汝論成立(にょろんじょうりゅう)の敗北宣言

「如論成立(にょろんじょうりゅう)」は「あなたの議論は確立してます」と議論の相手に告げる言葉。つまり、論争の中での敗北宣言として使われる。「恐れ入りました」ということである。
「理屈じゃかなわねぇが、腕と度胸なら負けねぇぜ」という、浪花節の任侠のセリフが思いだされる。
こんなことが思いだされるようでは、私はとことん、負けず嫌いなのだなと思う。ぎゃははは。

さて、『空海、黄金の言葉』を書いてくださった宮下真(まこと)さんが、小学生向きの本を書いてくださった。『ブッダがせんせい』である。
今回も「最初に原稿を読ませてもらう幸いな読者」でしかないのだが、監修として奥付に加えていただいた。ありがたいことである。
全国の小学校の図書室に入るといいと思う。
フルカラーで、この紙質で千円は安いと思う。
宮下さんは、他にもたくさんの仏教関係の本を出されているし、私の『心がすっきり軽くなる般若心経』(永岡書店)を世に送り出してくれたフリーの編集者でもある。
こうして、坊さん以外の方が仏教を説いてくださる方がいるのは、嬉しい限りである。
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入浴偈(にゅうよくげ)

「入浴偈(にゅうよくげ)」という短い文章がある。お坊さんがお風呂に入る時に唱えるものである。
「入浴する時には、衆生よ。まさに心身が綺麗になり、内外から光が輝きだすことを願うべし」という内容だ。 「沐浴身体 当願衆生 身心無垢 内外光潔」
残念ながら、今日はお風呂は断念。花粉症の鼻水でこまっている人は、こういう状態なのだとわかった。
どこから水分の補給を受けるか知らぬが、オレンジみたいなものが、両眼の奥に埋め込まれ、鼻水をだし続けるといった感じである。お腹の調子もすこぶる悪い。熱がないのがせめてもの救いである。
鬼の攪乱である。ぐははは。
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「にゃ」で書かにゃならぬ。

「にゃ」という言葉で、今日のブログはスタートしなければならない。
で、『大辞林』をひいた。 あった! ずばり「にゃ」である。
[連語。格助詞の「に」に、係助詞の「は」のついた「には」がくだけた表現だそうだ。
「あいつにゃ、困った」「今日のブログにゃ、すっかり参った」
他に「早く行かにゃ、遅れるぜ」、「このまま雨が降らにゃ、大変だ」「ぐずぐずしないで、もっと早く歩かにゃ」が例文として載っている。わはははは。
「にゃ」は深いニャー。ぎゃははは。

今日は、二年間のご詠歌の研修を終えて、22日に卒業検定を受ける研修生の、最後の特訓の一日。足りないところを見抜き、アドバイスをするのは難しかったが、楽しかった。ご詠歌の仲間が育っていくからである。
帰りに一杯やるのかと思ったら、皆「お家に帰る」というので、私も帰ってきた。鼻水がとまらないから、ちょうどいきいのだが。
早く帰宅したおかげで、リライト分の二度目の読み直しができた。どうして、最初からこういう文章が書けないのだろうと、10冊目なのに、毎回思う。
しかし、何度も読み直しをしてだんだんいい文章になっていくのだから、生産的である。
これから編集者に方に送ろうと思う。
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長者窮子喩(ちょうじゃぐうじのたとえ)

「長者窮子喩(ちょうじゃぐうじのたとえ)」は、法華経の中に出てくるたとえ話。
幼いころに家でした息子が貧乏になって、わが家とも知らず長者の家の近くをウロウロしていた。長者はわが子と知って家人に追わせるが、最初は逃げ去ろうとしたのを、雇い人として迎え入れる。次第に重く用いて最後に実子であることを明かし、家財を譲る−−そういう話である。
 窮子(ぐうじ)は、困窮している子供の意味だが、ここでは「自分の悟りばかりを考えて、他の救済活動に向かわない小乗仏教の修行者」を表している。家財は大乗仏教を表すという。
 人生に寄り道、回り道はないだろうが、元へ戻ったら「なーんだ、もともと脇道になんぞそれなくてもよかったのか」なんて、思うのもまた人生である。わははは。

 一昨日、「小学館からコメントが欲しいって電話があったらしいよ」と娘がいう。副住職が残したメモを見ると「週間ポスト、コメント」と書いてあった。
「なんだ、小学館じゃなく、週間ポストじゃないか」と思ったら、週間ポストは小学館が発行している大衆雑誌だと、昨日教えてもらった。知らなかった・・・。
 ネットで若者の間で話題になっている「般若心経 新訳」(ハンドルネーム:黄色先輩作)についての感想を聞かせてくださいとのことだった。布教師の立場からお話しして、「面白いし、OKです」と返事をした。
 それにしても、こんな私に、よくぞコメントを求めてくれたものだと思う。他にいくらでもいるだろうに。
いつ発売の週間ポストなのかは・・・聞き損なった。わはははは。
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中力(ちゅうりき)

「中力」(ちゅうりき)−−「いささか能力のあること」と、仏教語辞典(東京書籍・縮刷版)にある。
あるほど、大力と小力があるのかだから、中力があってしかるべきだと思う。
 それにしても、この解説を書いた方は、素敵だと思う。この「いささか」の使い方は、私の好みである。
 今週は四日間、講習にる。特にこの三日は、毎日飲み会付になりそうだった。三日連続は辛いし、最近は飲みすぎると体力が弱って風邪をひきそうになるので、月曜日はお酒はやめようと、あえて車ででかけた。
 出掛けに、娘が「でも、毎回相手が違うんでしょ」と言った言葉が脳裏から離れず、いったん、帰宅してから、また電車ででかけた。娘の言ったことは、まったく正しいと思う。
 そんなこんなだから、昨日は一次会で失礼して、二十二時に帰宅できた。
 今日はどうなるだろう。うはははは。
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著見處不聞處(ちゃくけんしょふもんじょ)

( いよいよ「ちゃ」「ちゃ」「ちょ」である)
「著見處不聞處」は、本来「著見処(ちゃくけんしょ)」と「不聞処ふもんじょ)」の二つの言葉がつながった言葉。
著見處は「見ることはできる場所」。不聞處は「聞こえない場所」である。

したがって「目には見えるが、声は聞こえない場所」という意味である。ぎゃはははは。
仏教語には、どうしてこんな面白い言葉があるのだろうと思う。
今では音響機器が発達しているので、どうにかなるが、昔は大変だったろうと思う。
私の好きな浪曲師の広沢虎造は、声が小さかったそうだ。マイクロホンのおかげで有名になったと、どこかの本で読んだ記憶がある。
だれかと話していて、「何ですか」「もう一度言ってください」と言われたりする方は、音声空間の認識がまちがっている。
相手が前のめりになっているのも要注意。寄席では、客が思わず身を乗り出して聞くくらいの上手な芸人のことを「背はなれさせるのがうまい」というそうだ。しかし、一般の私たちの場合、相手が身を乗り出すのは、声が小さくて聞こえずらいことが原因である。
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「所詮」も仏教語

「所詮」−−仏教語辞典にはこうある。「経文の文句によってあらわされることわり」
ここから、「結論として」「つまるところ」という意味が出てきた。
 「所詮はさぁ」などといえば、つまらんな言い方をする奴だと思われるから、「詮する所は」とちょっと洒落てみようかと思う。

 節分の疲れまだ残る中、原稿のリライトに取り組む。原稿の内容の深さと重さを増してくださいと言われた箇所20項目。あと八項目だが、やたらと苦労している。苦労し甲斐があるような文章にしたいと思う。
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趣向(しゅこう)は仏教語

「趣向」を仏教語辞典で調べるとこうある−−「実践すること」
 なるほど、おもむき、むかうと言えば実践いがいにあるまいと思う。
 理屈の屈は、屁に似ている。やってみたらぁ?である。理屈ばかりでは、屁みたいなもので、中身がない。
 世の鬱の方々、考えてばかりいる指向性をあらためて、実践であり、感じる心を優先させるべきだと、つくづく思う。−−−とは言え、なんでそうしなきゃらないらないの?とまた、理屈で納得しようとすれば、それがアウトなのだが。
 信(理屈)と行(実践)は、車の両輪である−−というのもまた、理屈だけれど。うはははは。
 今日は、次の本の原稿についてアイデアをいただいた。リライトの総数は20ページほどである。いい本にしたいので、じっくり見直して、10日後に返すことした。うっひょー!
 苦しくも、楽しい時間のはじまりである。自分で、本当に書きたかった一つのためなら、やるっきゃない、やらせてもらおうと思う。これもまた、趣向。おもむき、向うための具体である。
 それにしても、今晩はいいお通夜だった。法を説くべき坊主が、説くべきでないとされる人情をいかに説くべきか−−−真摯、真心の問題なのだと思った。
 明日、密蔵院では、16時から節分。数年前から、参加者が本堂に入り切れないのであえて宣伝はしない(と言いつつ、ブログに書いているけど)。ハチャハチャ豆まきである。興味がある方は、ご来寺ください。とにかく、愉快な豆まきです。
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赤脚走(しゃっきゃくそう)

「赤脚走(しゃっきゃくそう)」という言葉が仏教語辞典にある。意味は[すあしで走ること。隠し事がないこと。]とあり、解釈例としてこう記している−−「露(あらわ)なる心、隠れたる所なき心地、解脱の心地なり」

 さすがに、この寒さでは裸足で走ることはできないけれど、せめて心は裏表なく、「赤脚走」でこの冬だけでなく、人生そのものを走り抜けたいと思う。
 昔、正座が辛くて、正座の文化論を読んだことがあったのだが、今、そこに面白いことが書いてあったのを思い出した。
 西洋の感覚では、素足にエロティシズムを覚えるというのだ。だから、お相撲は、西洋の女性に人気があるという。逆に東洋の文化圏では、脚が見えていることにエロティシズムが感じるという。女子フィギュアスケートだの、女子体操なんかに鼻の下を伸ばしているというわけだ。西洋の感覚では、シューズを履いているので、イヤラシサは感じないのだそうだ。何?お前はどうだ?わはははは。「嘘は言わないほうがいい。だからって本当のことを言わなくてもいいんです」というモットーのみを記して、今日のブログからは、スタコラサッサと逃げ出すことにする。ムハハハハ。
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胸字(きょうじ)

「胸字(きょうじ)」は、仏教語で、仏になると現れる32の身体的特徴の一つ。胸の上に現れる卍のことである。

古代インドの神たちの胸毛が卍形に渦巻いていたからと言われる。日本では、ご存じの通り、仏教やお寺を表す記号で、ハーケンクロイツとは巻き方が逆である。
さて、卍はいったい、何画の漢字なのだろうと調べようと思ったら、手元にこんな言葉があったのを思い出した。「凹五画卍六角凸五画 いとまのあれば目も手も遊ぶ」である。
ということで、卍は六画である。

日曜日は、法事の後座で少々お酒をいただいて、午睡してから「法話の辻」。そして、ワインを飲みながらのフリートーク。台所に戻ったら、役者の勉強をしている次男の仲間たちの鍋パーティーで、またお酒。へべのレケの一日だった。
月曜は四月のお茶と法要の企画のために、護国寺へ打ち合わせに行き、夜は、渋谷で志の輔らくごinパルコ。「タイムマシン」「メルシー雛祭り」「紺屋高尾」の三席を堪能。
今日は、午前中戒名を考え、位牌に書き。ほかにたのまれていた「繰り出し位牌」の中札に戒名を書いた。塔婆と違ってミスが許されないので、久しぶりに息をつまらせて書いた。
今日の午後は、幕張でご詠歌である。
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