Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

人類の不思議

2016-06-29 11:26:22 | 人類の道

人類の不思議

人類とは、いわゆる類人猿との共通の祖先から分岐したとされ、そのDNA遺伝子はチンパンジーと数%しか違わないと言われます。しかし、あまり差がないという割には、人間は直立歩行し大脳を発達させており、地球上をほとんど占有して、他のすべての生物に対して優位な状況にあります。当初には火を使いこなし言語を操り、科学技術を発達させてからは、地球すべてを支配したかのように、環境を改変しながら人口を増やし続けています。この現実を見て、人類が地球を独占した結果だけを考えると、人類だけが他の動物とは全く異なっていて、宇宙人が遺伝子を操作したとも考えたくなります。けれども、生命の歩みをじっくり考えてみると、生命は必然的に人間までに至ったとしたほうが自然に思います。

逆に、地球に類人猿や前人類が混在する時代に、宇宙人が地球に来たとすれば、興味を持って研究対象とする可能性はあると思います。しかし、そこで現人類を発生させる操作があったとするならば、何らかの動機があったはずです。悪意があってするならば、人間は奴隷とか食料などの方向になるので、宇宙人のもとで人類進化が固定されて、現在の人間のような状況にはなりえません。また善意で操作するには、わざわざ前人類から人間にする理由がありません。人間の知性を急速に向上させて、宇宙の仲間を増やしたいなら、積極的にコンタクトして人間の知能を上げ、協力体制を築くはずなので、やはり現在の状況にはなりません。そして惑星環境が違えば遺伝子の多様性の適応も異なるし、感染する病原菌やウィルスも違うし、何らの研究としてのサンプリングはあっても、無理に介入するのではなく、見守るだけとするのが普通でしょう。

現代では科学の進歩によって、宇宙の状況や生命の発生について、ある程度知られていて、生命は太陽のまわりを周回する惑星という、温度、大気、磁気などが適度な環境でのみ発展します。その環境条件には幅があって、惑星の状況によって生命は異なった発展になると考えられます。しかし、地球の例から考えると、宇宙における生命の流れは、時間の経過にそって、まさに意識の上昇方向に動いており、それは必ず知性を持った生命体が発現する方向です。地球だけが宇宙の例外であるという証拠はどこにもないので、地球と似たような環境条件が揃えば、宇宙のどこかで別の知的生命体が存在するはずです。

 

<宇宙の生命の不思議>

宇宙が知的生命体を目指すのはなぜか、そしてその先はどこに向かうのかを、私たちには知る方法はありません。しかし、この宇宙には計り知れない深遠な、生命の存在理由があるように思えます。私たちは科学の発達によって、地質の構造や年代の測定方法から、地球の過去の状況がある程度わかってきています。そして生命の歩む時間が、私たちが知覚する時間単位とは異なり、百万年とか千万年という単位で進むことが知られています。つまり、その長い期間を知覚でき、生命の進行を管理するシステムが宇宙にはあるということです。そして生命の進歩というのは、試行錯誤の連続であり直線的な発展ではありません。生命は少しずつ多様化して拡散し、ある分枝ではその種の進歩が固定され止まります。その多様化した枝のなかから、意識を上昇させる枝が主流になってきて、そこで紆余曲折しながらも、意識が上昇する方向に、少しずつ進歩を続けています。つまり、ここにも意識の上昇を知覚し管理するシステムがあることになります。

そして、その生命が進化する経過は、一般に熱力学の第2法則(エントロピーの法則)という、統計的にランダム(乱雑)になっていく物理的な世界で、不思議にも生命体の機能を増やし複雑にしてきています。生命の歩みがアミノ酸などの基礎化学物質から人間までの経過で成してきたことは、いわば土砂や石などの基礎物質から、膨大な時間をかけて最新のコンピュータで管理された総合ビルディングを建設したようなものです。いくら時間があったといっても、このような複雑化していく構築が、自然界の偶然だけで、設計図もなしにできることでしょうか。1つの細胞の中の代謝では、酵素などが介在して、多くの分子やイオン化した原子が意味のある循環をして、そこに冗長性を持たせながら、生命体の行動に合うように絶妙なタイミングで作用が行われています。そして、それぞれの細胞は感覚器官や神経細胞などの機能に別れ、その複製と消滅がコントロールされて、1つの生命体としての活動になっています。癌細胞でもなければ、ただ1つの細胞も逆らう部分はありません。この統御システムが、自然に構築されたというならば、その自然に何らのシステムが内在すると考えるのが普通ではないでしょうか。

 

<人間の意識の不思議>

これらの作用は私たち自身の体の中で行われているのですが、私たちの意識は1つ1つの細胞の行動を監視していません。意識するのは、主に生命体としての行動に関わることです。身体の基本的な代謝などの作用については、私たち自身は意識することなく、自動的に行われています。また、感覚器官からの情報から危険とか安全なのか、あるいは体内バランスからの情報で食料を摂取するとか排泄するとかについては、意識はあっても、その意識は何らの目的をもった行動の方に集中します。何らかの痛みなどの警告情報を受け取った場合に、初めて意識します。つまり意識は思考や意志などが活性化する部分に強く作用し、そこに集中して働きます。ここに複雑化しながら歩んできた生命の賢さを感じます。

それでは、この意識とはどのようなものでしょうか。最も基本的なことでは、「意識」と言える状況は、生命体が刺激に対して、選択的に反応をすることです。その意識は生きることに集中しています。例えば、天敵がいるという情報を感覚器官から取り入れ、それを判断して逃避行動を起こします。あるいは餌があるという情報があれば、それを摂取する行動をします。敵あるいは餌を識別して、それに対して適応する行動をします。ここには意識が働いています。そして生命体は、単一細胞から複数細胞へと複雑化し、徐々に細胞が機能化されていき、神経細胞を形成するようになります。そして、意識の上昇とともに神経細胞の集まりは、脳の形成に向かいます。その現時点の最終が人間の大脳に収束しています。

 

<精神が生じた不思議>

人類以前の生物種の進化では、外形や器官についての変態や機能追加でしたが、人類では脳を発達させて内面化に向かっています。それは、状況を記憶し組み合わせて思考するだけでなく、行動と思考とが連携しながら試行錯誤(内省)します。そこには自己の動機や意志があって、最適な行動を考えます。そして、集団をなしてくると、その周囲の制限や規制のなかで、信条や道徳へと発展させています。これらは物質的なものではなく、考え方とか概念とか言われる内面的なことです。人類は他の動物と違って、外観とか匂いや誘引物質によってだけ、互いが結びつくのではなく、精神を発達させたことで、その生き方や思想などに影響されます。この精神とは、内省して考えることから生じていて、試行錯誤しながら目的に対する行動を予測し結果を推察して、それが実際の行動を作り出すエネルギーを生んでいます。これが創造とか発明などに向かう、やる気とか情熱という行動の活性化を生じ、それは生存への欲求だけでなく、自己の明確な目的とその意志から生じています。この行動をおこす力は、まさに精神のエネルギーともいうべきものに思えます。このエネルギーがどのような力に発展し、それがどんな影響力を持つのか、現代の私たちはまだ完全に理解できていません。

 

<意識が上昇して精神に至った不思議>

人類という段階では、以前の動物に比較して、生命の歩みに内省の獲得という飛躍をもたらしています。それは多様化する分岐の中で、意識の上昇する生命の動きとして起こったことです。そこで人類は、その自己の意識を明確にしました。その飛躍とは、動物は知ることができるだけですが、人間は知るということを知っているということです。生物種の進化にあった、身体的な機能とか器官や組織の発達を越えて、脳(神経細胞)の作用の複雑化によって、その意識が精神という領域を構成しています。その進化のメカニズムのなかに、人間に「精神の現象」が発現することで解放される、何らかの「特別な力」があるように思えます。そして、その精神という現象は、人類以前には地球に存在しなかったものであり、そこに現在の人間としての現象の要因があるのではないでしょうか。

 

<意識の上昇と人類の変遷>

人類は第三紀の末期に、類人猿の共通祖先の系統から、ある単一の家族が突然に現れて、その独自の形態を始めたといわれます。そこまでの経過にあった動物たちは「系統発生」と「種の拡散」という2つの言葉で特徴付けられる進化をしています。地球上の生命は、すべての種において、系統発生という定向進化的な形態の変化があって、機能の追加あるいは退化が起こっています。例えば、魚類の対性のヒレから四足動物の四肢へと進化し、四肢の形態がさらに変貌をとげて、飛ぶ、泳ぐ、跳ねる、掘る、水中へ戻るなどの変化がありました。そして、種のつなぎ目の所では突然変異が発現して、その種が他の種へと適応放散を起こしたと推定されます。人類という知的生命体が現れるまで、「生命の樹」のパターンにあるように、変化する広がりが多様に分かれ、そして新しい節目で放散して分枝することを繰り返しています。

しかし、人間の段階になると急激な変化がありました。2足歩行して重量のある脳を支えられる体型となり、脳の発達によって言語を発明して思考を生じ、内省という精神の現象が取り入れられて、その意識は自分自身を自覚できるようになりました。この能力は人間における新しい特徴であり、選択の自由、未来の予見、計画する能力などの多くの能力の基になっています。そして、この内省の起こりによって、道具を作り改良するという技術革新への方向が始まっています。生命が人類において、この内省の力を獲得したことは、必然的に自分と他人を識別することであり、その個々が集まって交流して、その個性といわれる内面的な部分がさらに多様化することになります。

個々の人間を中心化している意識は、内省の領域に生じた自立性を確保しながら、独自の流れが起こしました。他の生物が、種から種へと形態や機能を進化させたのとは明らかに異なったものです。通常の進化の経過では、種の「つなぎ目」の所はその種の最終形態となって、そこから多様に新しく分枝するのが動物学的な放散ですが、人間では外面的な機能ではなく、内面に向かう方向になっています。これは人類以前の動物分類には当てはまりません。人間は個人として内省して、その個性や技能を磨きますが、それだけでなく個人が集まって集団をなし、共同作業などで協力し助け合い、個人では達成できない利益を経験して、それが収束と結合を強くして、より一層その連携が発展しています。そして、その集合が大きく複雑になり、社会集団へと拡張されていったと考えられます。この長い期間で、当初は人種・民族・言語などの特徴をもって分かれはしたものの、人類という種を維持しながら、現在では地球全体の表面をおおうまでになっています。

この集団の最大値は、人類の種の全体となるので、結局はこの経過は、人類という種全体に対して、1つの集合が適用されるまで続きます。言い換えると、個人が内省する巻き込みの渦が、互いに全体へと運ぶ集団の巻き込みへと吸収され、それが惑星規模で閉じている人類の種全体の巻き込みになっていくことが予想されます。そして、個人の意識とは個人を中心化したものであり、集団をつなぐものは集団を中心化するものであり、そして人類全体をつなぐものは、その全体精神が中心化したものであるということになります。そうなると、人類以前の生物種にはなかった、精神という領域にまで上昇した状況を、より明確にするために、いわゆる生物圏(Biosphere)に対して、精神圏(Noosphere)なるものが考えられるわけです。

自然界にある「集団が複雑化」する例では、シロアリの蟻塚のように、その社会は家族としての集合を越えた外側を含めて、集団を構成することはありません。しかし人間においては、分散したもの派生したものを巻き込んで集団を形成します。そして社会という概念が、単に集団の単位としての意味だけではなく、その仕組みや内部の連携が多様化し、その集団の特徴を生じています。何らかの困難な事態が起こると、人は単独で行動するよりも集まって行動します。つまり人は目的に「集約」して協力して行動をした方が、有利ということを経験し蓄積しています。そこには新しいフレームワークが多様に作り出され組織としてまとまっていきます。人類は連携した集団をなして、その集団が組織化されて、統合された1つの集団として行動するようになります。つまり、人が集まって集団ができ、それが組織化して行動することが、慣習的にそうしているというより、組織的に行動した方が状況をより有利にできるという価値があったからと考えられます。

人間の歴史では、民族や文化によって囲い込まれた集団が、成長拡大したり衰退したりする中で、それぞれの特徴が強調され、人間の内面を多様化しました。それが集団の中の人間性にも影響し多様な個性が生み出されています。この多様な集団の現れは、動物進化の経過からすれば、種の標準的な分枝に相当することであり、進化にあった放散による分枝という基本的な傾向が、人間の集団にもあることになります。そして意識の上昇とともに、内面が多様化するならば、その意識の上昇に極端に集中して、精神エネルギーを発達させた集団があった可能性もあります。そこに精神に潜在する特殊な能力を開発した人間集団が存在したかもしれません。例えば現代でも、未来を予知する能力、一瞬で計算結果の見える能力など、いわゆる超心理的な現象が報告されているので、これらを発展させた集団もいたはずです。しかし、当時の集団環境に何らかの欠陥があって、消滅の道を辿るしかなかったのかもしれません。

 

私たちの問題は、これからの人類はどうなるのかということです。人類は内面化し多様に分枝しても、人類という種を捨てていません。そうなると人類はその種の本来的な統合に向かって、その精神の共鳴現象によって引かれて収束するのではないでしょうか。ここに、私たちが追い求めるべきもの、今の人類を超えるものが見出されるかもしれないと直感的に思います。この「集約する人類」とは、未来の人類として、生命の歩みの先に待ち望まれるものであり、将来の適切な時と所に現れることが期待されるものです。それは互いに嫌悪しあう人々ではなく、互いに親愛の情で結びつく人々が主流になるのではないでしょうか。私たちに必要なことは、その「集約する人類」という方向において、世界を観察して自らの行動を考えることではないかと思います。

 

Inspired from “The Formation of the Noosphere (The Future of Man)” written by Pierre Teilhard de Chardin.

 

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