Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

人間の深さにある個性

2017-08-12 18:50:30 | 個性について

人間の深さにある個性

 

私たち人間は、人それぞれに個性があって独自性を持って行動します。仲間と一緒であろうが一人であろうが自由な選択があって、それぞれに自分の欲望に従って異性を求めるとか、仕事や趣味に打ち込むなど気ままに生活することが可能です。人類は内省という機能を獲得したことにより、他の動物に見られる種の束縛から解放されたかのように、生殖を強制されることなく独自に行動できる自由があって、極端な話で自殺することさえできます。さらに、核爆弾を発射させて世界全体を滅ぼすことも可能なので、人類という種のまとまりがあるはずなのに、個人1人の考えで自由に行動できることの不思議を感じます。

今までの動物すべてにあった種の縛りを越えて、人間はそれぞれが個性という独自性をもって、それが多様に広がりバラバラになっていくのでしょうか。そこにまとまりは生じるのでしょうか。現状では、ほとんどの人々は社会の組織内にあって、その大部分の人々は争いや戦いが大きくなることを望んでいないと思います。けれども、一部の権力をもつ人たちは、自分の権勢や財産を伸ばそうとして戦いへの道を選択しているようです。あるいは明日の生活に不安があれば、今日の自分だけが生きればよいという打算も生じるかもしれません。世の中にはいろいろな人々がいるので、何らの差別はいつものようにあることだし、元々それぞれ個性が違うので不平等はあり得ることです。お金や権威が欲しい人は、その方面の能力を磨けばよいし、能力が伴えば実現できるだけのことです。影に隠れて世の中を支配する人がいても、必ずそれを暴こうとする人もいるし、興味の対象としては格好の材料なので、大衆に隠そうとしてもいずれはわかることです。結局は、人間は多く集まっていても、それぞれの方向に分散するだけなのでしょうか。

人間の個性がどのように形成されるのかを考えると、もともとある資質に、自分のまわりの環境での生活習慣、出会いなどで経験したことの記憶や行動から独自性が積み上げられたものです。いじめられたりバカにされたり、あるいは逆に他人をいじめて優越を味わったかもしれません。このような行動を通して、生活の手法を学びながら、他人との交わりを経験しているはずです。そこには、感情の起伏があって喜びや悲しみ悔しさ怒りなどの情動が絡み合い、その情動と連携してホルモンなど分泌があって行動の促進があり抑制があります。また、痛みがあれは少なくしようと努力し、何かを達成して大きな喜びが伴えば、次の機会にさらに頑張ります。そして他人と連携する生活の中で、これらの情動に絡んだ行動に幅や深さが生じます。まわりに対する反発や協調があって相性とか動機によって活性化され、それぞれの個性が生じてきます。人間どうしの関係の中で助け合いとか信頼しあうことを学び、これらを総合して精神といわれる領域が開発されていきます。人間の脳は今のコンピュータの構造に比べてはるかに複雑で、単細胞の時代から培った感覚刺激と反応から生じた行動が、長い期間の発展を経てその仕組みを作り上げています。全体を統御するシステムとしての神経系の長い歴史は、そうすぐに人工知能のような機械に置き換われるものではないはずです。

そこで個人としての人間ということを考えると、その本来の価値や人間としての機能からして、この宇宙の時間と空間において1つに特定されてしかるべきものです。まわりの世界に対して、その独自の見方や行動によって、過去と現在と未来という時間の流れにある出来事に影響を与える要素となっています。つまり、人間としての特性の故に、各々個人の精神とは、それが1つの要素であっても、置き換えられたり取り替えられたりできないものということです。それゆえ、これら個人の要素がたとえ微小であっても、それぞれが融合してしまうことのない独自の中心を持つ精神となっています。そして、この精神たちが集まっている世界を、1つの「球体」として象徴的に表すことができます。この球体において、私たちの存在は厳格に決定される1つの要素として、その役割が何であろうとも、それぞれの領域を占有しているはずです。

この微小な精神の中心たちが集まった球体を考えると、それが1つの基本的なこととして、人類を含むに意識の集合になっていることに気がつきます。つまり私たちの経験からして、各々の微小な要素たちを引き付けて球体をなすには、全体としての中心に向かって働く力があるということです。ここで意味しているのは、その個々の要素の「意識」にあるそれぞれの多様性は、その部分だけを見れば異なっていても、この球体という全体の次元から見れば、全体が中心に向かう力によって統御されていることになります。各々の個々の精神の存在が、球体をなすことで単に微小な散らばりではなく、統合的なものとして多くの要素とともに共に存在していることになります。この1つの宇宙的ともいえる全体感覚は、まだ多くの人たちにとって埋もれて自覚されていないことです。しかし、それは最も根本的な精神エネルギーの形態であると思えるものです。そのなかに私たちのまわりの世界のすべての精神エネルギーが、徐々に集束されていくように思えます。

私たちが互いに連携して今までにないものを作り出そうとするとき、関連するものが共時的に結びつけられるような衝動を感じるので、そこに私たちを一定の方向に動かす力が生じるようです。目の前に越えられないような壁があっても、乗り越えようとする情熱が高まって、何らの連携によって実現されることが多く見られます。その直接的な成果に到るために、何らかの神秘な部分で心を動かすものがあり、心の中心から中心へと連携した活性化が生じて、実を結んでいると思われます。この連携がうまくいったときには信じられないくらいの成果があがるので、そこに心理学的な研究によって内面活動への活性化の可能性が考えられます。しかし、私たち個人のレベルでは、性格や習慣とか考え方の違いによって、個々の行動に相違があって、そこで生じた精神の活性化がどの程度で、どうなっているか、はっきり識別することはできません。

 

2つの精神の方向

精神に働くこの神秘的な衝動の方向を考えてみると、信頼する仲間の間で自己をリラックスさせ没我によって連携の中に融け込んだ状態と、他人との意識の連携を積極的に協調させながら緊張に向かう、2つの状態があるように思えます。言い換えれば、自分とまわりの世界が融解に向かう精神と、自分がまわりの世界とともに結晶化に向かう精神と言えるかもしれません。内面的に、1つは、没我によってゆったりとした広がりに融け込むことであり、もう1つは緊張とともに中心に向かって集中することです。宗教に例えれば、キリスト教や仏教の歴史においても、そこに集った精神は同質ではなく、その忠誠を実現する方法に、大きく2つに区別できる動きがあったと思います。1つには大いなる活力を必要とするものであり、もう1つは、その活力を減らしていく方向です。何らかの昇華を達成するために、1つは人々との間での精神エネルギーを日々の緊張によって溢れ満たすことです。もう1つは人々の間にある緊張をゆっくりと減じながら全体に溶け込むことで成し遂げようとすることです。

全体に溶け込むということは、すべてが1つになるように、すべてに共通な基盤へと融け込むということです。この方法は、個人の精神を超えた全体へと融合するという訓練方法として興味を引かれます。しかし、現時点では、あらゆる多様な精神に対してどう対処できるのか完全に明らかではありません。私たちがその多様を究極的に克服して全体の調和を計るには、まずは全てを一旦排除して、何もない所から新たに世界を組み立て直す必要があるかもしれません。あるいは、私たちにある相違のすべてを考慮して、その表面の多様さに共通する基本領域を見極める努力が必要になるでしょう。そこで拮抗するものすべてを消去してから、その共通となる基礎において、同時にすべてを認識することになります。そのときに、各々の微小な中心は、そのまわりの残りすべてとともに1つの全体として実現します。しかし、多様な精神が密集する球体において、現実には明確でない共通の基盤というものを、内面的な凝視によって定めることができるでしょうか。

そこで、バラバラに分散したものを、その共通基盤のもとに1つとすることが困難であれば、球体をなした全体の中心に向かう力に合わせる努力をするほうが良いのではないかという考えが起こります。それは、中心へと複雑化して巻き込まれる動きに合わせていけば、いずれ1つになると予測できるからです。現在まだ解明されていないことですが、そこに生命に神秘の作用が働いていると考えるからです。地球に生命が発生して、その生命が複雑になる方向に発展し、人類に至ったという事実があります。そして個々のすべての生命存在が、その他のすべてのものと共に、地球という環境で全体が調和した状況において観察されています。そうなると、何らの隠れた力によって生命が発展したのではないか、という考えが素直に起こります。

これらのことを考えると、真の統合とは共通の基礎となるものへ融け込むことではないことになります。そうではなくて、人間を含めたすべての意識が、その超球体の中心へと集束して、そこにすべてが調和して巻き込まれることではないかと考えられます。この状況の流れとしては、より個性化した人間が調和して集約する統合が、全く素直に理にかなうと思えます。つまり、全体が調和して集約していくことと共に進歩があって、それが同時に個性をより豊富に高めていく道を開拓するのであれば、新しい生命世界へと人間が飛躍できる道が、開かれるのではないでしょうか。

 

先へ行く道

次から次へと新しい発明が積み重なっていく技術革新や社会のグローバル化の中にあると、その避けられない結果として、私たちの社会組織や人間関係は相当に複雑になっています。そして、その複雑さに対応して、私たちの意識は上昇への圧力を余儀なくされています。そこで私たちの精神に生じてくる焦燥感や倦怠感に負けないで、複雑になっていくことに対応しなければなりません。この地球という惑星のすべてを巻き込みながら進む道を、正しく認識して選択する必要があるのではないでしょうか。複雑な方向に上昇するしかない流れにあるならば、私たちに可能性のある1つの道は、進歩する方向に世界を維持しつつ、精神の上昇に伴う困難を乗り越えようと駆り立てるものであるはずです。

生命の進化を長い期間でとらえると、そこには後退というものがない不可逆の流れになっています。私たちが進む先にあるのは、進歩とともに精神が上昇する道ということは明らかです。それには人間どうしを結ぶ大いなる愛と大いなる意識が必須のはずです。しかし現時点では、私たちは逆説的な状況にあって、互いが嫌悪する争いは絶えずあって、その嫌悪を煽るような情勢が続いています。現時点の私たちの世代では、嫌悪や倦怠とは逆の方向にある、精神エネルギーの新しい形態を志向する心がけが必要に思えます。そこで困難に挫けることのない輝ける個性を育むことが、次の人類への歩みを進める道になるはずです。そのとき、心と心を直接つなぐ感覚という、いままで科学の枠外と見られていた現象がもっと一般的になって、明日の地球を担う未来の人間が、すでに内在している状況に導かれるかもしれません。

 

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