Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

民族と宗教についての問題

2016-10-15 18:16:08 | 人類の道

民族と宗教についての問題

はじめに

現代世界を不安にしている問題の1つに、民族や宗教などのグループどうしの争いが絶えず起こっていて、大衆も巻き込まれて死傷者や避難民が生じていることがあります。私たちと同じ人間どうしが争いを起こして泥沼のような混乱が各地で続いているのは嘆かわしいことです。このような争いが起こる原因は、宗教上の対立だけでなく歴史的背景や経済的な利害関係などが絡んでいて、そこには複雑な事情があるようです。いくら止むを得ない事情があるにせよ、話し合いの解決ではなく武器を持って殺傷するような報復の繰り返しは、人類全体のからすれば退行あるいは後退と思える動きであり、生命の流れに沿っていないように思えます。

地球上の人類の発展としては、民族や宗教でまとまり統率された集団がそれなりの勢力をもって拡大した歴史があります。その集団が他の集団との争いの中で組織化される経緯で一体感が盛り上がって、大きく発展したり消滅したりという紆余曲折を繰り返しながら、そこに知的生命体としての人類が少しずつ上昇してきた軌跡があったことになります。そうであれば、現時点では言語や習慣あるいは宗教に違いのある集団であったとしても将来には何らかの交流があって混ざり合い、それぞれが経験してきた積み重ねが影響し合って、そのうちには大きくまとまって皆が同じ人間どうしという親しみを感じるような一体感に集束していくのではないでしょうか。

 

1.集団を形成する情熱としての民族と宗教

はるか昔に人類が地球上で拡散したとき、血縁関係の支流の輪が広がって言語や生活を共にした組織が大きくなって民族というまとまりを形成しています。そして民族ごとの集団内で崇拝や儀礼など伝統的な慣習が起こり、その集団で暮らす人々の心配や苦悩を和らげ安らぎに導いてくれる神が崇拝されました。そして偉大なる人が出現してその信条がまとめられ、その教えが広まって崇拝や儀礼とともに宗教という勢力になって拡大しています。現代では国家という集合の多くが、海や山などの地理的な境界を除けば、民族や宗教の集団を主体にして構成されているようです。

民族という集団は血縁が基になっているので、遺伝子の研究からみても、昔ある1つの家族において起こった変異が集団にまで発展して、環境の変化や消滅の危機を乗り越えて、大きくまとまり民族と呼べるような社会集団に成長したことになります。人間の集団はそれぞれの質的な特徴をもって多様化してきた流れであり、そこから戦いを重ねて偶発的に大きくなってきたものが国家を形成していて、現在地球の表面は百以上の国家に区切られています。これらの境界線を境に互いの管理を主張しあっていることになります。

宗教についてはどうでしょうか。もともと自然の不思議さや脅威に対して、そこに自分たちをはるかに凌駕するものへの畏怖を感じ、それを崇拝したのが宗教の始まりのように思えます。この世で見たり聞いたり実感できる世界からあの世へと去っていく人を畏敬の念を持って埋葬したいとする心持は神仏への宗教と深いつながりがあります。自分が知りえないものや超えるものを神や仏として神格化して、それが信仰となり専門に伝道する人やそれを聴く人々が集団を形成しています。神社仏閣における荘厳なる読経や凛々しい仏像、あるいは教会の十字架や聖歌隊の響きなど、目や耳に入る圧倒される感覚は、畏敬の念を与えられ世俗とは異なった別世界のようです。

それだけでなく、宗教は社会的な規範や道徳の「より所」としても機能していて、対立の解消や仲裁によって互いの協力や調和を促進し利他的な心を育てる役割もあります。社会集団の中ではその構成員が利他的に協調するのは必要なことなので、その慣習や宗教の教えによって協調して結束を固める役割があったように思えます。しかし、しばしば宗教の集団は他の宗教集団に対して排他的になり、自己の優勢を伸ばそうとする利己的な行動をするようにみえます。そのような宗教集団どうしでの戦いでは、神の言葉や規範を掲げて戦意を鼓舞することもあるようですが、歴史的な宗教戦争では宗派の権力争いでありその宗教の直接の教えではないようです。権力の争いであるからこそ国家を巻き込む大きな戦いになるのであって、利権を得たい勢力にとっては民衆を巻き込むための正義の御旗に、宗教が利用されたということのようです。もともと争いや戦いが起こるのは、どちらが強いか弱いか、上なのか下なのかという関係を明確にすることであって、その信仰とは直接関係はないと思います。宗教を迫害する勢力に対して自己を守るために戦うこともあるでしょうが、自ら好んで戦いを起こすのは人間の本性ということになります。

通常、民族や宗教が違うということだけが争う原因になることはなく、何らの過去の因果があってそれが戦う原因になっているはずです。自分と民族や宗教が違った人々に対しても、付き合っていれば思いやりの感情が生じて、その気持ちが相手にも伝わることは日常で経験していることです。人類にはすでに数十万年間の経験と知識があるので、たとえ言葉が通じなくても嬉しい悲しい苦しいなどの意志の疎通はできるし感謝を伝えることができます。現在残っている多くの民族や宗教には、運に恵まれて積み重ねられた多種多様な特性が込められていて、そのうえ今後にも試練や経験があることになります。

 

2.民族や宗教から生じてきた人類という感覚

民族は祖先から血縁と慣習を引き継いで、ほぼ同じ言語を話す集団であり、宗教を共通とする集団と重なっていることもあります。このような集団の同胞たちには一体感のようなものが生じて集団を固く結束させていることになります。そうなると確かに他の集団との過去の因縁や利害によって嫌悪の感情が積み重なって、そこに差別が起こり、それが許容できないレベルに高まることもあるでしょう。もし直接の摩擦があれば「やるかやられるか」という状況で戦いに勝つことに固執します。単に優位な立場になるとか経済的な利益を得るというより、単に相手は許せない邪魔者であって排除したいという集団どうしの利己的な感情のように思えます。

これは人間の本性としての感情であって、民族や宗教というレベルよりも下層にあるものです。人間にはもともと競争する心として自己の向上心から切磋琢磨して相手を越えようとする気質があります。利己主義というより向上心であり、スポーツの戦いなど全力で向う情熱となって、全力であるがゆえに勝っても負けてもさっぱりできるという心持ちです。しかし、この場合でも相手に対して嫌悪の感情があれば、相手を叩き潰すとか排除したいというまでに高まります。これを抑えているのが道徳や良心といわれる一時の感情を抑制できる心であり、社会の慣習とか宗教の教えによって支えられているものです。現代では人類の内省してきた経験によって意識が徐々に上昇しているので、相手の存在を意識できる人間はその良心によって抑制がかかり、直情的に道徳に反することはできない傾向になっているはずです。

つまり現代のように情報がすぐに伝達する世の中では、たとえ自分が考えなくても、まわりは連携を考えることができるので、自分の嫌悪から相手を排除しようとしても、その関係は見えているということです。人や集団の関係にはそのあらゆる連携がそこに含まれるのは誰でもわかることです。国家レベルの話で何らの利益をもたらす資源があったとしても、その資源を1つの国家内だけで循環できる時代ではなくなって、他の国家や民間企業の連携や協力が必要とされます。もし一部の国家や集団が利己的に利益を追求しようと操作しても、それが皆に見えてしまえば必ず何らかの反抗が起きることになります。現在の状況は個々の争いの情報が混ざり合いながら経験として世の中に記録され、いくら隠そうとしても時間の経過とともに明らかになるはずのものです。私たち人類すべては「人間の良心」とともに存在していて、それは私たちが日々直面している問題そのものになっています。この観点からすれば、何らの特定の集団が自己に固執する傾向は薄められていくはずなので、1つの民族や国家の境は徐々に不明瞭になっていくものと思われます。

そのうえ生物の分類ということからすれば、世界に散らばった人類はまったく単一の生命種であり、どんな外形の異なった民族の間でも子孫を増やすことは可能であり、実際に国際結婚は盛んに行われています。今は確かに同じ言語で会話ができ、社会慣習や考え方が同じであれば話も気安くできるし安心できますが、その言語や民族とか宗教が違ったからといって相手を嫌悪するとか排除しようとは思いません。たとえ国家が何かを獲得しようと戦争を仕掛けても、一昔前のように敵のことがよくわからなければ戦って殺傷することに抵抗が少ないとしても、情報が溢れている現代ともなれば、敵である人々の事情や暮らしも大衆レベルで知ることができます。国家が情報を制御して集団の結束を固め外部からの情報を少なくできる状況であれば国家のために民衆を戦わせるという考え方はできますが、現代では武器そのものの技術が進んで、戦う前に勝負がついてしまうような時代です。

いずれにせよ自国の利己的な正義のために他国の人間を殺傷できるものでしょうか。あるいは、自国の政府の利己的とわかる戦いで他国の人間を殺傷せよと指示があったら同意できるでしょうか。現代の私たちの精神はその苦悩に耐えられるのでしょうか。将来徐々に世界の人々の心の中に人間として同胞という感覚が芽生えてくれば、それが人類全体にまで発展しないという理由はありません。民族や宗教は多様化しながらその経験を豊富にしているので、いがみ合うことはあっても、結局は互いが助け合って人類全体に貢献していくしかないということになります。過去の戦いは人類に課された経験を積み重ねる試行錯誤の圧力によるものであって、そこから西洋でも東洋でも物質的な領域の上に精神が覚醒する心を生じています。この「垂直に」起こってきた精神は、生命が人類において完全にしようと模索しているものであり、私たちの根源には人間として共鳴するものがあって、何らかの原動力として前に進ませるものがあるように思えます。現在、民族や宗教として分かれていることは、未来に飛躍する前段階として、もっと希望を持ってもよいのかもしれません。

 

3.民族や宗教の先にあるもの

地球表面上のみかけの距離は、情報の拡散する速度が早まった影響によって、急速に短縮されたような感覚があります。そこで暮らしている私たち人間大衆は、処理すべき情報量が増えるに従って内省の力は上昇していく傾向にあります。つまり現代では他人のことについて見たり聞いたりしながらそれを密接に考えるようになっていて、これが人間性を変えていく可能性になっています。言い換えると、現代の世界で起こっていることは、単に人が増えて技術の進歩があるだけでなく、人類が未来に向ってその形を作りつつあるということです。現代の民族や宗教の絡み合う中での争いは、世の中が多様化していく流れからは、人々の集約した精神が情熱を持って行動する1つの現われであるとも考えられます。社会が組織化されていく経過で絶えず戦いが起こりその刺激によって試行錯誤があり、その直接的あるいは間接的な成果を通して、何らかの先のものの現われがあるということです。つまり近い将来そこに現状を超えたもう1つの新しい形態の現れがあることになります。未来と言うのは単純に先の時間というだけではなく、私たちの先に構築されていくものです。そして私たちの先に見えてくるものを見失わないようにする必要があります。

現代における汎人間的というような人類として新しく起こっている先への進歩の衝動というものを考えるとき、多かれ少なかれ人間の意識においてそれに反対する立場を固辞したい心が起こってきて、それがある意味緊張をもたらす状態になることがあります。つまり、進歩することに対して、現在を維持する伝統とか慣習あるいは宗教的な崇拝や神あるいは絶対な存在を無視できないという衝動があって、内省における葛藤となるように思えます。基本的には静かに安定した心において、神あるいは絶対なものに近づきたい衝動を忘れることができないということです。いわゆる神や絶対に対する信条は上に向う心です。それに対し先に向う流れは進歩に努力する心であり超越する神の存在は否定します。そこには深い隔たりがあるのでしょうか、

一方、もともと人間の心の本質があまりに粗悪に作られたので、それ自身の深くにある情熱には矛盾があるとしたら、そんな非条理な立場が受け入れられるはずがありません。この2つの方向あるいは流れは、両方とも多様な苦悩と努力を経験しているはずなので、それゆえに互いの分離を克服する何らかの方法があるはずです。しかし今の状態を端的に言い表わそうとすれば、現時点では世界の誰でもが納得できるような統合に向かう信条というものがないのは確かであり、地球を先に動かすために2つの方向をまとめる十分な状況にはありません。しかし仮にも、先には人類全体の滅亡を避ける出口がなく、上には人間たちに思いやりや愛を放射してくれる最高の個性がなければ、それは冷たく凍りついた世界であり、温かい心や究極の目的などがない最後の崩壊を待つだけの世界になってしまいます。

今までいわれた宗教の慈悲というものは人類全体についての信条とか希望とかいうことについて、あらゆる人間の感受性を引き込むような効果がないように思われます。何らの意図を持った世界政府とか政治的な世界統一のような冷たく一体化した絵空事ではなく、人間が人類全体として暖かさを持った精神を感じられるようなものでなければ、どんな宗教でも信条でも人類すべてに訴えることはできません。それでは、これから先の世の中に地球に責任を負う「超人間」への覚醒というようなものが起こらないのでしょうか。いや、この地球上のあらゆる人類のなかから、その鋭く活性化する端にあって、そして十分な魅力の力を発揮する人々がでてくるはずです。結局のところ、その超人類ともいうべき人々の活躍で、人類という単位が今は民族や宗教で領域を分けられていても、いずれはまとまっていくという方向性になるはずです。

 

あとがき

人間の集団どうしの争いは、これからも形を変えながら継続し、おそらく人類は1つであると全員が納得するまで続くでしょう。現状は争いを起こしたいと思う人がいて、それに対抗しようとする人がいて、戦って勝つ快感や優勢となる充実を求めて争いは続けられます。そして一方では、他人に争いを起こさせて漁夫の利を得ようという人もいるでしょう。自己を磨き向上させること以外の争いが無益なことは誰でもわかっていますが、それでも争いや戦いは続きます。それが生命としての人間の本質であり、試行錯誤による経験の積み重ねをしながら、その刺激から新しいものを創造していくことになるからです。

現代の世界では、日々進歩する技術の革新によって生活が便利になるだけでなく、電子的な社会化が止まることなく進められています。そして空高くには通信衛星やGPS衛星だけでなく、監視や攻撃用の衛星もあり、その監視や盗聴の技術なども革新的に進歩していて、ほとんど個人や社会のプライバシーは絵空事になってしまい、インターネットでも虚々実々のことについての情報が飛び交っています。私たちは、このような環境のなかで、新たな未来社会を作り続けなければなりません。言い換えれば、技術革新が進む流れにあっては嫌悪や反抗にはあまり意味がなくなってきて、人間の本質あるいは本来あるべき方向、つまり内面の方向を各自が見極めて探していく必要があるということになりそうです。

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