華厳の滝の名前の元になっている「華厳経」の中に、日常の中の清らかな宗教生活について、こんな時にはこう願いなせぇという具体が140項目あると、本で読んだ。
とても気になった。
で、今日は朝から、その140項目を全部調べた。
その中で、上り坂を見たら、下り坂にを見たら、斜めの道を見たら、まっすぐな道を見たら・・こう思うと、菩薩になれますぞという項目もある。
幾つか実行してみようと思う。
久しぶりに、いつもの三人だけの聲明ライブは、今晩20時スタート。
その前に、やることをやってしまおうと、6月の講演のレジメやら、「冷蔵庫通信」の印刷や発送作業やらを、ギャンギャンやる。
精神的なバランスは戻りつつあるようだが、その判定は「お酒を飲んでみないとわからない」というフザケタ類(たぐい)のものだ。
最近はお酒を飲む機会がすくないので、ありがたいと思うが、飲んだ時に「同じことを言わないか」「人のことを怒らせないか」は未だに心配である。ぐはははは。
バランスを欠いた思考の調整のため、娘と犬を連れて東京湾フェリーに。わはははは。
愉快である。
米寿で亡くなった檀家さん。義理の息子さんがこうつぶやいた。
「なんだか、仕事をこれ以上頑張らなくてもいいかな、と思うんですよ」
「娘の旦那として義父さんに、認められる張り合いがなくなっちゃいましたものね」と差し出がましく申し上げた。
で、あらためて思った。
「だれかのために、仕事をする。生きる」というのは、とてつもないパワーを引き出し、そしてまた持続させる力を持っているものだと。
仏教では、最初は「自分のため」の修行が、やがては利他行へと向わない駄目ヨと、昔から言われている。
「だれか」は多くの場合、恋人であったり、子供のためであったり、(おっと、女房も忘れてはいけねぇ)ごく近しい人のためだろう。それでいいと思う。
こうして考えると、「自分のため」だけに、働き、生きるのは、けっこうツライかもしれぬ。
人のためのほうが、自分の底力が発揮されるというのは、言い過ぎだろうか。
ほんと、コマッタことだ。
この一か月、お酒の席で、必ず言われるのが
「さっきも、そう言ってましたね」である。

言ってくれるので、「ぐへっ?」と思える。ありがたいことである。
なんでくりかえすのか、ネットで同じ質問に対する答えを読んでいたら、
「これだ!」というのがあった。
「そのことことにしか、関心がないから」というのだ。
まったくだ。
夕べ帰宅して「最近、お酒を飲むと、知らないあいだに人を怒らせる。そして同じことを繰り返して言う」と家内と娘に言ったら、「お父さんが自分で一番嫌がっているタイプになりつつある」「しばらく、本を書くのを控えた方がいい」というアドバイスだった。
「・・・だな」と思う。
ということで、今日は奇数月の最終日曜日。
16時から「法話の辻」でございます。
自分が住職をしているお寺で法話をやらずに、他の場所でやっている我が身を反省してスタートしたこの会。
丸二年を経過して、三年目に突入。
どなたでもwelcomeであります。
ただ話を聞くだけではありません。
フリートークの時間は17時から一時間。
ただフリートークをするだけではありません。
お酒が出ます。ソフトドリンクもあります。
オツマミもあります。お菓子もあります。
これから買ってきます。わはははは。
とても難しい、『華厳経 現代語意訳』という本を読んでんいる。大正初期に書かれた本だが、おっそろしく難解である。どこが現代語の意訳だと思う。句読点がとにかく少ない。入試の長文読解みたいだ。
ところが、なんでだろうか。横になって読んでも、眠くならない。
昭和33年生まれの私が、平成の時代に、明治生まれの人が書いた、大正時代の本を読むのに、とても苦労するのは、愉快である。
私が読んでいる平成に出た本は、とにかく、句読点が多くて、読みやすいと思う。しかし、なんだか、読者がバカになっていくのではないかという気もしてくる。
人間、大変なことが一段落して余裕ができると、「さて、やっちゃうかな」とやるべきことを淡々と処理できるものだと思う。
今朝檀家さんの訃報を受けて、枕経に伺うまえに、明日の法事の塔婆を書きあげた。
お昼ご飯をたべて、戒名を考えた。長いおつきあいの方だったから、ポンポンと個人を偲び、仏の弟子としての漢字が思い浮かぶ。素敵な戒名ができた。
それから、来月十五日の締め切りの、宗派の布教誌の秋号の原稿を書く。もともと、笑いながら読んでもらう種類のものだが、今書いているものと比べ物にならないくらい、面白く、楽に書けた。
ついでに、いま書いている本の「あとがき」もだいたい書けた。
なんだか、今日一日で、四日分くらいのやるべきことを積み上げられたような気がする。
「さっき、言ったじゃん」と言われる。
お酒を飲むと、私は同じことを言うらしい。
言ったことを忘れているのだ。
同じことがずっと頭の中に留まって、心の引き出しにしまわれないのか、
あるいは、いろいろな話にリンクるす引き出しに入っているか、どちらかだろうと思う。

「そりゃ、そうだ。二度のデータが消失して、同じようなことを二度も書いたのだから、ここ一週間くらいは、脳味噌が二度思いだすクセがついているのだ」と自分を納得させようとしている。ぐはははは。
データ消失のショックだったのだろう、いったいいつまで原稿を書き続けなければならないのだと、不安になっていた。
今日も一本(6ページ分)を家族の協力で書けた。で、気がつけば、峠を越えていた。

おりしも、寒さの峠、お彼岸の中日である。
とても、気分が楽になったところで、若いなかまのヒーちゃんとケーコが小さな子供二人をつれて、泊まりにきてくれることになっている。
ハジメ君とゆーちゃんも、まだ四か月のエナちゃんを連れてきてくれる。
そうとうにぎやかになる、中日の夕飯である。
明日は、「読経の庭」14時ー15時。