおのずと退却するであろう」
 と協議し、日本の中軍の兵卒を率い、船隊をよく整えぬまま進んで、
 陣を固めている大唐の軍船に攻めかかった。


  あれ? 唐の水軍に敗れた、先着部隊の情報はどうなったの?
 戦術も決めずに、戦える相手かどうかは、身に染みて解っているはず。
 この時の会議の様子が、リアルで残っていれば、物凄く面白いでしょうね!


  会議の様子を想像してみました。
 このブログを訪問頂いている皆様も、1300年前にタイムトリップ
 して見てください。


 会議出席者;
   大和の救援軍 将軍 いおはらの君臣
   日本水軍 中核部隊 将軍
        先着部隊 将軍
      (昨日、唐の水軍と戦いを交え、一番その強さ知っている。)
   百済王 アホボン 豊璋
       (日本軍の損害などどうでもいいから、早く新羅に勝って
        百済王としての権威を見せつけたい。)
   百済王 護衛派遣部隊将軍 朴市田来津(えちのたくつ)
       (百済王 豊璋のバカさ加減を、身に染みて知っている。)
   そしてもしかして?! 
   藤原の鎌谷、大海人皇子も同席。?


 会議の場所;
   どの史書にも記載無し。?
   想定される場所
   ①、27日に続いて、28日の会戦になっているので、
     白村江に遠い処ではない。
   ②、豊璋が参加しているので、岸又は沿岸の船上。
   ③、日本水軍、400艘~1000艘に会議の決定命令を伝える
     必要がある。
   ④、錦江(白村江)の河口 郡山
     そんな都合のいい場所が、すぐに無かったかもしれない。


 会議の時間;
   どの史書にも記載無し。
   ①、要件、27日の初戦敗北以後、28日の昼12時まで。
     照明器具の無い時代(当たり前か?)夜間の航行は困難では?
     月明かりだけでは、無理ではないでしょうか?
   ②、夜間に戦いを始めた場合、白村江は、潮の満ち引きが大きく
     引き潮の時は干潟が出来、ぬかるみに、足を取られ、
     上陸作戦に支障があると思われます。
     岸辺の航行や、上陸時、歩行が困難と想像します。
   ③、会議の決定を、400艘以上に申し伝えなければならない。
     どれくらいの時間が係るか、心配になりますね。
     (どの様に、伝言したんでしょうか?これも不思議ですね。)


 ここで、歴史の仮定「もしも、こうだったら?」を想定してみます。 


  会議の決定が、日本書紀の通りに
  我が方が先を争って攻めかかれば、相手はおのずと退却するであろう」
  では無く。


  先着部隊の戦況をよく聞き、唐の軍船の強靱さ170隻の多さが
 理解できておれば、
 日本の400艘以上の船には、4万人もの兵士が乗っているのだから、
 白村江の河口で、周留城側に、迂回して、上陸させ、上陸が終わるまで、
 唐船を遠くに引きつけておくため、一部の軍船を白村江に進入させて、
 軍船同士の戦いにブツケルと言う、
 素人の私にも思い描ける作戦を採ったはず。


   歴史の事実に、もしもの仮定を想定出来るならば、やはり私は、
  1941年 昭和16年に、思いを馳せてしまうのですが。
  真珠湾奇襲攻撃、日米開戦。
  世界情勢、取り分け米国との経済力、軍事力の違いを余りにも
  理解出来ていなかった、軍部の無知を嘆くばかりです。
   終戦後、団塊世代の私がまだ幼かった頃に、近所のオバチャンから
  聞かされた話が、
  召集令状(赤紙)が来て、明日召集される夜に、
  「内の人が、私に世界地図見せて、こんな大きな国と戦争するんだぞ、
  勝てるわけが無い、と言い残して出征したのよ。」
  「案の定、内の人は帰ってきてはくれなかった。」
  同じような話を、何人もの戦争未亡人から聞かされました。
  軍部のバカは知らなくても、国民の多くは知っていたんですよね。
   もう一つ、戦争に徴集され、戦後 命からがら帰って来れた、
  近所のオッチャンから聞いた話、明日徴集される夜に、
  結婚したばかりの、内のオバハンが。
  「戦いで、たとえ、手足を無くして、いも虫に成ってしまっても、
  必ず生きて帰ってきてね。」
  「面倒は、私が必ず看るから。」
  て言ったんだぜ。
  「その言葉をくれたから、俺は必死で戦火をかい潜って、
  帰って来れたんだ。」
  幼い私は、この話を聞き、思わず涙を流したのを覚えています。
  でも。  
  隣の部屋でこの話を聞いていた、そこのオバチャンが、
  「そんなこと言ったっけ? 覚えてないわあー。」
  女は怖い、女は強いですよね。
  だから、絶対に戦争は、してはいけないんのですよね!


  話がそれました。
 それでは何故間違った、ドアホな作戦を取ってしまったのでしょう。
 ① 初戦に敗退した、先着船団の情報が会議に揚がっていたのか?
  会議で、発言できる権威の無い地位の低い将軍が出席していたため、
  初戦に簡単に負けるような、戦い方もろくに知らない奴目と、
  信頼されていなかった。


 ② 初戦の会戦は、双方とも出会い頭の戦いで、唐船は、取って置きの
  火の玉を飛ばせる、投擲器の準備が間に合わず、使用できなかった。
  初戦で、船の数の足りない為、敗退した、日本水軍
  火の玉の攻撃を受けなかったので、その威力を目のあたりに出来なかった。


 ③ 28日 「船隊をよく整えぬまま進んで、陣を固めた大唐の軍
  攻めかかった。」
  大事な戦いに、戦列も整えず、闇雲に突き進む、光景が想像でき
  寒気が襲いますね。
  案の定。
  「すると大唐は左右から船を出してこれを挟撃し(挟み撃ち)、
  包囲攻撃した。」
  唐軍としては当たり前の戦術ですよね。
  当たり前の戦況が述べられています。
  「みるみる官軍は敗れ、多くの者が水に落ちて溺死し、船のへさきを
  めぐらすこともできなかった。」
  でも、大きさで劣るとはいえ、2倍以上の数の軍船で突き進んだのだから、
  そんなに簡単に負けるんだろうか? と思うんですが。
  ここで唐書の記載が
  「白村江の入口に至った時、日本軍に出合い、日本軍の船 400艘を
  焼き打ちしたので、煙は天を覆い、……」
   ここで、投擲器が出てきたんですよね。昨日間に合わなかったが、
  今日は準備万端で待ち受けていたわけでしょうね。
  昨日体験していないし、今までもまるで経験の無い、頭の上から火の玉が
  降り注ぐなんて、何が起こっているのか、皆目訳が分からず
  恐怖そのものだったでしょうね。
  「煙は天を覆い、海水は一面に赤くなって日本軍は壊滅した。」


   素人の想像ですが、火の玉を飛ばす投擲器は、日本軍側にその知識は
  皆無だったのでしょう。もちろん、対応策がある訳はなく、ヘサキを
  めぐらせて、逃げることも出来ず、周留城のある方の岸に向けて、
  闇雲に突き進む、味方の船。
  火の玉を飛ばしながら、左右から挟み撃ちにして攻めてくる唐船
  燃え上がる船、水に沈む兵、阿鼻叫喚。(>_<)


   日本書紀には、「白村江の日本船の全滅(8月28日)と、
  (9月7日) 周留城(州柔城)が 新羅に降伏してしまい、
  もおどうしようもないと、残った日本軍船
  百済の高官たちが、家族と伴に、日本へ向かった。」と書かれています。


   日本書紀には、投擲器も、それから打ち出された、火の玉も、
  記載がないのです。
  なぜ?
  投擲器の存在は、負け戦の言い訳に出来ると思うんですが。
  生き残って、日本に逃げ帰った者は、直接の戦闘には参加して
  いなかったので、投擲器の存在を知らなかった、
  のかもしれませんね。
  日本書紀に書き残されていれば、貴重な情報として、600年後の元寇の時
  元から、火の玉の攻撃をされても、違った対応が出来たかもしれませんね。


④ 白村江の地形


   私が此の目で見て確信した錦江の河口 郡山付近が
  ①~③の戦闘の状況の場所として、矛盾はないのだろうか?
   日本水軍は、百済復興軍の、拠点 周留城を救うため、
  九州博多から派遣された、400~800隻、2万人~4万人。
  私が調べた、その当時の和船は、1隻に漕ぎ手30人、戦闘剰員
  20人で、計50人が平均的とされていましたから
  計算は合いますね。
   近年韓国政府から、新羅が鎮圧した、最後の百済反乱軍
  拠点の周留城の場所が確定されて、そこが私が見てきた、
  韓山(ハンサン)の麓の遺跡で間違いなければ、
  その城から、直線距離3~6km、行程約6~8kmで、
  一番近い錦江の川岸、白村江を目指して、周留城の救援に
  日本水軍が突き進んだのだと想定できますね。



 (A) 周留城側 川岸から、錦江の河口 郡山方面を望む。
    彼方に、此方岸と郡山方面を繋ぐ 河口堰を兼ねた橋。
    河口堰の向こうは、外洋(黄海)



 (B) 河口堰を兼ねた橋から、周留城方面を望む。
    右岸、郡山方面から延びた岸の向こう



 (C) 周留城側 川岸から向こう岸を望む。
    右方面が河上で、扶余(公州)方面になります。


  錦江を見てきて、その河幅の大きさ、流れの緩やかさを
  実感して、日本水軍 400艘、唐軍170艘が戦うには、
  十分すぎる広さと想像出来ました。
  しかも、河口から、郡山を過ぎ、少し右にくびれ、その先が
  周留城側岸です。
   周留城援護の決意に燃えた、日本水軍は、写真(B)の光景を
  目にしながら、河上の周留城方面に突き進んだのでしょう。
   もしかしたら、郡山方面から延びた岸が目隠しになってしまい、
  周留城側の唐船だけを見て、向かい側に配置された唐軍船
  確認できなかったのかも知れません。
   延びた岸を通過して、右側から、陰に成って、見えなかった
  押し寄せる唐軍船
  左正面から挟み撃ちにする唐船。
  包み込まれてしまって、ヘサキを返すことも出来ずに、
  後続の、味方の船に押され、固まってしまった船団の
  その上空から、唐船の投擲器から繰り出される火の玉。
   写真 (A),(B),(C)の水もは、
  「煙は天を覆い、海水は一面に赤くなって日本軍壊滅した。


   周留城に立て籠もっていた、百済の反乱軍は、丘の向こうから、
  立ちなびく、火の手と煙を見て、それが日本からの、救援軍の
  最後と知り、どれほど落胆したでしょうか。
  白村江の戦いから、僅か数日後の、9月7日に、
  周留城の百済蜂起軍は、新羅軍に降伏してしまい、
  百済 白村江の戦いは終結してしまったのです。


   この戦いで、日本の損害は、アホボン豊璋を百済に
  派遣するとき、支援軍として付けた先遣部隊の兵、船と、
  白村江の戦いに参戦させた兵、船の合計は、
  船舶 1000隻、兵 4万2千人
  当時の日本の人口 約500万人~550万人
  現在との比較 約20分の1 として、約80万人
  今の自衛隊が 約28万人、つまり自衛隊が、2つ以上
  壊滅したことになりますよね。


   そうです、将に昭和20年8月15日 太平洋戦争終結
  米国に降伏した時と同じ状況に追い込まれたのです。


   私が、平成26年の定年後、興味を持って探索しだした、
  大化の改新から、壬申の乱までの歴史で、余りにも、知らないことが
  多いことに気付き、とりわけ、「白村江の戦い」が将に、
  闇の中と言うことに気付いたのですが、ここまで、調べて、
  「白村江の戦い」の後の状況が、太平洋戦争終結の時の
  状況に酷似しているのです。


  此処にいたって、私は、「えっ?!」という、命題に
 ブツカってしまいました。
  「白村江の戦い」のその後、そう終戦後(敗戦後)です。
 その後の状況が余りにも、太平洋戦争の終戦後(敗戦後)と酷似
 しているのです。


 「えっ? 何のこと?」
 と思われたでしょ。
 私も、この探索を始めるまでは、想像だにしていなかったことでした。

  昭和20年8月15日 太平洋戦争 敗北宣言
 日本中皆が涙した、「玉音放送」
 その後 1ヶ月も経ないで、
 占領軍進駐、マッカーサー元帥 厚木に着陸、日本占拠開始。
 日本はその後、昭和25年サンフランシスコ平和条約締結後までの
 6年間、進駐軍の統治下に置かれた。

 

 「白村江の戦い」の後、一年も経過しない、664年5月 
 唐から、郭務悰を代表に、使節団が来訪。
 事実上、日本占領状態になったようなんです。
 その状態は、天智天皇が崩御し、大海人皇子と、大友皇子との
 後継を争った壬申の乱の勃発直前に、郭務悰が日本を離れるまでの
 672年までの、8年間続いたと、解釈するのが矛盾がないのです。


  このブログを訪問いただいている、皆様もそうだと思うのですが、
 思っても見ないことでした。


 日本にとって大事な二つの戦いの後、敗戦後に類似性が在るなんて、
 でも、マッカーサー元帥のことも、郭務悰のことも、学校では
 詳しく教えてもらっていないですよね。


  「白村江の戦い」敗戦後は、項目を改めて、制作するつもりです。
 キーパーソンは郭務悰
 でもその史料の少なさ、他の歴史家の興味のなさに、困惑しています。
 どんな本を読んだらいいの? 何を調べたらいいの?
 何処に旅行したらいいの? 何を見てきたらいいの?

 がんばります、応援よろしく。 m(_ _)m



 (校閲中) 平成29年 1月25日 


 





◎ 難波の宮 古代史 年表 2017年作成 (追記校閲中)


 


◎「白村江の戦い」 の なんで? <本編 -その1->



◎ 「白村江の戦い」 のなんで? (前振り)へ


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 ◎ 百済 白村江を求めて 韓国へ ーその1ー


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 ◎ 百済旅行プラン ー旅行予定ーその2ー 


 


 




 


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  すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。


 

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