走るナースプラクティショナー ~診断も治療もできる資格を持ち診療所の他に診療移動車に乗って街を走り診療しています~

カナダ、BC州でメンタルヘルス、薬物依存、ホームレス、貧困層の方々を診療しています。登場人物は全て仮名です。

悲しい歴史 2

2017-07-08 | 仕事
前回の続き

Japanese interment Campはカナダに住んでいる外国人を迫害したのではなく、移民によりカナダの市民権を取得したカナダ人やその子供たちであるカナダ人つまり自国の国民を人種によって迫害したのです。



バンクーバー市の東にあるヘイスティングパーク(遊園地と競馬場と運動公園がある) に日系人は集められました。そこはクリーニングステーションと呼ばれ、警告から24時間以内に決められたサイズの荷物1つで来ることしか許されませんでした。誰1人そこで何が起こるのか知らされず不安の日々を送りました。一箇所に大勢が集まれば結核が蔓延し結核隔離病棟も作られました。



運動場には没収された車が並びました。漁業の中心地であった北デルタには没収された船が集められました。



クリーニングステーションで、成人男性はキャンプ地へ行き収容所になる家の建設や他の肉体労働へ送られました。反抗するものは戦犯としてオンタリオ州の刑務所へ送られました。そして老人、女性と子供たちは汽車に乗せられ各地へ送られたのです。



多くの日系人が送られたクートニー地域はロッキー山脈の西。人はまばらで夏は暑く冬は雪深い地方です。初年は開拓されただけで家もまだ建てられていない為にテントで冬越えをしたキャンプ地もあった。家と言っても掘っ建て小屋に近く電気も水道も、トイレも
ない、隙間風が吹く小さな小さな家でした。



こちらは共同浴場。共同トイレや、火災に備えて防火施設も、集会場も自分たちで作ったそうです。家も網戸や納戸をつけたり、二段ベットを作ったり快適に過ごすための改良を怠らなかった。戦争が終結し誰もが自分の家に帰れると思った。しかし政府は日系人は日本へ帰るか、カナダに住みたければロッキーより東で住むことを強制した。

日系人は財産の返還も要求した。しかし没収された財産は政府により売却されその収益はJapanese interment Camp に使ったので何も残っていないと政府は日系人に説明したのだ。

1800年代後半から始まった日本人のカナダ渡航そして移民。多くの人が土地を切り開き農業、酪農や漁業で成功した。その財産を日系人だと言う理由だけで勝手に処分されたのだ。戦争終了後も住む場所が限定されたり、現代社会では考えられないような人種差別を受けました。

もちろん政府は慰謝料を支払いました。しかしそれは没収された財産には到底見合わないし、強制収容で受けた傷にも見合わない少額だったと聞きます。

資料館はニューデンバーと言う小さな街にあります(前人口350人の町に1505人の日本人が連れてこられた)。実際に使われていた家5棟で作られた資料館。当時の写真や文書や日用品なども展示されています。近くに来る機会があれば是非立ち寄ってください。

追伸
結核の蔓延(一箇所に多くの人間を集めれば、そりゃあアウトブレイクが起こりますよ) により作られた日系人の結核治療施設はニューデンバーの一角に作られました。その写真に2人の医師と1人の看護師が写っていました。医師は2人とも日系人で看護師は白人。医師でさえ日系人だからと言う理由で強制収容させられ、しかし収容先で医師として働いていた。変な話ですよね。
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