Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

老人の使命

2017-12-09 18:03:14 | 老人の使命

<はじめに>

いわゆる老人といわれる年齢になると、自分の過去を回想して楽しかったことや悔やまれることなどを思い浮かべることが多くなります。ふとした時に、自分の人生でそれぞれの時期にあったことを思い出します。学校に通って勉強し仲間と遊んだことがありました。そして学校を出ると就職して縁があって結婚し、子供を育てる時期がありました。家庭のことに集中した時間が過ぎて、子供も独立し時々孫の世話をするくらいで、最近は急にまわりが静かになってきています。私たちは60歳を過ぎて仕事が定年になっても、死ぬまでまだ数十年の期間が残されているといわれます。もし人生が90年とか100年が普通の時代になれば、子育ての期間を前半とすれば、後半に静かに自分を見つめる時間があるわけです。つまり他の生物のように、種を維持する生殖などに要するのは前半だけで、後半にも同じくらいの期間が与えられています。これは生物が世代交代を繰り返して進化するという側面では無駄に思える時間ですが、そこに何か重要な意味があるかもしれません。

子育てや仕事に対応できる体力や活力があった時期を過ぎ、初老あるいは高齢者と呼ばれる年代になって、体力も落ち頭も鈍くなりつつあるのを実感してから何ができるのでしょうか。確かに個人の寿命は延びていて、そこに生活環境の改善とか、医療技術の改善があって、私たちはその恩恵を受けて寿命を延ばしています。しかし、それらの恩恵によって、ただ長く生きながらえていることに意味があるのでしょうか。

<老後ということ>

生活環境が厳しかった昔の時代では、個人が長く生きるのは困難であり、年老いるまで生きた人々は集団の中で少数だったので、それらの人々は長老などと呼ばれて尊敬され、その経験と知恵が集団に役立っていました。しかし今日65歳以上が人口の4分の1にもなると、その個性は多様になって高齢者もいろいろな人がいます。老人が少数であったときと異なり、まわりの4人に1人が老人であれば、おのずと社会における老人の意味や役割も変化します。以前のように高齢者であれば無条件に敬うというのではなく、老人でも個性に違いがあって、弱った人や元気な人もいるし、思いやりや良心のある人もいれば意地悪な人もいて、老人だから尊敬されるわけでもありません。昨今では介護する側の苦労が言われ、私は実際にその苦労を見てきているので、老人が単に生きるために家族や他人に迷惑がかかるのは疑問に思います。私は基本的に他人に頼りたくないという気持ちがあるので、身体が動ける間はなるべく自立して暮らし、最後は老人施設や養護という枠組みではなく、摂食を制限して老衰への方法を模索します。それまでは、なるべく若い人と協調してボランティアの感覚で仕事をして社会とともに暮らせるのが理想に思えます。

<社会との関係>

単に年を取ったというだけで仕事から遠ざけられるのではなく、人間として優れた能力と知恵があり活力を維持する老人であれば、それを社会が識別できて働く場が提供されるべきです。それが社会の仕組みを上昇させるために有効なはずだし、年齢だけで判断するのは社会の複雑化の傾向に反しています。そういった対応があれば老後に励みがあって充実するし、若い世代にとっても積極的に技能や技術を高める意味が増すでしょう。現在では定年で仕事を終えた老人の再就職は、たとえ技能があっても困難を極めます。さらに複雑化していく社会では、困難を乗り越えてきた老人に対してば、その個人の貴重な経験は活用されるべきです。そのうち前向き行動する老人が現れて、未来へと向かう意識の上昇に貢献するのではないでしょうか。しかし一般的には、老後に家庭や施設で閉じられた生活を強いられる場面が多いように思えます。しかし他人と触れ合いがないと、わがままな部分が強調されて、「老害」を撒き散らす自己本位な老人になってしまうかもしれません。老後も老人だけの環境に追いやるというのではなく、社会との接触において暮らせる環境が望ましいように思えます。

そうなると、私たち老人は過去の業績や栄光をいつまでも主張して自己満足に浸るのではなく、老人となってから社会への貢献をどうするか考えるべきではないでしょうか。いくら過去に立派な業績を残したからといって、老後は他人に迷惑をかけて困らせてばかりいるのであれば、その人は老化によって道徳感が決如して社会との協調性がなくなったということです。なまじ業績があると、老後に自分を過剰に評価することになって、まわりとの協調性を欠き利己主義になりがちです。栄光の時代があっても、それはあくまで過去のものなので、いずれ未来の発展へと乗り越えられるとして自省すべきです。また、若いときから老後にのんびり過ごそうと働いてお金を貯めても、認知症となって何もわからなくなり他人に迷惑をかけるのでは元も子もありません。技能を身につけ集中するとか頭を使って若い人と協調するとか適度な刺激を自分で作り出すことが必要に思えます。つまり、老人になっても自分を鍛え続ける必要があって、それなりに厳しい時代になったということです。

<多様になる老人の個性>

自分の老後を充実させながら、なお世間に役立てることができれば理想でしょう。老人の利点といえば、長く生きている間に蓄積した経験や習得した技術を後世に生かすことです。人類の歴史を見ても人々は処世や技術を後世に伝えながら、その知識や経験を蓄積しています。現代では、その上に研究開発によって改良を重ねて、それが人間全体の知性を向上させています。その知性の向上は生活環境も変化させていて、今では単に結婚して家庭で子育てをするだけでなく、老後まで独身を通して趣味や研究などに一生をささげる人も多くいます。その結果、先進国では少子化の傾向が顕著になっています。人々は一律な生活習慣に従って画一的な個性に平均化されるのではなく、自分の好きなことに夢中になり生活を楽しむことを目的にする人が増えて多様化しています。人間の老後というのは、子供を残す種の存続だけでなく、知性や個性を高める努力において多様に適応放散するのではないでしょうか。人間社会は全体として知性の充実する方向に、意識が上昇する流れがあるように思えます。

<お金だけが頼りではない>

しかし定年後に収入の額が寂しくなるのは事実であって、老後に必要と予測して蓄積してきた金銭があっても、いざ老後になってからも先々の心配があれば気ままな暮らしはできません。ただ毎日の謙虚な生活だけに消費を続けて、経済の循環だけに貢献をすることになります。そこで、日々の生活でお金だけが頼りと考える錯覚があって、老後の生活に窮屈にする誤解を生じているかもしれません。生活のために食事や住まいの維持などでお金がかかるのは確かなことです。しかし、老後の生活でそんなにお金が必要なのでしょうか。平均寿命が延びていて老後は時間を持て余すから、その時に自由に旅行するなど遊ぶ金がほしいとすれば、明らかに過剰な欲望です。老後に予定する遊興の経費は準備しておくはずのものなので、なくても済むお金を心配するのはおかしなことです。しかし、老後に頼れる人がいないので老人施設の費用が心配かもしれません。また、老後に病気になれば、入院など多額な費用がかかることが心配かもしれません。しかし、私としては、大きな怪我や病気になるとか認知症など自立できない状態になれば、家族に迷惑をかけるばかりか、自分の意志で自由に行動できないことから、早々に老衰となって、この世とお別れしたいと考えます。そこで多額な医療や施設の費用を払うことは無駄に思えます。

もし不幸にも、老人になって生活に必要なお金さえも不足するのであれば、老人になるまでの経過において、老後への対応に欠陥があったということです。それはあくまで自己責任として結果であって、誰かを責めてもどうしようもありません。それでも何とか前向きに生きようとする心があって、現状にあらがう努力をしようとする意欲があれば、他人に迷惑をかけずに最低以上の生活は確保できるはずです。その理由は、社会における多くの正常な人間には良心と思いやりがあって、正直に何とかしたいと努力する人に対して評価して援助するからです。これからは、年寄りだからというだけで社会から保護されるとか優遇されるという考えは成り立たなくなりつつあるので、そのために自分の個性を充実させて死ぬときに思い残すことがないように備えるしかありません。逆に、長く生きてこられたのは、運よく事故にも大きな病気にもならず、家族などの援助などがあってできたことなので、長く生きてこられたことには感謝すべきと思います。

<自分の老後について>

今の時代、老人が多くなった世の中では、単に高齢の故に優遇される訳はないので、年齢に関係なく自分の責任において充実できる生活にしたいと思います。老人に厳しい環境でも、困難を越えてきた体験や知恵があれば、社会での意識の上昇に少しでも貢献できるはずです。そこで、経験によって得た知恵で社会に貢献するといっても、どうしてそれを実現できるのでしょうか。体力も活力もまだ充分な老人も確かにいるとは思いますが、一般的には老後になれば、身体能力が減退して体力もピークを過ぎ、脳細胞も徐々に衰えていく状況にあります。

しかし、数十年の衰えていく期間は惰性で生き長らえるだけで、頭脳の思考回路を磨くことをしないのは、知的生命にあるべきこととは思いません。体力はないけれども経験と知識を絞り出して、老人であっても頭を使って何かをしようとする気持ちが必要でしょう。その思いが社会の制度も変えていくことになります。社会の複雑化に伴い人々の意識がそれなりに発達した状況では、すべて老人の頭が固くなり過去の習慣に固執して社会に対応できないわけではありません。体力の敏捷性や頭脳の明晰さはなくとも、豊富な経験から正しい選択へと導く能力はあるはずです。老人は年齢で差別されるのではなく、社会をより良く協調へ導く潤滑剤としての意味を模索するべきでしょう。

例えば、体力の衰えを自覚した老人の目から見ると、小さい子供の行動には無限の活力があるように見えます。そこに伸ばすべき芽を見出し、その芽が実を結んでいくならば、それは充実以外の何でしょうか。そこに家族という枠を超えて、次の世代を担う人々を育てるという大きな流れが実感できないでしょうか。自分の孫だけでなく小さい子供たちの将来は未来の構築への基本です。この子供たちに対して、将来を見極める目をもって、よりその個性を良い方向に上昇するように後押しする使命が残されているかもしれません。今後の人類の活性化は、現在の政治経済の体制とはまったく違った領域から拡張していくだろうと思えます。それは、高齢者になり残りの人生を自覚して、その限定された年数を有効に生きるということから何らかの利他的な思いが生じ、それが未来への考えとして集約していくのではないでしょうか。老人というのは行く先が見えているので、もう財産を貯める必要がないし、自分の家庭を守る義務も軽くなって、いろいろな責任から解放される状況にあると思います。つまり自分の係累に執着することなく、考える範囲を広げて、あまり束縛のない視線で世の中を見ることができます。そして、社会が良くなる方向を考えて、利他的な行動ができる自由があります。意識が知的な方向に上昇してくれば、それに対応して、多様に広がった個性が協調して集束する動きが生じるはずであり、そこに経験豊富な人材は不可欠です。そこでは互いに他人を考えるという利他的な意識において集団が集約されるはずです。

そして、人生の最終段階に達し自分の身の回りのことすらできなくなって、他人の援助がなければ生活できない状態になるのは悲しいことです。もしそれが長寿記録を狙うような特殊な状況でなければ、他人に迷惑をかけるよりも老衰への静かな道を選択したいと思うのが普通と感じていますがどうでしょうか。人間の寿命は、環境の整備や医療技術の発達に伴い、この1世紀くらいで急速に延びたといわれます。しかし、現時点の人間は、一般的に言って、まだその精神が完成したというには、ほど遠いという感じがします。世の中の現状を見ると、嫌悪と混乱がまだ優位になっているのは確かなことです。そうなると、生命の流れは世代交代を加速して、今後は寿命も短くなるかもしれません。生命の流れは、何らの脅威や急激な変化に対して、集団に起こる放散のなかから選択を重ねて困難に適応してきたので、これからもこの流れは続くはずです。そこで、現在の高齢者は、世代交代で継続する橋渡しにおいて、未来に必要な経験と知恵を選択し追加する責任があって、人類全体の意識を上昇させていく使命があるように思えます。そして未来にある老人は、利己主義の個性が減少して、向上心をもって利他的な行動をする個性が増えるはずです。そして、そこに自分の位置を見出したいと思います。

 

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