長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

画家・版画家の長島充と申します。

2900-04-10 21:49:47 | 版画


訪問いただきありがとうございます。
絵画作品と版画作品をさまざまな技法で制作しています。制作や日常にまつわる事を日々更新しています。

作品画像や活動内容を紹介するホームページ『長島充 作品集』も開設しています。ぜひ合わせてご高覧ください。
過去ブログは、こちらからご覧ください。


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308. 消しゴム版画ワークショップ 『干潟の野鳥や生きものを彫ろう』

2017-10-10 17:09:15 | イベント・ワークショップ
トータル1か月半、ロング・ランと思っていた谷津干潟での野鳥版画個展「日本の野鳥 in 谷津干潟」もそろそろ折り返し地点となった。おかげさまで好評をいただき多くの来場者に訪れていただいている。8日(月祝)、個展の関連イベントである消しゴム版画のワークショップ『干潟の野鳥や生きものを彫ろう』を行うため早朝から車に道具などの荷物をたくさん積んで会場へ向かった。

会場である谷津干潟自然観察センターに到着。荷物を降ろして準備をしていると窓から見える淡水池からここで塒をとっているサギ類や北国から渡ってきたばかりの冬鳥のカモであるコガモの群れがいっせいに干潟方向に向かって飛び立った。そして池の上空を40羽近いヒヨドリの群れが鳴き交わしながら飛んで行った。「秋の渡り」の群れであろう。なかなかこんなロケーションの雰囲気は美術館や画廊などの展示では味わえないことである。開始時間にはまだ余裕があるので、事前にイベント担当であるレンジャーのHさんと今日のスケジュール打ち合わせをする。午前1回、午後1回の2回開催。すでに事前申し込みも多数あり当日申し込みの電話も何件か、かかって来ていた。ありがたいことである。

この消しゴム版画を使ったワークショップ、ここ10年弱ぐらいで随分いろんな場所で開催してきた。たいていが自然関係などの公共施設が多いのだがテフェスのテントブースなどでも行ってきた。初めは小さなプレス機を持ち込んで銅版画などでも行ったこともあるが会場の条件がさまざまであり臨機応変に対応できる画材として「消しゴム版画」を用いる形になってきた。そしてこの素材であれば手や指先に力のない小さな子供たちや年配者でも簡単に短時間で彫って摺ることができるのだ。
ワークショップというのであるから制作の指導だけではなく実際に僕自身が版を彫りハガキなどに摺って作品を作る現場も見せている。それから彫る下絵はオリジナルで考えても良いのだが事前に僕が原画を描いた小さな下絵を準備してきている。それから施設や環境によりモチーフも変えている。今回は千葉県の谷津干潟なのでこの季節の干潟で観察することができる野鳥や生きものを題材に下絵も準備した。

開始時間が近づいてくるとセッテイングされた会場のテーブル周辺には参加者が続々と集まって来始めた。老若男女、年齢もさまざまな人たち。オープンとなりHさんから谷津干潟の紹介とイベント内容、講師紹介があってから自己紹介を済ませるとここからはヨーイドン! ホワイトボードに完成までの手順の説明~下絵のゴム板へのトレース~彫り版の説明と実演~それぞれが彫りの作業~スタンプパッドを用いた摺りの説明と実演~それぞれが試し摺りとハガキへの本摺り~完成。と、休むことなく大忙しの流れとなる。この間、目の前の個展会場に版画を観に来た人たちに合間を見つけては作品説明などを行う。参加者は大人も子供も凄い集中力でモクモクと制作していた。ようやくカフエで休憩しお昼を食べたのは13:00を過ぎていた。

午後は新たな参加者で1時半スタート。いつものことだが、ここまで来るとあっと言う間に時間が過ぎて行く。好評のため終了予定時間を1時間以上オーバーしてゴール!!今回トータルで40人が参加。センターで用意していただいた大きな紙にも参加者全員がスタンプを摺って行き、楽しい共同作品もできあがった。

終了後、レンジャーのHさんとお茶を飲みながら反省会。アンケート用紙も見せていただき100%好評の内容だったので、ほっと一安心し胸を撫で下ろした。朝とは逆に荷物や画材の後片付けを始めていると窓から見える淡水池には水鳥たちが塒入りでバラバラと戻って来始めていた。「そうか、この職場は朝の鳥たちの塒出に始まり夕方の塒入りを観て人間も1日の仕事を終了するんだな」。
このことをHさんに話すと「そーなんです。言ってみればとても贅沢な職場なんですよねぇ」と答えが返ってきた。心地よい疲れが全身を覆い始め、夕暮れ色に染まりつつある美しい干潟の風景を後にして帰路に着いた。

今回、ワークショップを企画してくださったセンタースタッフのみなさん、そして力作を制作してくれた参加者のみなさん、ありがとうございました。

長島充 野鳥版画展『日本の野鳥 in 谷津干潟』はちょうど折り返し地点、会期は10/31(火)まで。僕がこの後、会場に在廊するのは10/28(土)の午後です。まだ、ご高覧いただいていない野鳥ファン、版画ファンの方々、ぜひ足をお運びください。よろしくお願いします。

展覧会の詳細は以下、習志野市谷津干潟自然観察センターのホームページまで。 http://www.seibu-la.co.jp/yatsuhigata/

画像はトップが消しゴム版画の彫りの実演。下がワークショップのようすと僕が参考に制作した野鳥の消しゴム版。



                               


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307. 「版と表現」 木口木版画の世界 展が開催中です。

2017-10-03 18:34:31 | 個展・グループ展
1日。先月27日から横浜市、岩崎ミュージアムで開催されている「版と表現」木口木版画の世界展のオープニング・パーティーに参加するため出品者の1人として行ってきた。

この展覧会は隔年開催で今回が4回目となるということだ。僕は今回初めてお声をかけていただき参加することとなった。たぶんこのメンバーでお酒が絡めば深夜までになるだろうと横浜スタジアムのすぐ隣のホテルを事前予約しておいた。千葉の奥地から横浜まで出て行き深夜まで飲むとまず帰っては来れない。JR横浜駅から地下鉄に乗り換えると通路脇にはそこらじゅうにプロ野球の地元チーム「横浜ベイスターズ」の選手の顔写真を大伸ばしにしたポスターが貼ってあり盛り上がりを見せていた。
日本大通り駅から地上に上がると外は蒸し暑い。さすが横浜、道を行き交う人々はどこかオシャレで垢抜けて映った。横浜スタジアムが近づくと球場内からものすごい声援が聞こえてくる。それもそのはずこの日のカープ戦はベイスターズが勝てばクライマックスシリーズの出場権が得られるという大事な試合だったのだ(結果はベイスターズの勝利)。

ホテルでチエックインを済ませ再び外に出るとパーティーの前に参加しようと思っていたギャラリートークの開始時間が過ぎている。あわてて大通りに出てタクシーを拾って会場に直行した。会場となっている岩崎ミュージアムに来るのも初めてだったが「港の見える丘公園」の前にある落ち着いた佇まいである。煉瓦造りの洋風のコンパクトな建物は入り口に美しいステンドグラスがはめ込まれてあって、さながら「丘の上の小さなチャペル」といった雰囲気である。
会場に入ると部屋の入口まで来場者でいっぱいだった。熱気すら感じる。すでに3名のベテラン木口木版画家(柄澤齋氏、栗田正義氏、三塩佳晴氏)と1名の美術評論家(藤嶋俊會氏)によるギャラリートークが始まっていた。

拝聴するのが途中からだったが、3人が木口木版画の制作を始めた頃、まだ専門とする版画家も少なく手さぐりだったことや、この特殊な木版画技法の魅力やその出会いなどの話が次から次へと話される。参加者も食い入るように聞いていた。前半も聞きたかった。遅刻したことが悔やまれた。
トークが済むとパーティーの準備までの時間、周囲の壁面に展示された出品作を1点1点ゆっくり観て回る。木口木版画は材料に制約があるため掌サイズの小さな画面が多い。だが、むしろそのために製作者は求心的で細密な世界に向かうのである。「山椒は小粒でもピリリと辛い」小さいが奥深く、濃密な世界にいつの間にか吸い込まれていく自分がいた。今回15名、約80点近い小宇宙が整然と並んだ。真四角に近い形の広すぎず狭すぎない展示空間もこの技法とよく合っていたように思う。

会場で主催者である「スージ・アンティック&ギャラリー」のオーナー、鈴江さんに久しぶりにお会いし挨拶する。ギャラリーが鎌倉の由比ヶ浜にあった頃だったからかなり時間が経っている。それから今回、出品手続きでいろいろとお世話になったミュージアムの小池氏ともお話しできた。

柄澤氏の乾杯の音頭でパーティーが始まるとお酒も入り会場はたちまち賑わいをみせてくる。展覧会関係者、出品版画家、作家、美術関係者、アートコレクター等、さまざまな方々に挨拶し、話し、お酒を酌み交わす。その中で僕が美術学校の学生時代35-36年前、木口木版画を習った故・日和崎尊夫・夫人と再会しお話しすることができたことはとても嬉しかった。当時、日和崎氏の集中講義のあと国分寺界隈で飲んだくれてアトリエに転がり込んでいたのだが、そのことをよく憶えてくださっていて懐かしがられていた。アルコールと共にすべての記憶が走馬灯のように回り始めた頃、関係者全員で記念写真を撮りお開きとなった。楽しい時間はあっと言う間に過ぎて行く。二次会は有志のみなさんと横浜の繁華街の飲み屋に繰り出して深夜まで。

懐かしい人たちとの嬉しい出会い、懐かしい話と充実した時間を過ごすことができた。関係者のみなさん、ありがとうございました。この場をお借りして参加させていただけたことに感謝いたします。

展覧会は今月の22日まで。ありそうでない木口木版画の小宇宙だけを集めた企画展。芸術の秋、美術ファン、版画ファンのみなさん、この機会に是非ご高覧ください。

会場は岩崎ミュージアム。http://www.iwasaki.ac.jp/museum/ tel:045-623-2111

画像はトップが当日の展覧会会場のようす。下が向かって左から岩崎ミュージアム外観とギャラリートーク、オープニングパーティーのようす。展示作品の一部。



                   





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306. 『第四回 版と表現』展 - 木口木版画の世界 - 

2017-09-27 17:28:41 | 個展・グループ展
今日から始まった版画の企画グループ展のご案内です。

・展覧会名:岩崎ミュージアム第四〇八回企画展 『第四回 版と表現』 木口木版画の世界

・会期:2017年 9月27日(水)~ 10月22日(日)9:40~17:30 ※月曜休

・会場:岩崎ミュージアム・ギャラリー(山手ゲーテ座) 神奈川県横浜市中区山手町254(港の見える丘公園前)Tel.045-623-2111 http://www.iwasaki.ac.jp/museum/

・交通のご案内:〇みなとみらい線(東急東横線直通)「元町・中華街」<⑤元町口>改札を出て右、エレベーター・エスカレーターで<⑥アメリカ山公園口>より徒歩15分。
        〇JR根岸染「石川町駅」南口(元町口)より徒歩15分。
        〇神奈川中央バス11系統(桜木町駅~蒔田駅から保土ヶ谷駅東口)「港の見える丘公園」下車すぐ前。
        〇横浜市営バス20系統(桜木町駅~山手駅)「港の見える丘公園」下車すぐ前。
        ※駐車場はございませんので、お車に手お越しの際は、近隣の有料駐車場等をご利用ください。

・内容:2年おき、今回で四回目となる木口木版画作家によるグループ展。今回はベテランから若手まで14名の版画家による木口木版画作品約60点ほどの展示となります。

・出品作家:小川淳子 柄澤齋 河内利衣 栗田政裕 小泉美佳 鈴木康生 釣谷幸輝 長島充 野口和洋 林千絵 牧野妙子 松岡淳 三塩佳晴 宮崎敬介 森山佳代子(50音順)

・主催:スージ・アンティック & ギャラリー

<関連イベント> 

・ワークショップ:10月1日(日)13:00-15:00「木口木版印をつくる」講師:栗田政裕 対象小学校高学年~ 定員20名(要予約) 参加費500円(材料費・税込) 詳細は上記会場まで。

・ギャラリートーク:10月1日(日)15:30-16:30「木口木版画の魅力」パネリスト:柄澤齋・栗田政裕・三塩佳晴(以上、版画家) 司会:藤嶋俊會(美術評論家)参加費無料・要予約 

※長島は今回初参加となります。4点の木口木版画を出品しています。10月1日(日)の午後3時頃より会場に行く予定です。

芸術の秋、アートファン、版画ファンの皆様、この機会に是非小さくて濃密な木口木版画の世界をご高覧ください。

画像はトップが今展のフライヤー表面。下が向かって左からフライヤー裏面、展覧会DM、長島の木口木版画の版木とビュラン(彫刻刀)。 


     
  
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305. 長島 充 野鳥版画展 『日本の野鳥 in 谷津干潟』 が始まりました。

2017-09-22 18:36:51 | 個展・グループ展
前回ブログでご紹介しました。僕の個展、長島充 野鳥版画展『日本の野鳥 in 谷津干潟』が千葉県習志野市谷津干潟自然観察センター内の展示会場で17日(日)からスタートしました。今回、同センターで三回目の野鳥版画展で6年ぶりとなります。

前回ブログにに展覧会やイベントの事務的な情報を載せたので今回は何故、僕がこれまで野鳥の版画の制作を続けてきたのかと言うことを掻い摘んで説明します。まずは今展のために自主制作した宣伝用フライヤーに書いた文章の一部を抜粋します。以下、参照。

「…(中略)、『野鳥版画』という言葉は、この連作版画の制作を始めた15年程前に私が作った造語です。具象絵画表現には、風景画、人物画、静物画などの分野があるのだから、『野鳥版画』というカテゴリーがあってもいいだろうとネーミングしました。この野鳥と版画という言葉には私自身特別な思いがあります。17歳から野鳥観察を始めて41年、版画家を目指してから36年、この2つの世界をいつか1つのものとして形にしたいと思い続けてきました。いわば私のライフワークと言えるのです…云々(中略)」
かなり掻い摘んで書いています。この「私自身の特別な思い」という部分をさらに詳しく説明すれば簡単にはいかずに、おそらく数回のブログ投稿が必要になりますのでここではこの短い宣言文によって省略させていただきます。詳しく知りたい方は会場でリアルな作品をご高覧いただき感じていただくかタイミングよく僕が会場にいる日であれば捕まえて質問していただきたいと思います。

つまり、一言で言えば「野鳥」と「版画」という2つの世界は僕自身にとっては切っても切れないものであり今でも車の両輪のように存在しているということなのです。

それからもう1つ重要なことはフライヤーには書きませんでしたが、僕が野鳥を観初めてこの41年間にかなりの種類の野鳥たちの生息数が減少してきました。その原因はさまざまですが多くは生息地の地球規模での自然環境破壊や温暖化などが原因となっているのです。そしてそこには必ずなんらかの形で「人間」が関わっているということです。そして長い年数を観察してきてハタと気が付くと自分の周り中の野鳥たちが「絶滅危惧種」に指定されていました。20年前まで極く普通に生息していた種の多くが「絶滅危惧種」となってしまったのです。僕たちはいつの間にか「絶滅危惧種」に囲まれて生きているということになります。もちろん野鳥だけではありません、動物、植物他の多くの野生生物がそうなっているのです。最近ではこの現実が『野鳥版画』を制作する上での強いモチベーションとなってきています。

17日。初日だったので午前中から会場に入りました。この日は台風の影響で雨天でしたので来場者が少ないのではないかと心配しながら向かいました。しかしセンター内にはけっこう来場者が訪れていました。そろそろ谷津干潟が秋から冬にかけての季節の変わり目となり渡り鳥のベスト・シーズンとなるからでしょう。キリアイやアカアシシギといった希少種も出現しているようです。それからいつも都内などの個展会場に来ていただく知人の方も駆けつけて来てくれました。感謝です。

今回、会場には銅版画、木口木版画、板目木版画、さまざまな版画技法で制作した合計45点の『野鳥版画』を展示しています。自分で言うのもなんですが普段、画廊などで展示する数の倍強の数ですので見応え充分であります。野鳥ファン、版画ファンの方々、秋の気候の良いシーズン、どうか足をお運びいただいて、ご高覧頂ければ幸いです。

センター内には食事やコーヒーを飲みながら淡水池の水鳥が観察できる「カフエ・オアシス」もございます。こちらは休憩におすすめです。

展覧会の詳細は以下、ホームページにてご確認ください。

・谷津干潟自然観察センター   http://www.seibu-la.co.jp/yatsuhigata/ 

画像はトップが展示会場の風景。下が展示会場と観察センター内風景、カフェ・オアシス外観。



                       
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304. 長島 充 野鳥版画展 『日本の野鳥 in 谷津干潟』 The Birds of Japan 

2017-09-12 18:07:48 | 個展・グループ展
秋の個展情報です。

今回は谷津干潟自然観察センターでの6年ぶりの版画作品の展示です。「秋の特別展示」として約1か月半というロングランの展示と
なっています。

・タイトル:長島 充 野鳥版画展 『日本の野鳥 in 谷津干潟』 The Birds of Japan 

・会期: 2017年 9/17(日)~ 10/31(火) 9:00~17:00 (入館は16:30まで) / 月曜日休館(月曜日が祝休日の場合は次の平日)

・会場:谷津干潟自然観察センター 1F 特別展示コーナー 千葉県習志野市秋津
 5-1-1 / Tel:047-454-8416 Fax:047-452-2494 / http://www.seibu-la.co.jp/yatsuhigata/

・入館料:センターへの入館料が必要となります。中学生以下無料、高校生以上370円、65歳以上180円

・交通アクセス:京成谷津駅/下車徒歩25分 JR京葉線新習志野駅・南船橋駅/下車徒歩20分 JR総武線津田沼駅南口からバス/京成バス乗り場7番「新習志野駅」行「津田沼高校」下車徒歩10分/
        京成バス乗り場10番「谷津干潟」行 終点下車徒歩15分  

・内容:画家・版画家でバーダーでもある作者が谷津干潟や今まで出会った日本の野鳥たちの姿を、様々な版画技法(銅版画、木版画、木口木版画)を駆使し表現した版画作品約40点を展示します。
    また今回、谷津干潟では初めて発表する大型版画作品数点も合わせて展示します。 


<関連イベント>

・タイトル:消しゴム版画ワークショップ「干潟の野鳥や生き物を彫ろう」

・会場:谷津干潟自然観察センター内

・日時:10/9(月・祝) 1回目10:00~12:00 2回目 13:30~15:30

・定員:各25名

・対象:小学生以上(小学2年生以下は保護者同伴なら可)

・参加費:1人800円 + 入館料

※事前申し込み。先着順なので詳細は観察センターまで。


※作者在廊日:9/17(日)AM.PM、9/23(土)PM、9/27(水)AMのみ. 10/9(祝)AM.PM、ワークショップ開催の日 10/28(土)AM.のみ.

以上、谷津干潟は野鳥を始め多くの生物が生息しているサンクチュアリーです。秋の気候の良いシーズン、バードウォッチングを兼ねてどうかご来場、ご高覧いただければ幸いです。


画像はトップが今回出品の大型木版画 以下データとなります(下は今回の個展の案内フライヤー)。 

・作品名:野生の肖像シリーズ 「オンネウ(アイヌ語でオジロワシ)・老大なるもの」

・技法:板目木版画(モノクロ)

・イメージサイズ:61 × 61 ㎝ 





 



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303. 『父が語った戦争』 第4回(最終回)幻の滑空特攻機

2017-08-16 17:27:20 | 
昨年の六月、父の戦争体験談の数日に亘る聴き取りも大詰めを迎えてきた。この頃になると朝起きて調子が良い時には「そろそろ始めるか」などど言い、「お前は案外、聞き上手なんだなぁ」などと言いながら表情にも伝えようとする気持ちが強く表れていた。

所属していた茨城県の土浦海軍航空隊の大空襲での生き残り組・少年飛行兵のうち半分は命令が出て滋賀県に移動して行った。木製のモーターボートに爆装した特攻艇「震洋・しんよう」による訓練を琵琶湖の水上で行うためだった。残り半分の父親たちは土浦海軍航空隊から北にある石岡町の民家に数人づつが分散し生活しながら山の斜面等に「ロケット戦闘機の発射台を造る」という命令が出て、近くに駐屯していた陸軍の歩兵部隊と協力しながら毎日土木作業に専念していた。血気盛んな年頃であり多くの戦友を爆撃で失った後である。「自分たちも特攻に志願して戦死した戦友の仇討ちがしたい!自分たちだけ何故、こんな作業をさせられているのか?」という憤りや焦りもあったのではないだろうか。しかしパイロットとしての訓練は終えたものの本来なら搭乗すべきゼロ戦や紫電改が九州方面などに集結してしまっていて無いのだから仕方がない。まさに「余乗員・よじょういん」と呼ばれたわけである。そして7月に入ると硫黄島方面から飛来する米P-51戦闘機による銃弾爆撃も行われ日増しに敗色が色濃くなってくるのだった。だが、作業をしながら戦友たちと「日本は負ける」などという話はしたことがなかった。

そうこうしているうちに8月に入り日本の運命の15日がやってきた。この日は休日だった。朝から午後にかけ、数人で隊のみんなのために野菜などの食料を分けてもらおうと付近の農家をいくつも訪問していた。そして宿泊している民家に戻ると家人に「ラジオを通じて天皇陛下の玉音放送があり、日本が連合軍に無条件降伏し戦争は終わったのです」と告げられた。「終戦を知った瞬間、一番初めに何を思った?負けて悔しいと思った?」と尋ねると「そんなことは思わなかった。ただ、あぁ、これで家に帰れるんだなぁ…と思った」と静かに答えが返ってきた。
15日の次の日、最終的に九十九里浜の北方、銚子市の周辺に移動する計画もあったが結局、爆撃の跡がまだ生々しい土浦海軍航空隊に戻るように命令がありこちらに移動した。焼け残った兵舎の廊下で寝起きしたり、しばらくは仲間とブラブラして過ごしていた。二週間後、部隊長がやってきて終戦の訓示と武装解除があったが話の内容はよく憶えていないとのこと。ここで解散となった。「負けたと知って混乱はなかったの?」と聞き返すと「ただ1つ…武装解除後に頭がおかしくなった戦友が1人いて、どこで手に入れたのか日本刀を振り回し訓練でさんざん絞られた曹長を追い掛け回す騒ぎがあったが、すぐに皆に取り押さえられた」ということがあったようだ。
ここから土浦の駅まで出て、列車に乗って上野駅まで行った。家の最寄りの駅に着くと電話も入れずに歩いていきなり焼け残った自宅兼店まで帰った。玄関で大声を出して「ただいま帰りましたっ!!」と言うと入隊の時と同じようにみんなが出てきてとても喜んでくれたのだった。「これで自分の戦争体験の話はおしまいだ。後はおまえがパソコンで詳しく調べてみろよ。今はなんでも情報が出てくるんだろう」と言って安堵しきった表情で客間のソファーにもたれかかった。

それにしても父の話の中で腑に落ちない点がいくつかあった。それはまず土浦に移動する際、部隊の作戦内容は軍の極秘だったようだが、終戦まで知らされなかった点、搭乗する戦闘機がないにもかかわらずグライダーの飛行訓練を続けていたという点、そして石岡でのロケット戦闘機の発射台造り、九十九里浜への移動予定…?疑問は残ったが父の容体も悪くなってきた頃でそのままにしておいた。
この聴き取りの1カ月ほど後、父親が他界。葬儀が終わった後、思い出して何気なくパソコンで不明点を検索してみた。キーワードは「予科練」「グライダー」「石岡町」「ロケット戦闘機」など。すると大戦末期に海軍で考案、製造された特攻兵器に行き当たった。ゼロ戦による「神風特攻隊」のあと「余乗員」のために考案され製造された特攻兵器は先にあげた「震洋」以外にもいくつか出てきた。1人乗りの人間魚雷「回天・かいてん」や爆撃機の腹に搭載する人間ロケット「桜花・おうか」などは良く知られている。さらに見て行くと…あった!! グライダーによる滑空特攻機『神龍・じんりゅう』という兵器が戦後、実物大に復元されたレプリカの画像と共に見つかったのである。

<滑空特攻機 神龍・じんりゅう>

『神龍』は太平洋戦争末期に前回ブログでご紹介した米英の連合軍による日本本土上陸作戦『ダウンフォール作戦』に合わせて設計製造されたグライダー特攻機である。開発された理由の一つとして「ゼロ戦に憧れて海軍航空隊に志願した少年飛行兵は陸上や水上特攻などではなく空を飛ばさせて死なせたい」ということもあったらしい。「軍上層部の都合のよい理由ではあるが」
実物大の模型画像をみると木材にテント布を張った粗末なものである。これに離陸用の小型ロケットと特攻時の急降下に使う小型ロケットがそれぞれ搭載されている。武装は100㎏爆弾1つで対戦用の機銃などはない。もちろんグライダーなのでエンジンも付いていない。山の斜面などに作られた発射場から出撃し音もなく滑空し目標物を発見すると急降下用ロケットを発射し体当たり自爆する。海岸線に上陸してきた敵の重戦車や上陸用の揚陸艇が主な目標だったと記載されている。いわゆる「水際特攻」である。

そしてなんと、この試作機と飛行試験場は父たちの駐屯していた石岡町にあった。パイロットの飛行訓練としては通常のグライダーが用いられていたということである。さらに予定されていた搭乗員の中に「甲種予科練14期生」とある。間違いない。父親を含む、石岡の余乗員居残り組はこの「神龍」に搭乗させられ水際特攻に出撃させられるはずだったのである。名前は勇ましく「神の使いの龍」であるが、こんな粗末な棺桶のようなグライダーで、果たして米軍の最新式重戦車などに体当たりできたのだろうか? たとえうまく発射したとしても最新式の高速戦闘機にバタバタといとも簡単に撃墜されてしまっただろう。まず想像するに99%は失敗に終わるはずだ。万が一、体当たりできたとしても戦車の搭乗員はたった5名である。全体から見れば大した戦果ではない。
海軍作戦本部はこの九十九里浜などの水際特攻に2000人の予科練出身者を予定していた。そしてその中で『神龍特攻隊』には1000名の予科練出身者を送り出す予定だったようだ。いったい誰がこんな「犬死」にも近い無謀な作戦を発案したのだろうか? 顔がわかるならば捜して見てみたいものである。『神龍』は数度の試験飛行を繰り返し8月15日には5機が完成。11月の連合軍上陸作戦に向け量産開始の命令が出ていたが日本のポツダム宣言受諾により実戦への投入前に終戦の日を迎えた。父親はある程度このことを知っていたのか、それともまったく知らなかったのか今となっては尋ねようがないが、あの時僕に向かって「あとはお前が調べろよ…」と言ったことが印象的であり偶然とも思えない。そして日本がポツダム宣言を受諾せず、1946年3月に連合軍の『コロネット作戦(関東上陸作戦)』が敢行されていたならば、間違いなく父親と戦友たちは特攻に出撃し帰らぬ人となっていただろう。そうなれば僕は当然この世に産まれていない。何かとても感慨深く、そして不思議な気持ちである。


話が前後するが父が戦争体験を話終えた日、最後に声のトーンを変えて僕にこう言い聞かせるように語った。「いいか、よく憶えておけよ。戦争に正義や大義名分などは何1つない。どちらが正しくてどちらが間違っているということもない。ただあるのは人間同士の愚かな殺し合いだけだ…そしていつの時代も犠牲が多く出るのは若者と民間人なんだよ。それは現在も続く戦争のニュースを見れば理解できるだろう?」
父親は普段からあまり自分の本当の本心や哲学的なことは語らない人だった。このセリフが今の僕には重くのしかかってきている。そして最後に交わした約束だった「父さんが語った戦争体験を多くの人に伝えて行くよ」という内容がはたして伝わっただろうか。これからの課題である。

仕事をリタイヤした父が18年前、一人で車を運転し最初に真っ直ぐに向かったのは九州にある「特攻記念館」だった。父が最後まで再訪することがなかった、いやできなかった茨城県の霞ヶ浦周辺をいずれゆっくり訪れてみようと思っている。ここには現在「予科練平和記念館」という公共施設が建っている。多くの資料を見ればまた何か新知見を見つけられるかもしれない。

この連載ブログを亡き
父親と「土浦航空隊」の空襲で亡くなった多くの少年飛行兵の戦没者の方々、航空隊のあった茨城県阿見町の民間の被災死没者の方々に捧げます。そして第二次世界大戦で尊い命を失ったすべての人々に哀悼の意を捧げさせていただきます。 

画像はトップが戦友たちと航空隊の庭で(前列向かって左の一番小さいのが父)。下がそれぞれ所属する部隊を写した集合写真2カット。


   
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302. 『父が語った戦争』 第3回 本土決戦

2017-08-14 17:35:21 | 
昭和20年6月10日。父の所属する茨城県の土浦海軍航空隊を襲った米軍機による空襲で部隊の2/3の少年航空兵が戦死。父を含む残りの1/3の飛行兵はしばらく土浦航空隊の焼け跡のわずかに残った兵舎で生活していたが、ここ霞ヶ浦周辺には海軍の施設が集中していたため、その後も硫黄島の基地から飛来した米軍爆撃機、戦闘機による小さな空襲が何度もあった。敵機の爆音がして来ると「敵機来襲~っ!!」という声と共にその場からみんな飛散してパーッと蜘蛛の子を散らすように逃げた。焼け残った兵舎は狙われるのですぐに離れて裏山の中に逃げ込んだり、霞ヶ浦方面の水辺に逃げたりした。
そんな中、戦友数人が軍の所要で国鉄の駅まで使いに行ったのだが、そこでフラッと飛来した米P-51戦闘機1機に襲われた。みな散らばって逃げたが1人の戦友をP-51が執拗に追いかけ始めた。なんとか停車中の貨車の下に潜り込んだが膝から下が隠れず、そこに低空飛行をしてきて“バリバリバリッ”っと機銃掃射された。戦闘機に付いている機銃は戦闘機を打ち落とすための口径の大きな機銃であるからたまらない。銃弾が両ふくらはぎを貫通し、敵機が飛び去った後、皆に貨車下から引き出されたが間に合わずに出血多量で死亡したのだという。まるで遊びのようにやって来ては地上の人を見つけるとこうした攻撃をしてきたようである。この話をしていた父が「他人ごとではなかった、ひょっとすると自分が使いに行っていたかもしれない…」と呟いた。

しばらくして生き残り組のうち半数が滋賀県の琵琶湖に移動となった。ここの水上で特攻艇「震洋・しんよう」という1人乗りの特攻兵器の訓練をするためだ。これは小型のベニヤ板製のモーターボートの船首に爆装し搭乗員が一人乗り込み日本近海にいる駆逐艦や哨戒艇などの小型の敵艦艇に体当たり攻撃を敢行するもので、大戦末期のこの時期には太平洋岸の海岸線の洞窟などに多くの基地があり終戦ギリギリまで出撃していたということだ。それにしてもベニヤ板製のモーターボートである…。父を含むあと半数は土浦の北、石岡という町へ移動することになった。ここで民家に数人が分散し生活が始まった。
「そこではどんな任務が与えられたの?」と尋ねると「町から離れた山の上に造られた平坦地に地上ロケット戦闘機の発射台の建設を行っていた」という答えが返ってきた。「ロケット戦闘機って?特攻兵器の桜花(おうか)のこと」と聞き直すと「いや、それとは違うタイプがもう一つあった…1人乗りの操縦席があったので無人ではないと思う」と言っていた。
「陸軍の部隊も駐屯していて、いっしょになって土木作業を行った。初めのうちは自分たちを海軍の若い下士官だと思っていたらしく、すれ違うとピシッと陸軍式に敬礼をされた。しばらくして少年兵だと解ると、してくれなくなった」と苦笑しながら言っっていた。

ここまで話を聞いて謎が深まった。搭乗する戦闘機がない時期に土浦でのグライダーによる飛行訓練?そして今度はロケット戦闘機?いったい父親たちはどんな作戦に参加する予定だったのだろうか。ここで父たち部隊が置かれていた状況を俯瞰して見るため、父が亡くなってから数か月経ってからネットで調べた大戦末期の関東方面の日本軍の作戦を一部だが取り上げてみることにする(詳しく書くととても長くなるのであくまでも概容ということでご了承、お読みください)。

<日本本土上陸作戦>

太平洋戦争末期、アメリカ、イギリスなどの連合国により開催された「カイロ会談」で劣勢にもかかわらず徹底抗戦を続ける日本軍に対して「日本の早期無条件降伏のためには本土上陸も必要」という認識が話された。1945年2月には作戦の骨子がほぼ完成。上陸作戦を中心になり実行するアメリカ、イギリス、オーストラリア軍をはじめとするイギリス連邦軍に了承されることとなった。
この作戦は『ダウンフォール作戦:Operation Downfall』 と命名される。この計画は大きく2つに分かれており、1つは1945年11月に計画された『オリンピック作戦』ともう1つは1946年3月に計画された『コロネット作戦』だった。前者は九州南部への上陸作戦で航空基地を奪い、ここから本州、特に関東地方の日本軍基地を英空軍の重爆撃機により攻撃する作戦だった。後者はこの九州からの集中爆撃後、関東の神奈川県湘南海岸と千葉県の九十九里浜、茨城県の鹿島灘から米海兵隊を中心に大規模な上陸作戦を展開、首都東京を挟撃し短期間で皇居まで迫り無条件降伏を迫るというものだった。
その連合軍の陸海空の動員される兵力は第二次大戦史上、最大規模と言われ欧州のノルマンディー上陸作戦をはるかに凌ぐ数が予定されていた。そして投入される米英軍の兵器も最新鋭のものが、この作戦のために開発製造されていたのだということだ。さらに驚くのは広島、長崎に続く新潟などの都市への原子爆弾の投下。想像を絶する激戦が予想されるため連合国軍側も自分たちの損害を減らすという理由からヨーロッパ戦線では第一次大戦後タブーとなっていた化学兵器、生物兵器の使用も計画されていた。その内容はマスタードガス、サリンなどの神経毒ガス攻撃や食料となる農作物を殲滅し兵糧攻めにする枯葉剤(ベトナム戦争で使用)の散布まで検討されていたのだという。

これに対して日本側は大本営が提唱する「一億玉砕・いちおくぎょくさい」のプロパガンダ通り、『決号作戦・けつごうさくせん』と称し、本土に残る約500万の陸海軍以外に男子は15歳~60歳、女子は17歳~40歳までの民間人で組織した国民兵2600万人を投入するとされる計画がたてられていた。連合軍同様、この戦のためにさまざまな新兵器も陸海軍で考案され設計、製造が進められていた。そして茨城の鹿島灘と千葉の九十九里浜には攻撃陣地が軍部の指導の下、築城され始めていた。あくまで専用の攻撃陣地であり防御陣地の築城は行われなかった。つまり「お国のために死んで玉砕するまで」ということなのだろう。そして航空兵力も父親たち「余乗員」を含む特攻攻撃が中心に考えられていたのである。

史上最大の上陸作戦が遂行されれば、当然のことながら両軍共に甚大な被害が生じたことだろう。連合軍、日本軍共、独自に損害を予測し数値は異なっていたようだが、米英軍は第二次世界大戦の中で最大数、日本側は全軍が壊滅するほどの被害数という点では一致している。数だけではなく原子爆弾の継続使用や化学兵器の使用などにより軍人だけではなく民間人に多大なる犠牲が出て日本列島全体が焦土と化したことは間違いないだろう。
それにしてもこうした狂信的で無謀としか表現しようのない作戦が存在したという事実を現代の日本人のどれだけの人が知っているだろうか。特に40代より若い世代は全く知らないのではないだろうか。


この続きはさらに次回に続きます。次回が最終回となる予定です。

画像はトップが兵舎内で戦友と写された写真(前列、向かって左から3番目の小柄で笑っているのが父)。下が部隊内での訓練のようす3カット、みんなあどけない笑顔をした甲子園球児ぐらいの少年たちである。


      


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301. 『父が語った戦争』 第2回 土浦海軍航空隊

2017-08-11 17:15:26 | 
昭和20年の3月、父たち若い飛行兵を乗せた軍用列車が奈良からノンストップで茨城の土浦に到着する。以後、父親の部隊は土浦海軍航空隊所属となった。奈良航空隊で基礎訓練を終え、これからいよいよ実戦の訓練を行うためである。

翌日の朝、飛行場に集まると、そこには想像していたゼロ戦や紫電改の姿はなく「赤トンボ(練習機)」とグライダー、そして本物のように色が塗られた擬装の囮用木製機だけが並んでいた。この年の3月に硫黄島の守備軍が玉砕し、本土の大都市への大空襲が続き、4月から沖縄戦が始まっていた。こうした状況で航空兵力の多くが本土に近づく決戦場に迎撃機や特攻隊機として集結していたため父親たちから下の予科練16期生(16才~20才)までのパイロットにはもはや搭乗すべき戦闘機がなくなっていた。そしてこの訓練は終えたが空を飛べない戦闘員たちは「余乗員・よじょういん」などと呼ばれ、海軍上層部はこの少年兵たちの扱いを今後どのようにするか検討を重ねていた。「余乗員」いやな響きを持った言葉である。偶然だが幻想エカキの大先輩のT.Iさんは予科練で父の一期上にあたり土浦の近くの霞ヶ浦航空隊でゼロ戦に乗り毎日、湖上に浮かべられた模型の敵艦に向け特攻の急降下訓練を行っていたと伺っている。

「そんな航空隊でいったい何の訓練をしたの?」と尋ねると「毎日のようにグライダーに乗って飛行訓練をしていた」と答えが返ってきた。何か腑に落ちない。どうして搭乗する戦闘機もないのにグライダーの訓練などしていたのだろうか?父親たちはあまり疑問を持たずに上官に言われるがまま厳しい訓練を続けていたのだということだった。

そうした中、昭和20年6月、この頃になると占領された日本近海のサイパン島や硫黄島から飛来する米軍の爆撃機や戦闘機による空襲が太平洋岸を中心に頻繁になってきていた。そうした中で10日の朝、土浦航空隊に悲劇が起こった。
この日、父親は数人の戦友たちと兵舎の見回り当番を命じられていた。空襲警報が発令され"ゴォーッ、ゴォーッ" と空を引き裂くような恐ろしい爆音と共に米軍機の大きな編隊が近づいてきた。「危ないから早く防空壕の中へ入れっ!!」と上官から言われていたが責任からか父を含め何人かは兵舎に残っていた。
そうこうしているうちに防空壕が集中的に狙われた。"ドーン、ドーン"と地響きのように爆撃の音が聞こえてくる。どのくらいの時間だったのだろうか。長くも短くも思えた。しばらくして飛行機の爆音が遠ざかると「残っている者はすぐに助けに行け~っ!!」と上官の命令がありバラバラと兵舎の外に出て走って裏山にある防空壕へと向かった。20分ほどで現場に到着すると防空壕の場所がどこにあるのか解らないほど、派手に潰されていた。

皆で協力してスコップなどで瓦礫や覆いかぶさった土の除去作業を進めて行く。濠の入り口から少し入ったところで一人の戦友がキチンと椅子に座ったまま死んでいた。肘から上は真っ黒に焼け焦げていて誰か判断はし難い姿なのだが膝の上に書類の入った鞄をしっかりと両手で抱えている。肘から下はきれいに焼け残っているのである。この戦友は普段からとてもまじめで几帳面な優等生で、その性格を上官に認められ重要書類を扱う係りとされていた人物であることが解った。コの字に曲がった防空壕の中を進んで行くと、真上に爆弾が落下したため床にかなりの衝撃で叩き付けられたのだろう。顔が真っ赤に倍に膨れ上がった戦友3人が倒れて死んでいたのが見つかった。さらに進むとコの字のちょうどコーナーで柱にしがみついていた二人の戦友に遭遇した。運よく助かったのである。そしてその先では多くの焼け焦げた戦友の遺体と遭遇することになる。何人かの戦友はまるで、きれいに焼かれた鶏肉のような変わり果てた姿で見つかった。まさにこの世の「生き地獄」そのものである。
16~17才と言えば、まだ幼さが残る少年たちである。昨日まで訓練の合間にお国自慢や家族自慢、そして恋愛の話などをして笑い合っていた仲間たちのこの姿を生き残った者たちはどのように受け止めたのだろうか。

それから生存者の4人が1組となり、板に遺体を乗せて山上にある平坦地まで運ぶように命令された。これは本当につらく悲しい時間であった。そして喘ぎながら山上の広い場所に着くとそこは遺体で溢れかえっていた。負傷をしたが運よく一命を取り留めた人たちは軍の病院が爆撃を受けたため民間の病院まで運ばれていった。
作業が一段落し下に降りて休んでいると周囲は暗くなリ始めていたが山上で遺体を焼く炎が赤々と見えて黒い煙がいつまでも高く大きく上がっていたのだという。兵舎も爆撃による火災により一部を残してほぼ全焼に近い状態となっていた。この大爆撃で若い少年航空兵の182名が戦死したと記録に残されている。

ここまで話すと父親がぽつりと言った。「だけど、アメリカさんもけっこう死んだよ」「どういう意味?」と聞き返すと「P-51(米戦闘機)が滑走路に置いた偽の囮用飛行機を狙って編隊で低空に"ダーッ"と降りてきて機銃掃射してくると地面スレスレに土嚢と擬装網でカムフラージュしておいた友軍の対空機関砲が一斉に"バリバリバリ"っと撃ちまくるんだ。そして燃料タンクに命中し"パッ"と一瞬辺りが真っ白になったかと思うと木端微塵に消えてしまう。人間の姿なんて跡形もなくなるんだぞ」と静かに答えた。そして「これが戦争なんだよ…」とも続けるのだった。

この爆撃で大きな損害を受けた土浦海軍航空隊の内、1/3ほどとなった生き残り組はわずかに焼け残った建物でしばらくの間は寝起きを共にするがその後、半分は滋賀県の琵琶湖に、そして父親を含む半分は土浦の北にある石岡の町へと移動し終戦までの最後の任務に就くこととなった。

この続きは次回へと続きます。

画像はトップが奈良航空隊の庭で撮影された予科練制服姿の父。入隊の時よりも訓練によりガッシリとした体形になっている。下が土浦航空隊での集合写真、バックに赤トンボといわれる練習機が見える。


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300. 『父が語った戦争』 第1回 予科練に入隊する。 

2017-08-08 18:12:59 | 
今月15日、日本は72回目の終戦記念日を迎える。戦争を体験した世代が亡くなったり高齢化することで生々しい過去の記憶が年々風化しようとしている。

前々回のブログでも予告したが、昨年7月28日に88歳で他界した父親が亡くなる三か月ほど前から僕たち家族に病院の緩和病棟に入院するまでの間、語り続けた戦争中の体験談があった。それまでこの時代の事はあまり語らなかった父が病で体が衰弱していく中、あまり熱心に語るので「これは」と思い僕は聴き取るがままにその内容をノートに記録していった。最後の方は声も枯れてきて途中フラフラッと意識を失いそうになっても語リ続けていた。何故、人生の最後にこの時代の話を続けたのだろうか。きっと何か大切なメッセージをこれからの人間に伝えたかったに違いない。
病院に入院し、亡くなる5日ほど前だったと思うが食事もほとんど取れなくなった父親の耳元で僕は「あの話してくれた戦争中の事は必ず人に伝えて行くから」と約束した。父はもう言葉が出なかったが顔を向き直し眼でうなずいていた。この8月のブログに書こうと思ったのだが、さすがに亡くなってすぐには、その気持ちにはなれなかった。先月一周忌を終え、ようやく書く意欲が湧いてきたのでこうしてパソコンに向かっている。これから終戦記念日まで、3回ほどの予定で『父が語った戦争』について投稿して行こうと思う。

昭和3年東京の本所で生まれ、下町で育った父の幼少期は日本が戦争への道を突き進む時代であった。そして中学3年間はちょうど太平洋戦争の真っただ中で、当時の少年たちのほとんどがそうあったように軍国少年であった。昭和19年(1944年)4月、15歳で中学を卒業するとすぐに海軍航空隊飛行予科練修生に志願入隊した。正式には「甲種飛行予科練習生14期」というらしい。つまり、訓練を受けて少年航空兵になりゼロ戦や紫電改などのパイロットとして敵機と戦おうと意気盛んだったわけである。「どうして志願をしたの?」と尋ねると「その当時の時代がそういう空気だった。同級生はみんな陸軍幼年学校か少年戦車兵、そして海軍の予科練などに入隊した。迷うことなどなかった」と答えていた。父は正義感、責任感の強い性格だったので「ゼロ戦に乗って祖国や家族を守ろう」と思っていたようだ。
入隊の日の朝、「七つボタンは桜に錨」と謳われた予科練の軍服姿の父親を家族やお店の人たち(父の実家は金属関係の商売をしていた)全員が見送りに出てきてくれた。ただ一人、母親(僕の祖母)だけは家の自室にこもり泣き続けて出てこなかったということだ。父は男六人兄弟の末っ子で幼くして父親を亡くしてからは母親が溺愛していたようだ。
入隊すると横須賀海軍航空隊の下に配属され、しばらく適正検査などがあった。「甲種飛行予科練習生」は主に戦闘機のパイロットとして教育・訓練を受ける。そしてその人の能力により水上戦闘機(フロートの付いた戦闘機)、艦上戦闘機(航空母艦に配属)、陸上戦闘機(陸上基地の滑走路から飛び立つもの)、通信兵と振り分けられた。この中で飛行技術的に一番高度で難しかったのは潜水艦などに搭載された水上戦闘機だった。この中で父親は陸上戦闘機パイロットの訓練生に振り分けられた。

しばらくして父とその同期生は横須賀から奈良県天理市(現)にある伊勢志摩海軍航空隊付属、奈良分遣隊に移動となった。ここで翌年の3月まで戦闘機のパイロットとして基本的な訓練を受ける。訓練は非常に厳しく15歳から16歳当時、小柄で痩せっぽちだった父親は一日のカリキュラムが終わるとヘトヘトだったようである。訓練だけではなく隊の規律もとても厳しく分隊の中で一人でも規律を乱すような人間がいるとたいへんな懲罰を受けた。休日のある日、農家から貰ってきたタバコを辞書の紙で巻いて禁止となっているキザミタバコを吸っていた同期生が班の中から見つかった。するとその父の分隊は「全体責任」ということで一列に並ばされて上官や下士官、部隊全員200人ほどから1発ずつ殴られたのだった。殴る方も同情して手を抜けば直ちに同罪ということで殴られるので、全員が本気で殴ってくる。口の中は切れて出血し、顔中がパンパンに腫れて夜は痛くてとても眠ることができない。父は顎の一部が外れカクン、カクンという感覚が長年残ってしまったという。亡くなる2-3年前に「ようやく顎の外れた部分がハマったらしく治ったよ」と苦笑していた。こんなことは序の口で訓練でミスなどした時には「海軍バッター」と言われる精神注入棒で尻を思いっ切り引っ叩かれ突き飛ばされるのは日常だったようである。

父が入隊し、訓練を受けていた昭和19年当時、それまでは勢いよく勝利してきた日本軍がミッドウェー海戦にやぶれ、ソロモン諸島では海軍機で移動中の山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、米軍の大規模な軍事生産力により南方の制空権、制海権がジワジワと奪われ太平洋戦争も日本が劣勢へと向かいつつある時期と重なっていた。そしてこの年の6月にはサイパン島の守備軍が玉砕、米海兵隊の「飛び石作戦」と言われる畳み込むような上陸作戦によりテニアン、グアム、ペリリューと立て続けに敗退していった。さらに10月のフィリピン、レイテ沖海戦に敗北、この戦いで初めて父親たちの先輩にあたる海軍航空隊が「神風特別攻撃隊」を編成し初出撃している。いわゆる特攻隊による肉弾攻撃の始まりである。

昭和20年3月、父親たちは奈良で予科練の訓練を終えた。それはあの米軍のB29による無差別爆撃、東京大空襲の直後だった。そしてすぐに軍用列車に乗り茨城県の土浦航空隊に移動の命令が出た。移動内容や作戦は海軍の機密事項であり若い航空兵には知らされなかった。長い長い移動だった。軍用列車の車窓はとても小さく車内は暗い。
列車が東京に近づいた時、誰言うともなくその小さな車窓から外の景色を注視した。新宿を過ぎた頃、そこには少年たちが、かつて観たこともない信じられない光景が広がっていた。帝都と呼ばれた東京の街が遠方まで一面の焼野原、ときおりポツン、ポツンと焼け残ったビルが建っている。父の故郷である下町は特に被害が甚大だった地域である。そしてこの空襲で子供の頃から母と共に可愛がってくれた最愛の叔母と初恋の人を失った。みんな言葉もなく無言で灰色の廃墟を見つめていたという。「誰かこれで日本は負けたんだ、というようなことは言わなかったの?」と尋ねると「そんなことは瞬間思ったとしても誰も言わなかったし、言える状況にはなかった」と答えが返ってきた。

若い命をたくさん乗せた軍用列車はさらに、これからの戦いの場である土浦に向かって進んで行った。これから起こる地獄のような惨状を予測できる者は上官も含め誰一人としていなかった。


ブログは第2回に続きます。

画像はトップが入隊の朝、自宅の庭で撮影された軍服姿の父。下が奈良分遣隊での訓練の様子3カットと兵舎前での部隊の集合写真(すべて父のアルバムから)。


      
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299. 行徳鳥獣保護区の『クモ観察会』に参加する。 ~夏編~

2017-07-31 18:19:31 | 野鳥・自然
今月16日。千葉県市川市内にある行徳鳥獣保護区で開催された『クモ観察会』に参加してきた。5/14に続いて二回目の参加となる。主催は「東京蜘蛛談話会」というクモの研究会。関東周辺のクモのスペシャリストが多く入会している。5月が初夏編ならば今回が夏編というところ。今後10月の秋編、来年2月の冬編と、観察会は続いていく。

家から徒歩と電車を乗り継ぎ、行徳野鳥観察者前の集合場所に到着したのは午前9時54分だった。10時集合なのでギリギリセーフ。入り口にはすでに参加者が集まっていて、よく見ると談話会の旗がパタパタと棚引いていた。まるで「新撰組」の旗のようである。随分前に千葉県内の観察会に参加した時に公園の入り口でやはりこの旗が出ていたのだが、周囲にいる一般の人の目が気になって旗の下に行けなかったことを思い出した。

この日は梅雨開け2日前だったが、かなりの猛暑で市川市でも「熱中症注意報」が発令されており、参加者リストに記名する時に世話人のK女史から「この陽気によくいらっしゃいましたねぇ?」と言われてしまった。保護区内への移動前に「今日は暑さがたいへん厳しく観察舎の職員の人から野外活動は早めに切り上げるように言われていますので注意してください」と説明があった。今日の参加者は前回より少なめの15名。顔が出そろったところで保護区内へ移動となった。
ゲートを潜り、ササや低木の茂るブッシュ内に入ると想像していたよりも暑くない。木々や草など植物たちのおかげなのだろう。さらに狭い仕事道を一列縦隊で奥へ奥へと進んで行く。
ポイントである観察小屋に着くと前と同じく保護区内での行動説明の後、おのおの散らばって行く。丁寧に観察する人、採集を始める人、ブラブラと歩き回る人、それぞれである。

僕はと言うと例によって「動植物の採集はしない、とるのは写真だけ 」と固く誓っているのでカメラをかついで、クモの良い生態が観られないか草原を探し始めた。前回、コガネグモが多かった辺りを探して回るとコガネグモは少なくなったのだが、ナガコガネグモの姿がよく目につく。その中でちょうど雄と雌が巣の上で交接している場面に遭遇した。平野部では特別珍しい種類ではないが、なかなか交接の場面というのは出くわさない。それもよく目を凝らして観ると雌の脱皮殻が網に付着している。そうだ、クモの雄たちのある種類は雌の脱皮行動の瞬間を狙って交接するのである。なぜかと言えばまともに交接に行くと動くものはみんな食事の対象となり、たとえ同じ種の雄だろうと体の大きな雌に捕えられ食べられてしまうからである。昆虫のカマキリと同じでこれが産卵する卵の蛋白源となるのである。「恐ろしや…命がけの愛」。しかしこれは生態写真には絶好のチャンスである。夢中でシャッターを切った。
しばらくして落ち着いて周囲を見回すとけっこうナガコガネグモの雌雄が見つかるではないか。一緒に巣にいるもの、どちらか片方のものなどいろいろだった。良く観ると雄の中に8本ある脚のうち3-4本を失っている個体がけっこういた。これはおそらく交接の時に雌に食べられてしまったのだろう。「恐ろしや…命がけの愛」。
地べたに座り込んで写真撮影をしていると参加メンバーの数人が後でギャラリーになっていた。ナガコガネグモの交接の説明をする。ここでボチボチ昼食の時間となる。観察小屋ポイントまで戻りお昼の時間。水分を補給したり弁当を食べながらの「クモ合わせ」。ここまでで観察したクモの種類を各自が発表し会として記録を録っていく。

12時50分から観察再開。僕はまた草原のクモを集中して写真撮影して行く。東京湾岸の平野部ということで環境が単調なせいか種類は少なく見える。だが、平地では開発や農薬などの影響で生息数が減少している大型のコガネグモ科の個体数が多いのには目を見張った。おそらく保護区内が普段は隔離された場所であって許可がなければ人が入れないということと関係しているのだろう。

午後は広い場所で迷ってしまうということもあり参加者は固まって行動した。草原を抜けて進み、正面に水鳥のカワウのコロニーが見える干潟に出て、徘徊性のコモリグモの仲間などを観察。さらに干潟沿いに進んでクロベンカイガニやヤマトオサガニ、そして東京湾岸が北限というトビハゼなどの干潟の生物を観察してから保護区を出た。
ここで二度目の「クモ合わせ」をする。午前との合計で約60種ほどのクモ類が確認された。ここまできて参加者の中には猛暑のために言葉少なになっている人や元気がなくなっている人もいて14時34分に少し早いが解散となった。猛暑の中、観察会を開催していただいた談話会の担当の方々、クモに関する興味深い情報を提供してくださった参加者のみなさんに感謝いたします。10月の観察会がまた楽しみです。

画像はトップが巣の上で交接するナガコガネグモの雌雄、よく見ると雌の脱皮殻が見える。下が向かって左から「東京蜘蛛談話会」の旗、観察開始前の説明会、コガネグモの雌、クロベンカイガニ、トビハゼ、カワウの群れ、保護区内風景。


                    





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298. 『人生は風船の如し』

2017-07-25 18:58:35 | 
今月の28日は昨年、88才で他界した父の一周忌を迎える。法要は23日の快晴の日、前倒しであるが菩提寺となっていただいている寺院で父の遺言どおり家族だけで慎ましく行った。このブログに父の人生について書こう書こうと思いながらも、なかなか書くことができずに一年が経ってしまった。

ブログのタイトルに使用した『人生は風船の如し』という言葉は生前の父が20代後半から30才ぐらいまでの母と結婚する前にまとめた写真アルバムに書き込まれているものである。その写真は東京の本所生まれで下町育ちの父が10才ぐらいの時のものだろうか、写真と絵画が得意だった兄弟(僕の伯父)が撮影したもので、このアルバムの中で僕が一番好きなカットである。時代は日本が戦争への道を突き進んでいたころである。下町の陽光の中、少年が駄菓子屋で買ってきた紙風船一つで無邪気に遊んでいる。笑顔がとてもいい。この後、人生観を大きく変えてしまった出来事が起こることを未だ知らない。

昭和3年生れの父は軍国少年であった。中学生の頃は太平洋戦争の真っただ中である。中学校を卒業すると同時に「海軍飛行予科練習生」略して予科練(よかれん)に少年飛行兵となるために志願入隊する。「ゼロ戦に乗って敵機から日本の国や家族を守るんだ」と血気さかんだったようだ。だが戦局は著しく悪い時期、いわゆる特攻隊の生き残り組となった。このことが父の人生の中で人の死生観というものを決定づけてしまったように思う。

男六人兄弟の末っ子だった父は戦中戦後のドサクサで3人の兄を失った。物資の少ない中でもあり、そのうちの二人は医療ミスが原因だったようである。そしてB29の大群による東京大空襲、大切な人たちを失った。海軍入隊後は内地にいた所属する航空隊が大きな空襲に遭い大勢の若い戦友たちを失った。この時代の多くの日本人がそうであったように「死」というものが隣り合わせにいた青春時代であったと思う。

僕が二十歳ぐらいまで家で毎晩酒を飲むと家族の前で「自分は本来、ここに生きているべき人間ではない」というのが口癖で、自ら「死にそびれ」を自称していた。このことをあまり母が嫌がるので、その後は語らなくなった。

その父が、亡くなる一年ぐらい前から同居していた僕ら夫婦や孫娘たちの前で戦争中の軍隊生活や実際に起こった事を再び詳しく話し始めたのである。体調もかなり悪くなっていく中、あまり詳しく話すので「これは」と思い僕はメモをとったりボイス・レコーダーに録音したりしたのだった。最後にこれからの人間に伝えておかなければならないと思ったのだろう。この戦争時代の事と長島の家のルーツの二つの話題に絞り語り続けた。この内容についてはとても長くなるのでこの後のブログに投稿しようと思っている。

そして亡くなる半年ぐらい前、自室にいた父が、わざわざ僕を手招きし語ったことがあった。「最近、1人で天井をじーっと眺めていると悟りのようなことを考えるんだよ…」と父。「悟りなんて修行を積んだ僧侶でもなかなか得られない境地だよ」と返すと「人間は皆、一本の紐のようなものだと思うんだ。長い紐もあれば短い紐もある。途中でねじれた紐もあれば曲がった紐もある。人の目線からは違うように見えるけど、真上から俯瞰して見れば同じように小さな1つの点でしかない。今までの人生で若くして死んでいった友人もいれば、有名大学に入ってエリートコースを歩んだ同級生もいるけれど、人生終わってしまえばすべて同じなんだよ…なにも変わることなどない」と、こう言うのである。ふだん父は決して哲学的なことや宗教的なことを語るような人間ではない。今、思い起こして見ると、この時80才以上まで生きた一つの境地を語ったのだと思う。父の「悟り」である。

『人生は風船の如し』若き日に父がアルバムに記したこの言葉の意味がようやく少し理解できた気がしている。そして80代にして辿り着いた地点の境地が『人生は一本の紐の如し』なのかも知れない。

それから父は友人や家族にも有名な「晴れ男」だった。友人にはよく「長島が何かしようとする時、必ず晴れた」と言われていた。父が他界したその日も関東地方がちょうど梅雨明けとなった。病院で死亡後の手続きを終え連れ合いと二人、外に出るとコバルトブルーの空が広がっていた。そして雲間にキラっと反射したかと思うと、一機のゼロ戦が飛んで行くのが僕には見えた。「あ、あれゼロ戦だろ!?」と思わず叫ぶと、傍にいた連れ合いが「そうだったのかも知れないね」と言った。「それとも幻影かなぁ…」いや、きっと父親は真っ直ぐに向こう側で待っている戦友の元に飛び立ったに違いない。そして到着すると開口一番「こんなに長生きしてすまない」と照れ隠しの笑顔で言ったのだろう。

画像はトップが父の少年時代の写真。下が同じく生家近くで家族と子供時代に撮影した写真。








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297. 板目木版画 『熊鷹・クマタカ』 を彫る日々。

2017-07-15 18:36:35 | 版画
先月末より猛暑の続く中、板目木版画による作品『熊鷹・クマタカ』の版を毎日彫っている。モチーフとしているのはタイトルそのままの猛禽類のクマタカのプロフィールである。この板目木版画のシリーズ作品は3年程前から始めたのだが「野生の肖像」という連作名である。野鳥や野生生物を実物大よりも大きく彫ることで生命というものの「尊さ」「重さ」のようなものを表現できないだろうかと、試行錯誤しながら制作している。

クマタカは英語名を"Mountain Hawk Eagle"といい、中国南部、ベトナム、我が国の九州以北の山地等に留鳥として分布し、低山から亜高山帯の林に周年生息するタカ科の大型猛禽類である。翼開長は140~165㎝あり、イヌワシなどに次いで大きいタカである。 "ピッピィーピッピィー" と姿のわりに可愛らしい声を出す。

僕はこれまでの探鳥体験で何度かクマタカに遭遇しているのだが、大抵は山の稜線の上など遠方を飛んでいるのを発見するケースが多く、なかなか近距離でマジマジと観察したことがなかった。ところが、このブログにも以前投稿したのだが今年の2月、群馬県の山間部にある森林公園を越冬の小鳥たちの取材のため訪れた時のことである。目の前の給餌場に降りるアトリの大群やミヤマホオジロの小群を観察していると真上を " ピッピィー、ピッピィー " と冬の森林によくとおる澄んだ声が降ってきた。慌てて双眼鏡を上空に向けるとやや大きさの異なるタカが2羽、ゆったりと旋回飛行をしているではないか。「クマタカだっ!」「しかも雌雄ペアーのディスプレイ・フライトだ!」とその場で周囲にいる野鳥観察者に叫んで知らせた。翼の下面の模様が手に取るように観える。感動の瞬間的出会いだった。この時、僕はこのクマタカのペアーに「我々を版画に彫りなさい」とお告げを受けたと勝手に思い込んだのだった。いや、きっとそうに違いない。

制作のモチベーションというものはそうした思い込みということもあるのではないだろうか。と、言うわけでスケッチから始めて下絵を制作し用意した版木にトレースしてからようやく版を彫り始めたのだった。いつものことだが、彫り初めは気持ちを高揚させていくためにBGMをかける。クマタカの持つ雄大な姿を表すにはどんな曲がいいだろうか。迷った結果、ショスタコービッチの交響曲第15番を選んだ。何回彫っても最初の一刀は緊張する。小さな突破口ができるとそれからは彫刻刀の刃先に集中してドンドン彫って行く。試し摺りをとるまでは眼を瞑って絵を描いているようなものなので仕上がりがなかなか見えてこない。1回目の試し摺りがとれたあたりからは絵の全体像がボンヤリと見えてきて彫りのスピードにも加速度がついてきた。ここから先は納得いくまで彫っては試し摺り、彫っては試し摺りの繰り返しとなっていく。

関東地方はまだ梅雨開け予報が発表になっていないのに真夏のような暑さが続いている。板目木版画『クマタカ』の彫版も佳境に入ってきた。しばらくは冷房をきかせた工房で彫刻刀の刃先に全神経を集中しての彫りの日々が続いていく。
完成した作品はグループ展、個展などで発表します。画像はトップが版を彫る手。下が向かって左から版を彫るようす4カット、彫りに使用している彫刻刀。


           







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296. 彫刻刀を砥ぐ。

2017-07-03 17:47:41 | 版画
今月に入って、ようやく梅雨らしい気候となってきた。湿気も多くて晴れれば真夏並みの酷暑となる。板目木版画用の使い込んだ彫刻刀の砥ぎがたまっていたので、この数日間午前中は彫刻刀の砥ぎを行った。

板目木版画以外でも木口木版画や銅版画の直刻法など直接版を彫って製版していく版画技法は使い込んだ刃物の切れ味が落ちてくるとイライラとして仕事にならない。なので常にそれぞれの専用の彫刻刀や工具を砥ぎ、手入れを怠らないことが版画家の必要十分条件となっている。版画家の職人としての部分でもある。

現在では砥ぎに使う砥石はいろんな素材のものがある。ダイヤモンドの粉を固めた板の上で直接砥いでいく「ダイヤモンド砥石」などという製品もある。この場合、水は使わないで乾いた状態で刃物を砥ぐので作業も楽になってきている。
僕は20代の頃から水砥といわれる水を使って砥ぐ我が国の伝統的な砥石をずっと使ってきた。刃物の状態により荒砥、中砥、仕上げ砥などという砥石を使い分けるが、それぞれ石の目の粒子が異なっているものだ。刃先がかけてしまった場合など以外は普通は中砥と仕上げ砥で砥いでいく。それから木版画の彫刻刀は「版木刀(切り出し)」「丸刀(駒すき)」「平刀(間すき)」「三角刀」(カッコ内の名前は浮世絵版画の彫り師が使う呼び方)など刃先が異なる微妙な形をしていて砥ぎ方も形に沿って変えて行かなければならない。

朝から机に向かい砥石に水をくれながら1本1本丁寧に時間をかけて砥いでいくのだが、この時間が僕はけっこう心地がよい。例えて言えば日本画の画家が顔料を乳鉢で摩り下ろして膠で練っていくような時間や書道家が硯に向かい墨を磨る時間と似ているのかも知れない。つまり穂先、刃先に精神を集中していく時である。刀を使って版木を彫って行く作業は絵筆で絵を描いたり、筆で書を書くことと等しいと思っているのだ。

ただ、最近少し、しんどく感じていることが一つある。40代の半ば頃から加齢により老眼が進んできたことで砥ぎ終わった刃先の点検がメガネだけでは心もとなくなってきたことである。微妙な砥ぎ具合を確認するために仕方がないので銅版画の彫りに使用している高倍率のアーム式ルーペを傍らに置いていちいち確認しながら仕上げの砥ぎを行っている。まぁ、これも慣れである。

砥ぎ終った彫刻刀が机の上に並んでくると何とも言えない満足感、安堵感に満たされる。そしてまた「これから版木の彫りを一仕事しよう」というやる気がジワジワと湧いてくるのである。

画像はトップが砥ぎの作業のようす。下が向かって左から同じく砥ぎの作業のようす3カット、水砥と砥ぎ終ったいろいろな彫刻刀3カット。


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295.草原の希少な小鳥 コジュリン 

2017-06-23 18:03:01 | 野鳥・自然
今月は偶然だが、自然関係の投稿が続いている。まぁ、真夏に向かって生物が活気づく季節であるということだろう。

今日ご紹介するのは平野部の草原で繁殖する小鳥。僕が野鳥の観察フィールドとしている千葉県北東部の印旛沼周辺のアシ原や草原にホオジロ科の「コジュリン Japanese Reed Bunting」という野鳥が生息している。

スズメよりも小さく成鳥の雄は頭部がスッポリと黒い。ちょうどプロレスの覆面レスラーが覆面をかぶったような風にも見える。これに対して成鳥の雌は頭部が黒褐色で淡い不明瞭な頭央線のあり全体に地味な体色である。囀りは "ピッチリリ、ツーピチョチッ" という少しホオジロのそれと音の響きが似たカワイイ声で鳴く。地鳴きは"ツッ、ツッ" 分布は中国北東部・ウスリー・南千島で繁殖する。北方のものは冬季には南方に渡り、朝鮮半島南部・中国南東部で越冬する。日本では中部以北の本州および九州で繁殖するが、繁殖地はとても限られていて局地的である。そして冬季は本州中部以南の沿岸域で越冬する。関東周辺では利根川流域や印旛沼周辺の平野部のアシ原や草原で繁殖している。

8年程前には絶好の観察ポイントである休耕田にできた草原があり毎年のように観察に通っていた。コジュリンと共に同じく局地的分布であるウグイス科のオオセッカやコヨシキリなどの希少種も生息していて3種セットで観察することができてけっこう楽しんでいた。
その後、この場所は沼の取水場の新設工事などが入り、まったく観られなくなってしまった。長くこの場所を観察していた鳥仲間によると川沿いの他の場所へ移動したようであると教えてくれた。野性鳥類は環境の微妙な変化に敏感なのである。
いずれにしてもコジュリンが生息しやすい環境というのは人間から見れば平野部の開発がしやすい場所にあり、常に生活の場を追われる緊張した状態を強いられているのだ。

このコジュリン、「環境省発行の2014年版『Red Data Book・日本の絶滅のおそれのある野生生物』の中で「絶滅危惧Ⅱ類・絶滅の危険が増大している種」として指定、掲載されている。

初夏のそよ風の中、真っ黒い帽子をかぶったコジュリンが広い草原で囀る長閑な姿をいつまでも観られるよう切に願うこの頃である。画像はトップが餌をくわえたコジュリンの成鳥雄。下が同じく成鳥雄、囀る成鳥雄、成鳥雌2カット、囀る成鳥雄。

          
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