平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




平忠度の墓がある清心寺から高崎線の踏切を渡り、
国道17号線(旧中山道)を西へはいると、右手方向に岡部神社があります。
清心寺を後にして岡部神社へ向かいます。

岡部神社

岡部六弥太忠澄の祈願所といわれ、寿永年間(1182~1183)、
忠澄は一の谷の戦功を感謝し、記念に杉を植えたと伝えられています。
再び国道に出て西へ進むと、普済寺の入口があります。

「曹洞宗普済寺入口」の案内板が見えます。





普済寺は建久2年(1191)に六弥太が栄朝禅師を招いて創建した寺で、
その時、六弥太が植栽したカヤの木が門の左右にあります。

忠澄は十一面観音を護持仏として尊崇し、兜の裡(うち)に
その御影をはって戦陣に臨んだという。
その十一面観音像が本尊です。
忠澄の妻は畠山重忠の妹といわれ、御影堂には忠澄夫妻の木像が安置されています。
本堂正面に「丸にはね十字」の岡部氏の家紋が付してあります。

 本堂内部



境内には平忠度の歌碑がたっています。

岡部六弥太忠澄(?~1197年)は『武蔵七党系図』によれば、
武蔵七党の一つ猪俣党の猪俣忠兼の子、忠綱が武蔵国榛沢(はんざわ)郡岡部
(現、埼玉県深谷市岡部)の地を領して岡部六大夫と称したのに始まるとしています。
忠綱のあとその嫡流は、六郎行忠が継ぎその嫡子が六弥太忠澄です。

忠澄は源義朝の家人として仕え、『保元物語』に「武蔵国には長井斎藤別当実盛、
岡部六弥太(猪俣党)、猪俣小平六範綱(猪俣党)、平山季重(西党)、
金子十郎(村山党)云々」とあるように、保元の乱で義朝に従う
武蔵武士20騎の1人としてその名が見えます。

その三年後の平治の乱にも参加し「長井斎藤別当実盛、岡部六弥太、猪俣小平六、
熊谷次郎直実、平山季重等々」とあり、義朝に従軍して勇戦し武蔵武士の名声を高めました。
ことに一の谷合戦では、平家西ノ手の将軍薩摩守忠度を討取り、
奥州征伐にも出陣して軍功をたて、子孫は豊後、長門の豪族となっています。

普済寺の北にある岡部氏の墓地(県史跡)には、忠澄のほか
夫人の玉ノ井、父行忠(ゆきただ)の五輪塔があります。



最も大きい五輪塔が忠澄、その右が父行忠

左が夫人玉ノ井と忠澄の墓  五輪塔はかなり風化が進んでいます。

「岡部六弥太忠澄の墓  (現地説明板)
岡部六弥太忠澄の墓岡部六弥太忠澄は、武蔵七党の一つ猪俣党の出身で、
猪俣野兵衛時範(いのまたやへえときのり)の孫、六太夫忠綱(ろくたゆうただつな)が
榛沢郡岡部に居住し岡部氏を称した。忠澄は忠綱の孫にあたる。
源義朝の家人として保元・平治の乱に活躍した。六弥太の武勇については、
保元・平治物語 源平盛衰記に書かれており、特に待賢門(たいけんもん)の戦いでは、
熊谷次郎直実、斉藤別当実盛、猪俣小平六など源氏十七騎の一人として勇名をはせた。
その後、源氏の没落により岡部にいたが、治承四(一一八〇)年、頼朝の挙兵とともに出陣し、
はじめ木曾義仲を追討し、その後平氏を討った。特に一の谷の合戦では、平氏の名将
平忠度(ただのり)を討ち一躍名を挙げた。恩賞として、荘園五ヵ所及び
伊勢国の地頭職が与えられた。その後、奥州の藤原氏征討軍や頼朝上洛の譜代の家人
三一三人の中にも六弥太の名が見える。忠澄は武勇に優れているだけでなく、
情深く、自分の領地のうち一番景色のよい清心寺(現深谷市萱場)に平忠度の墓を建てた。
現在地には鎌倉時代の典型的な五輪塔が六基並んで建っているが(県指定史跡)、
北側の三基のうち中央の最も大きいものが岡部六弥太忠澄の墓(高さ一・八メートル)、
向かって右側が父行忠(ゆきただ)の墓、左側が夫人玉の井の墓といわれている。
忠澄の墓石の粉を煎じて飲むと、子のない女子には子ができ、乳の出ない女子は
乳が出るようになるという迷信が伝わっており、このため現在、
六弥太の五輪塔は削られ変形している。平成三年三月 埼玉県 岡部町」

普済寺の境内から北にかけて忠澄の館があったと伝えられ、
それらしい土塁が残っています。
「昭和47年に農業改善事業によって、岡部館の南側が堀とともに削り取られ、
翌年東と西の堀が埋められ農道となり、今は北側のみが水田として残っている。」
(『埼玉大百科事典』)


普済寺北側の土塁の上に現在、稲荷神社が祀られています。

JR岡部駅

武蔵国は西方に秩父山系があり、東南部には広々とした原野が開け、西から東へは
幾重にも丘陵の稜線が伸び、その間を縫って荒川、利根川など多くの河川が流れ、
あちこちに狭くて封鎖的な地域を作り出していました。平安時代後期、
この荒野に雑草のように逞しい武士団が次々と誕生しました。武蔵七党です。

武蔵七党といっても、その数は必ずしも七つではなく、いくつかを指す呼び名です。
『武蔵七党系図』によると、野与 (のよ) 党、村山党 、横山党、猪俣党、児玉党、
丹党、西党としていますが、その他に野与党の代りに私市党を入れる説や
村山党を除いて綴(しころ)党を加える数え方もあります。

七党は同族と称していますが、血縁以外のものもあったようです。
彼らはいずれも僅かな郎党を率いるだけの小規模な武士団にすぎませんでした。
『武蔵七党系図』によると、児玉経行の娘は源義平の乳母となり、
「乳母御所」と称したと記され、児玉党は義朝と密接な関係が生まれていきました。

前九年合戦や後三年合戦を通じて、多くの武蔵武士は源頼義・義家に従ってきました。
その後、上野国(群馬県)多胡郡に居住していた源為義の次男義賢(よしかた)が
大蔵(現、埼玉県比企郡嵐山町)に武蔵大蔵館を構え、武蔵国から南へ勢力を
広げようとしていました。
それに対して、義朝の地盤を受継いだ
義平(義朝の長子)は15歳の時、対抗勢力である叔父の義賢(木曽義仲の父)を
大蔵館で殺害し、悪源太義平とよばれました。(大蔵合戦)

武蔵武士の多くが義朝の指揮下に入り、保元・平治の乱でその主戦力となって
活躍しましたが、平治の乱で義朝が清盛に敗れると郷里に帰り、
一応平氏に従い源家再興を待ちました。
この小武士団は源平動乱の時代を経て、それぞれ大きく飛躍しました。
平忠度の墓(清心寺)   
大蔵合戦(大蔵館跡・義賢の墓・義仲生誕地)   
『アクセス』
「普済寺」埼玉県深谷市普済寺973
JR高崎線 岡部駅下車約25分
「岡部神社」埼玉県深谷市岡部705-1 
 JR高崎線「岡部」駅下車徒歩約30分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年 
「埼玉大百科事典」埼玉新聞社、昭和56年 「国史大辞典」吉川弘文館、昭和57年
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店、昭和48年
安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年
 福島正義「武蔵武士 そのロマンと栄光」さいたま出版会、平成15年
 成迫政則「郷土の英雄 武蔵武士 事績と地頭の赴任地を訪ねて」まつやま書房、2007年
「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年

 

 



コメント ( 0 ) | Trackback (  )