Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

超人類への希望

2015-07-25 19:24:31 | 人類の道

20世紀には世界人口の急激な増加があって今も増加が続いています。この人口が増加する中で、世界のあちこちで紛争や経済の不安があり、また災害や貧困で人の命が失われているという現実もあって、この地球の生態系や環境を変えつつある人類とはいったい何でしょうか。こんな状況にあって本当に今の人類を越えて未来の超人類になるなんてことが望めるのでしょうか。先の段階として人類の心が1つとなるには、互いの嫌悪の感情は思いやりに変わらなければなりません。しかし私たちはいったいどのように、この嫌悪の感情を克服できるのでしょうか。しかし宇宙発生は不可逆で無慈悲であり、何があっても先へ進むことになります。

 ここで生物の進化を考えると、環境の変化で生じた外圧や天敵に対する防御という直接の生存の脅威に対して、生物自体の変態等の適応によって生き残ってきています。人間にも生命進化の動きが続いているとすれば、現在の地球環境からのあらゆる圧力や、嫌悪とか悪意から起こった争いごとがあるからこそ、そこから大衆が進むべき真の道が選択されていくと考えられます。

それは人間は他の動物とは違い、内省する(考える)ということができるからです。良くも悪くも、この内省から将来に何をなすかが決められていきます。内省するゆえに、嫌悪による争いでも自己を正当化し、同類に対する残虐な行為にも理屈をつけます。しかし一方では道徳や倫理によって歯止めがかかります。宇宙の大きさや構造を不思議に思い、進化の本質や生きる意味も考えます。そして研究開発が進んでより便利なテクノロジーや組織を発明していきます。いったん新規技術が開発されるとほとんど世界中に広がっていき、よけいに世間が狭くなっていきます。

この内省するという精神的傾向によって、この先自動に統合する傾向にあるならば、利己主義にならないで、どうして全員が一致できるのでしょうか。嫌悪を克服して統合するには、互いの間をより親密にする、親愛の情のエネルギーが起こらなければなりません。互いを信頼し尊敬しあう仲間の集団を築いていくことが一致に向かう道であって、この親密さを感じ親愛の情による行動によって、同じ人間という種であるという感覚が生じてくるということです。これはすなわち内省が集約することであり、それが超人類の始まりということになります。この傾向は進行しつつあり、惑星を崩壊させるような事件さえなければ、おそらく気がつかないうちに人類は徐々に超人類に入れ替わっていくと思われます。

 

超人類への希望

ピエール テイヤール・ド・シャルダン

 

今日の世界を見ると、大衆の心が離れ離れになっている状況に意気消沈してしまいます。深い情愛のある限られたケース(結婚したカップル、家族、チーム、故郷の人々等)を除くと、個人間や集団の間でも、離れた人間要素が互いを嫌悪する状況に隷属化される、不穏なアリ塚の特徴が見えるように思えます。しかし私たちは心の奥で、その混乱や騒乱は、人間の思考や感情あるいは行動のパワーが無限に拡大するのを遅らし、その実現を阻むものとして、「本質に逆らっている」という心情をもち、「他にあるべき」という思いがあります。

この状況は本当に自暴自棄に向かうのでしょうか、あるいは、この反対に思える現われにかかわらず、人類は全体として、全員が一致する可能性があるだけでなく、実際に、本当に全員一致となるプロセスにあると確かな示唆があると信じる理由はあるのでしょうか。ほかの言葉で言い換えると、宇宙の人間調和に救い難いほど反対に思える嫌悪の力を、全体として克服しながら、それは地球の「内省のレイヤ」を形成する、何億年もの間で恐るべき多数の思考する意識の蓄積を、ともに一緒にして自身を組織していく、(これは信じがたいと思えるかもしれませんが)、必然とする傾向が、確かに惑星のエネルギーにおいて存在しているのでしょうか。

ここで私の目的はこのエネルギーの存在を示すことです。

それには2種類のものがあります。1つ目は、外面と内面にかかる圧縮の力によって組織化が強制されて、統合への最初の段階となることです。それに続いて2つ目に「引く力」があります。内面からの親密さを表す行動によって、強制されない自由な同意によって、まさに全員が一致する効果をもたらします。

ここで、人間の環境に光や空気のように宇宙的に広がっている、この2つのプロセスを見てみましょう。それらは私たちをあまりに密接に包んでいるので、どのような行動もそこから逃れることはできないけれども、私たちはそれをしばしば無視してしまっています。

<2つのプロセス>

1.    地理的な圧縮と精神的な圧縮

2.    親密になる(近くなる)引く力による統合傾向

 

1. 地理的、精神的傾向な強制あるいは圧縮による統合

  1. 地理的傾向

生物学的に、動物学的なグループとして見た人間は、地球という閉じた表面での発達に制限されています。もっと正確には、世界の人口はすでに実質的には陸上で飽和するほどに満ちていて、これ以上拡張の余地はなく増加率だけが増え続けています。あたかも人間グループの行動は、圧縮が続く世界で発展するかのように、自身を固く収縮してきています。

この最初の明確な途轍もない力の影響は、民族をも圧縮して互いの距離を近くし、その体を容赦なく寄せ合わせることになります。しかしこの密度がもっと大きくなると、元の出身がどうであろうとも、その人の精神の深さに影響が及びます。それは、増加する圧力に対して反応を活性化させ、そこに自身を快適に適応させるために、そしてまた生き残りや楽しみの充実のために、多数の考える人間たちは本来的に経済やテクノロジーの可能な限り、自身を調整するという反応をします。これは新しいテクノロジー装置や社会の組織のシステムに対して、いつも何らかの発明を自動的に強制されることです。言い換えると、これは内省を強制されることです。いわば人間として特別な、より高い意味において、その質をもっと発展向上させるために、自身をもっと内省させていることになります。

 これは奥深い教育的で不思議な現象です。人間大衆は、強烈な万力で握られるような惑星の圧縮によって、精神的に暖められてアイディアが光り始めます。そこに個人同士の相互作用が電波のように広がって、その暖かさは独自の跳ね返り現象によって、それを起こした圧縮の上昇を誘発し、この反応の連鎖が速度を増しながら続きます。まずここから必然的な人間のまとまり集団化が起こってきます。その中では知性の力によって、個々の人間にある利己主義や互いに嫌悪する傾向を、ほとんど自動的に抑えられることになります。しかしこれがすべてではありません。この最初の地理的な圧縮に対して、すぐにそれは「しっかり固くなる」という効果が追加されます。これは物理的なことを言っているのではなく、精神的な傾向の現れとその効果によるものです。それを次に説明します

 

b. 精神の傾向

惑星の圧縮に直面してそれに抵抗した心の動きは、私たちが話したり書いたり行動する「人間的」連鎖において、最初は単なる「方策」以上のものではありません。しかしまもなく、まさにその存在を良くしようとする「動機」に自動的に変換されることになります。これは、まず私たちは生き残るために考えますが、その後はアイディアを考えるために生きるようになっていくことです。この現象は人間発生の基本原理の現われです。しかし、考えることから生じたアイディアは一度解き放たれると、それ自身が引き伸ばされ広がって相当なパワーを示します。あたかも、それが独立した組織をもつものであるかのように、一度生じるとそれ自身が成長し広がることを止めません。そしてすべてのネットワークに浸透するまで止まることがありません。1つのアイディアが成長して広がり、そして最後には惑星全体に広がるまで何も止められないという事実は、あらゆる歴史が証明しています。

私たちを取り巻いている「内省する」という精神的環境は、かなりしっかり構成されていて、私たちが前に進んでいかなければ、そのままにしておけない状況を作り出します。しかも、互いにより密接に引き合っていて、肩をふれあわせなければ前に進むことができません。それはあたかも閉じられた厚い壁によって私たちの心が非情にも混ぜ合わされ、そこに私たち個人すべての真実の努力があって、高くそびえる精神の「尖塔の先」へ高く上昇するかのようです。これは、個々のすべての思考が強制されて、合計として集積するという力になります。

この自動に統合する傾向という力が、地球のテクノロジー社会の発達で解放されて、内省するという精神のエネルギーから現われ、人間がまさに混乱状態で離散して苦悩する状況を乗り越えて、ますますその力を増していくことになります。これは確かに、私たちのこの宇宙で、全体化の衝動が、離散する衝動に打ち勝って、結果的に勝利していく保証となるものです。

確かにそうです。しかし1つの条件があります。圧倒的な経済力や知識の蓄積の下でも、その背後に隠された私たちの「利己主義」という壁を破り捨てて、まったく完全に全員が一致して納得できるという、1つの基本的な情熱が起こること、これだけは現れなければならないことです。

 

2.宇宙の収束に向かう引く力による自由な統合

地球での地理的そして精神的という両方の環境から強制されて、人が生き残りを考えてより密接な共同体に余儀なくされると、人間の互いの愛は必要ではないのでしょうか。いや、そんなことがあるはずはありません。

現在、この世界では偉大なる理論家たちが同じ問題を分かれたグループで考え、互いに嫌悪しあっている状況かもしれません。これはすでに私たちが気づいていることですが、これは奇妙で悲しい事実です。この理論と心が分離した状況を観察すると、私たちの結論は次のように落ち着きます。社会の必然や論理がどんなに背後から嫌悪に駆り立てても、人間大衆は「親愛の情というエネルギー」からの影響のもとに、完全に統合される道だけがあるのではないかということです。いわば、その親愛の情なるエネルギーは、活性的に収束している1つの宇宙において、すべてが等しく統合の1部になるまで、全員に対する愛と充実に一定の貢献があってこそ、個々の愛や自身の充実になる運命に人間を置くでしょう。

親愛の情という「引く力」は、収束する圧力という「押す力」から生じるものです。しかし、今、私たちを取り巻く政治社会の危機にあって、幸福で充実する状況になれると信じる客観的な理由が、その始まりを示すだけでも妥当で確かなものはあるのでしょうか。

私は次において述べる基礎において、あると信じています。

過去の世紀を通して、科学の発展によって必然的に私たちの知性に獲得されたもので、「結果的に最重要」とする成果は、それは自然のエネルギーを何かの資源として安全に制御することよりも、内面{精神}に向かう力の発展において、途方もなく巨大な宇宙が全体的で有機的な構成にある、という意識に大衆が目覚めたこと、その意識を獲得したことにあると納得できます。

私たちにはあらゆる知識が増加して、はっきり見えてきたことがあります。宇宙発生というプロセスがあること、生命の起こりから人類の発生があって、その人類において精神がより高い状態に向かっています。私たち全員がその1つのプロセスに参加しており、私たちの究極の充実とは、(人類の完成ともいえるもの)、まだはっきりせずとも人間が最高に向かう、このプロセスそのものに依存しています。

そして、私たち各々がこのプロセスにあって、個々のエゴを超えて全体のエゴ(超エゴ)となる究極の段階になれば、親愛の情という引く力によって、前進のプロセスで共通に充実できることが、その超エゴと同時にあるという確信になります。この共通となる超エゴこそが、人間の心の中に全員一致を徐々にしみこませて、私たちの個々の反抗する核(嫌悪の核)を、内面から置き換えて、必然的にその一致を引き起こします。私たちの心が一致していくことが、この「引く力の法則」から起こるとしなければ、どこで起こるというのでしょうか。

それゆえ地球の地理的とか精神的な傾向と呼ぶもの、この2つが人間を固く結びつく状況では、その重なり合いからの放射が、この3番目の「引く力」として最終の統合へ影響し、精神圏の動きを規定しながら、あらゆる人にとって同時に同じ最高となる魅力的な運命をもたらします。望むべき全体すべての共同体、それを成功させるのは、惑星という次元において、他の2つと同様にこの3番目の力です。たとえ何らの誘惑で抵抗できないことがあっても、いわば、自由な同意によって作用しているものです。

この新しい力が、現在の私たちの政治とか社会の事象の流れの中で、何らかの明確な役割を演じていると断言するのはまだ早いかもしれません。しかし、過去150年間の世界の歴史で、民主主義や全体主義の政治体制に投げ込まれた状況での成長と持続を観察して見ると、ある意味内省の成長と共に分散して広がっていた中で、心の奥から一時は消えていたと思われる「種の感覚」が、徐々にその位置を復活してきて、狭い個人主義を越えて、その権利をまた再び主張していると言えないでしょうか。

新しい基本となるべき人間の見方で解釈される「種の感覚」とは、以前とは違って、果実を実らす「枝」{道具}が単に果実を支えられるようにその成長を求めるのではなく、果実そのもの{精神}が成熟という結果を期待されることにおいて、そこに成果の集積と成長があるべきです。

もし「種」が成熟するという希望があり、そしてそれを成し遂げるという信条が光り輝き、真に私たち全員の心を一致させるならば、確かに積極的に何らの属性が授かるはずです。そして、ここが意見の分かれるところです

全員の心が一致することを、社会主義の延長線で考える人は以下を信じるでしょう。すべての人間要素を鼓舞し充電するために必然となるのは、集約的な内省と思いやりの状況が結果として人間発生の最高(完成)まで前進すべきであり、そこに参加したすべてに利益となるべきです。そうであってこそ、互いが強制された考えの最高にある、その閉じた環境の属性として、そこにある個人は、全体システムの1つを構成するという、知的で情愛ある充実を達成するでしょう。

一方キリスト教の見方においては、集う仲間が自ずから統合される世界という心において極めることだけが、精神的に分散した人間大衆の中で、全員が一致する力を構造的にそして機能的に鼓舞し保ち十分に解放できることになります。この仮説に従うと、本当の「超愛」だけが、すなわち真実の「超存在」からの引く力だけが、心理的な必然から、その他の地球的愛の資源を統合して優位になりうるものです。そのような宇宙的収束の中心を見失うと、哲学とか超越とかの話ではなく、現実として「全体化する人類」における真実の筋道はありえないし、そして、それゆえに確固たる一貫性もありえません。そこで個性を排除して最高にしようとする世界では、引く力の暖かさもないし、不可逆性の希望(不滅性)をもたらすこともありません。これらがなければ、個人的な利己主義がいつも終には現れることになります。この世界の頂上にあるべき価値を持つエゴは、地球の個々の要素のエゴすべてを、困惑させることなしに、最高にするために必要です

ここで私は「キリスト教の見方」について話しています。しかし、この考え方は、キリスト教以外の環境において基礎を得てきたものです。カミュが「シジフォスの神話」において、「もし宇宙が愛することに気づけば、人は復活するだろうか。」と書きました。人類生物学者スティールを拡張して、「欲求不満の分析」で人間性を超えた「宇宙的な愛」に気づく必要性を著したのは、H.G.ウェールズではなかったでしょうか。

ここで要約と結論を述べさせてください。

世間が目に見えて縮まってきている環境で、そしてそこに思考が巻き込まれていくという、2つの抵抗できない惑星の包み込みにおいて、1つ1つが塵のような人間は、「途方もない圧力」によって集積されてきていて、現時点で警告されるような集団や国家間の嫌悪よりも、この圧力の方が、はるかに強くなってきています。

このような悪にとじ込められた状況にもかかわらず、私たちを内面の親密性の本質的な領域に最終的に導くことができるのは、私たち自身の内面で気づいた親愛の情という「引く力」の力強い現われ以外に、他に何も可能であるとは思えません。これが、私たちが今突入している圧縮されて全体化する社会で、「種の感覚」の復活が実質的に避けられない状況で生じていて、全員一致の本質への糸口について、最初の示唆を与えています。

しかしながら、超人類において新しく生じた人間の信条がどんなに価値があると証明されても、先へと向かうように人類を急かせるものは、他人と親密になること以外にはないし、そしてよりもっと根底にある情熱、究極にある何らかのもの(オメガ)へと急かされる情熱があってこそ、その完全な成果を達成できるのではないかと思われます。

 

Unpublished.Paris, 18 January, 1950.

 

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