一燈照隅

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終戦時邦人四万人を救った“響兵団”

2007年08月19日 | 大東亜戦争
ポツダム宣言を受諾しても侵略を辞めなかったソ連軍の行為は、千島列島での戦いや満州での悲劇を生みました。
そのなかで、内蒙古自治区の張家口から四万人の邦人を救出した響兵団があります。


終戦直後の混乱の中、内蒙古自治区内で、ソ連軍の魔手から邦人四万人を一人残らず救った響兵団


突然のソ連参戦
大東亜戦争の終結直後、日ソ中立条約を踏みにじり無法にも迫り来るソ連・外モンゴル連合軍の侵攻から、同胞四万人を救うため我が身を顧みず戦後の聖戦を戦い抜いた日本軍駐蒙軍独立混成第二旅団・響兵団の同胞愛、大和魂をお伝えします。

内蒙古自治区の張家口(ちょうかこう)で迎えた終戦の日、家族は死を覚悟して神棚の下に集まり座り込んでいた。九人兄弟(三男)の父は昭和十三年春、鉄道省(旧国鉄、現JR)水戸鉄道管理局を退職し勇躍支那大陸へ単身旅立ち華北交通㈱に就職、昭和十五年春、母、兄、私の三人を引き連れ内蒙古の豊鎮(ほうちん)に着任、その後父は北京、南口、張家口と転勤し、その間に妹弟も誕生、終戦時には母方の祖母も加えわが家は七人家族になっていた。
万里の長城を越え北京西北二〇〇キロに内蒙古自治区(当時)の張家口がある。三方を山に囲まれ南が開いた張家口は盆地状で夏は暑いが木陰に入れば風は涼しく、冬は雪は殆ど降らないが寒さは肌に痛く、市街の中央を流れる清水河は厚く凍り、子供達のスケート場となる。
張家口では大東亜戦争の終末近くになっても戦争の匂いは殆ど感じられない程穏やかな日々が続いていたが、昭和二十年夏になると内蒙古自治区の奥地の治安が悪くなり、ソ連参戦の報を聞いた特務機関は一般邦人の引き揚げを命じ、邦人は張家口まで引き揚げ友人、知人宅に身を寄せ、普段二万五千の邦人は四万人に膨れ上がっていた。
昭和十七年頃の日本軍・駐蒙軍は約四万五千の兵力を持っていたが、その後、フイリッピン・レイテ島や上海、次いで河南作戦に転用され、駐蒙軍独立混成第二旅団(通称、響兵団)は五千名程だった。

兵団の機転で間一髪脱出

終戦四日後の昭和二十年八月十九日、日本人は全員帰国するとの通達が届き、貴重品は総て荷造り、しかし来る筈のトラックも大八車も来ない。駅まで歩くことになったが、荷解きの時間はなく、残した衣類等をかき集めリュックサックに詰め込んだ。
この時突然「俺は日本には帰らない、ここで骨を埋める。一四〇戸の社宅を守る」と言い出した父と泣く泣く別れ、七十歳の祖母を先頭に女子供六人が駅へと歩き出し、駅に到着。駅長室で私達家族も父と一緒に残ると座り込んだが、日本人は全員帰国すると駅長になだめられ貨車に乗った。
私達の列車が発車の瞬間、黒い塊が飛び込んできた。父と、畑野さんが残るなら私も残ると言い共に残った父の同僚だった。兵団が社宅を回り「日本人は残っていないか、日本人は全員帰るぞ、駅に急げ」と声をかけてくれたという。
引揚列車の行く手を阻む八路軍(現共産軍)の妨害に普段八時間の行程を四日も要して北京に到着、更に天津へ。引揚者は日本人学校に収容され、私達は淡路国民学校に収容された。
ニカ月後の十月二十二日、老人幼児のいる家族は優先のルールに貨物船を改造した引揚第一船「江ノ島丸」に乗船でき、天津港を出港、浮遊機雷が流れる中を巧みな船長の操舵で昼間航行し、夜は投錨し、潮に流され普段の倍の五泊六日もかかり十月二十七日に福岡博多港に無事帰国、翌日DDTの洗礼を受け故国の土を踏んだ。

運命の書『昭和二十年八月二十日』

時は流れ戦後三十六年の夏、人生を変える一冊の本との出会いがあった。昭和五十六年八月末、百貨店の書籍売り場でふと目にした風変わりなタイトル『昭和二十年八月二十日』(稲垣武著/PHP社)に吸い寄せられ、サブタイトルの「内蒙古・邦人四万奇跡の脱出」を見たとき、「この本の中に自分が居る」と直感した。
そこには忘れもしない張家口、華北交通㈱、張家口第二国民学校や校長先生の名が刻まれ、膝頭が震えだし立ち読みを続けることが出来ず、家に飛ぶように帰り読み続けた。頁を閉じまた開くが涙が溢れて進めない。やがて終章、そこには私達の脱出を援護する戦後の戦いで尊い命を落とされた英霊七十余名のお名前がづらりと並び、涙は鳴咽に変わった。

邦人援護のためソ連軍と死闘

私達が張家口を離れる時、トラックが来ない、大八車が来ないと言っていたその時、邦人四万人が北京、天津方面に脱出するまでの間、丸一陣地の二五〇〇余名の独立混成第二旅団・響兵団等は、ソ連・外蒙連合軍の侵攻を阻止する死闘を繰り広げていた。ソ蒙軍は戦車壕を飛び越え躍り込んで来たが、白兵戦になっても怯まず勇猛に戦う響兵団等に恐れをなし、更には日露戦争で日本に負けたという敗者の潜在意識は、「強い日本軍」という刷り込みとなり、ソ連軍は攻めては退いた。
本との出会いは、それまでの第二の故郷張家口を想い、再訪を夢見ていた私の気持ちを、同胞の脱出援護の戦後の戦いに尊い命を落とされた英霊の家族を訪れ、感謝を申し上げ慰霊をさせて頂こうという気持ちに変え、それを実行し、兵団の大和魂を語り伝えることが救われた私の使命であり、ご恩返しだとこのとき悟った。

ソ連軍・外蒙軍の侵攻

昭和二十年八月九日早朝、ソ連・外蒙連合軍は日ソ中立条約を一方的に破棄し国境を突破し内蒙古になだれこんだ。主力はソ連の機甲部隊と外蒙騎兵隊の混成部隊で、兵員四万二千名、戦車、装甲車合わせて約四百両、迫撃砲等約六百門が駐蒙軍に襲いかかってきた。
ソ連軍の機甲部隊は次々に要衝を占領、十四日には日本軍陣地のある張家口北方の張北近くまで迫ったが、急進撃のため燃料補給が間に合わず、燃料不足で立ち往生した。
このソ連軍機甲部隊の侵攻状況を、張北北方の偵察飛行中に発見し、駐蒙軍司令部に通報し、結果、邦人の安全地区への撤退が進捗した。中支派遣第五航空軍直轄独立飛行第五十四中隊の桑原廉敬・陸軍中尉は往事を想起し歌集を編んだ。
何よりも困難を極めたのはソ連の侵攻であり、これに伴う四万在留邦人の撤退で、独立混成第二旅団・響兵団に課せられたのは、戦わずしてソ連軍を阻止し、邦人の脱出を援護するということにあった。

駐蒙軍司令官・根本博中将の決断と将兵の大和魂、同胞愛

駐蒙軍司令官・根本博中将は敢然と命令を下した。それは「理由の如何を問わず陣地に侵入するソ連軍は断固これを撃滅すべく、これに対する責任は一切司令官が負う」というもので、張家口北方わずか二十七キロにある丸一陣地では、参謀辻田新太郎少佐が指揮を取る響兵団のソ連軍の侵攻阻止の守りが布かれていた。
根本司令官は悩む。大本営の「即時停戦、武装解除受託」命令に従えば、ソ連軍は張家口に殺到し、引き揚げ直前の邦人は大混乱に陥り、市街は地獄絵図となる。ためらった末抗戦を決意、支那派遣軍総司令部に打電した。「八路軍及び外蒙ソ軍侵入は敢然これを阻止する決意なるも、もし、その決心が国家の大方針に反するならば、直ちに本職を免職せられたく、至急何分のご指示を待つ」という職を賭しての抗戦の決意を報告した。
綿密な邦人脱出計画この根本司令官の決意はいち早く丸一陣地を死守する響兵団の将兵に伝わり、士気は一気に高まった。根本司令官は張家口を満州の二の舞にはさせじと立ち上がった。
更に蒙古自治邦政府、駐蒙軍、華北交通㈱の三者は、連日、住民の引き揚げ対策について徹夜で協議を重ねた。ソ連参戦を住民に知らせればパニックとなり収拾のつかない事態を招きかねず、家財を全部持ち帰ろうとしたりして、脱出に向けての住民輸送が捗らないことは明白。住民に対する通報をどうするかが問題だったが、緊急大量輸送計画が策定され、北京方面から来る下り列車を総て張家口駅で留め、側線に引き入れ、北京方面への一方通行の引き揚げ列車とすることにした。
八月二十日、多くの住民に通達されたのは、「治安が悪化して今晩一晩情勢が悪いので、一晩分の非常食を持って国民学校に集まれ!」というもので、住民は学校へと急いだが、その途中で出会った人達から、「学校ではない、駅に行っている」と声がかかった。駅に着いたら、「早く汽車に乗れ、大きな荷物はここに置いて行け、後から送る」という。
駅前には家財等が山と積まれ、着の身着のままの住民は駅構内に停まっている貨物列車に急いだ。駅前の荷物は持ち主の元に戻ることはなく、列車が発車した後、荷物は現地人が略奪した。「引き揚げ命令」でなく一時避難」としたのは、身一つで素早く引き揚げきせようと、わざと出したニセ命令だった。嘘をつくことになったが、僅か二日間で四万人の残留邦人を引き揚げさせる苦肉の策は見事、図に当たった。

増田大尉、満身創疲の奮戦

兵力に大差がありながら、敢然と戦い抜いた響兵団はソ連軍を釘付けにしていた。いくたびも繰り返し襲ってくるソ連・外蒙連合軍をその都度撃退した響兵団にも傷ついた兵士は増えていった。
増田利喬大尉は白兵戦で腰も立たぬ程のいくつもの弾傷・刀傷を受けながら、後送を拒み折れ曲がった軍刀を振りかざしていたが、周囲の謀らいに張家口市内の病院へと搬送された。大尉の身体には八ヶ所もの刀傷や貫通銃創があった。

辻田新太郎元参謀との出会い

気が付けば本との出会いの二週間後には社員旅行で愛知県蒲郡温泉に行くことが数ヶ月前に決定しており、その必然に心が震えた。本との出会いは蒲郡の隣町にお住まいの参謀に対するお礼参りだと思った。戦闘指揮を取った参謀辻田新太郎少佐は豊川市にお住まいで、戦後はずっと農業に従事され、請われても自分は人前にでるような者でないと頑なに拒み続けた。
昭和五十三年六月に楷行社から『殿軍(しんがり)響兵団の対ソ戦記』という印刷物が出版されたが、これも、「主だった関係者が鬼籍に入り、古稀を迎えた自分が今、書かずんば、この事実が永久に歴史の裏側に埋もれてしまうに違いない。事実をそのまま述べ、独立混成第二旅団の実績を、後代に残さんとするもの」と参謀は端書きに記した。

兵団は、寒北の野に潰ゆとも 敵には渡さじ四万の同胞

豊川市のお宅をお訪ねした時に参謀殿は静かに仰言った。「英霊となった八十余名の部下達を始め全員を無事連れて帰りたかったがそれが出来なかった。そんな私が表に出る立場にはない」と。丸一陣地の戦闘時の心境を表した詩は引き揚げ者の胸を打つ。

〔兵団は、塞北(さいほく)の野に潰(つい)ゆとも敵には渡さじ四万の同胞〕

戦後参謀は敵前撤退した八月二十一日を英霊の命日と定め、毎年自宅に祭壇をしつらえ、そこには英霊の御名前を記した霊璽簿を捧げ、戦地で参謀を助けた愛馬の名前も書き記し祈っておられた。私も幾度かご自宅を訪ねお詣りさせて頂いた。
そして、私達を救うための戦後の戦いで尊い命を落とされた将兵の方々の「慰霊祭」を英霊の五十回忌に当たる平成六年八月二十一日(日)、神戸・護国神社で実施、兵団の将兵始め張家口引揚者や新聞を見て感動し参加された方が全国から一五〇名も参列された。

平成九年八月二十日(日)-張家口を脱出した日-には京都・平安神宮に於いて「感謝の集い」を実施、NHKは二週間前にニュースで予告し、当日も夕方のニュースで放送、お陰で全国から一二〇名ものお元気な将兵、引揚者、賛同者、友人らが集い、引揚者はその際のお礼を心の底から将兵に申し上げ、慶びと感動の出会いはいつまでも続いた。

響兵団に学ぶ自己犠牲の精神

その後も「兵団の大和魂と司令官の決断について」、戦争体験を語り合う会や大津ロータリークラブ、滋賀、京都の自衛隊駐屯地で語り、また日本再生に力を傾け、国民をリードしているオピニオン誌数社にも掲載され、語り継く活動はこれからも続く。
日本再生を考える時、駐蒙軍独立混成第二旅団・響兵団が敗戦後の難しい時期に一つ間違えれば戦争犯罪にも成りかねない行動を敢然としてとり、同胞を守り、四万人を一人残らず救うという、司令官の決断と兵団の大和魂は、今の日本に取り戻し身につけたい日本人精神であり、多くの人に実行して頂きたい大切な心だと思う。
大東亜戦争が終結した直後の支那(現中国)に於ける駐蒙軍の精神を今の世に取り戻し、身につけ、自分のことはさておいて他人の為に何が出来るかを一生懸命に考え、美しい、きれいな、思いやりのある強い心を持ち、目の前のことに取り組むことが日本の再生に必ずや繋がることと思います。
参謀辻田新太郎少佐は、平成十七年十一月十一日永眠。多くのご親族やご縁のある方が参列する告別式は爽やかな零囲気のうちに執り行われました。享年九十六歳のご長命だった。
(はたの・けんじ69歳滋賀県大津市)
教育再生地方議員百人と市民の会会員 畑野憲次
新聞「アイデンティティ」第24号より


軍隊が攻めてきたら軍隊で防ぐしかありません。
憲法九条は守ってくれません。





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8 コメント

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貴重な史実の紹介ありがとうございました (山本大成)
2007-08-20 08:33:59
 大東亜戦争について太平洋であったことは比較歴知られているように思いますが、満州や対ソ連に関してはあまり知られていないように思います。
 確かに太平洋での激闘は大東亜戦争の死命を決しましたが、日本側から見た戦争の意義と言うことを思えば、大陸での戦争に本来の目的があったように個人的には思えるようになりました。(だからこそ大東亜戦争との呼称なのでは?)
 そして、ソ連参戦以後のことは、民間人の多くも影響を受けた悲劇の大きさに対して、ほとんど語られてこず、私も知らないことがいっぱいです。

 貴重な記事、本当にありがとうございました。

 古い記事ですが、TBを一点送らさせていただきます。
父を思い出しました (KC)
2007-10-01 12:36:44
父は終戦時張家口(チャンチャコウと読んでおりました)におりました。所属は独混(ドッコンと言っておりました)で、最後は通信兵だったそうです。
軍隊時代の話は、補充兵が来ても八路軍のゲリラに包囲殲滅されたりして引取りの兵と共に全滅したとか、トラックに鉄板で装甲しても馬力が弱くて走れないとか、勇壮な話は全くありませんでした。終戦直前に、支給のガーゼで下着を縫ったのが、帰国後も暫く使えたそうです。朝鮮人や白系ロシア人との交流が少々あった模様です。
終戦後結婚した時、父が軍隊手帳を焼くのを見たと、母が言っておりました。

晩年に近くなって、終戦後ロシアと戦った話を少しだけしてくれました。
内地引揚を待つ人を講堂か何かに集めていたとき、中学生くらいの子に鹵獲品の自動小銃を持たせたところ、誤って引金を引き1連射してひっくり返ったそうです。天井に一列に孔が開いたそうです。とにかく鹵獲品の武器は潤沢だったようです。
前線に出てロシア軍を前にすると、流石に生きては戻れないだろうと思ったとのことです。しかし戦闘の描写は無く、突然撤退の話になりました。夜、殿を一部残して全軍がトラックで撤退したが、ヘッドライトが一列に並んで、とても綺麗だと感じたそうです。
蒋介石が、優先して返してくれたと言っておりました。持ち帰るつもりのモーゼルか何かは、乗船前に海に捨てたそうです。婦人用の小型拳銃を、石鹸か何かに埋め込んで隠し持ち帰った人もいたそうです。朝鮮から帰る船の中で、米兵と軍曹の徽章(?)と本を交換したそうです。

俄かには信じ難い話でしたが、最近ネットで幾つか記事を見て、少しだけ実感が湧いて来ました。
当事者のお話に接して、消えていく記憶をお伝えしたいと想い、駄文を書き込ませていただきました。
Unknown (まさ)
2007-10-02 22:57:49
KCさん。
はじめまして。
貴重なコメント有り難うございました。
よくソ連軍に捕まってシベリア送りにならなかったものだと思います。
当時のことを知る人の話は残しておきたいですね。
教えてください (市川和男)
2008-04-24 19:43:39
 一昨年亡くなった母が、生前の事、特に太平洋戦争中の事をあまり話してくれなかったのが大変残念でした。その中で一つだけ判った事がありました。終戦時は張家口の女子通信隊かなにかにいたらしい事、引き揚げの時、無蓋列車に乗り、一晩中八路軍の銃声が聞こえていたこと、日本の兵隊の方たちが手を振りながら守っていてくれた事です。もし、その当時の張家口の様子をご存知の方や戦友会の方がいらしたら教えていただけたらと思います。母の旧姓は「日下まつえ」北海道生まれで、東京の下町育ちでした。
連絡先 qqna4qnd@etude.ocn.ne.jp
080-5191-1426
    市川和男
以上宜しくお願い致します。
日本人の誇りです (北田 雅夫)
2011-08-03 00:01:15
占守島守備隊が樋口季一郎陸軍中将の反撃命令によって上陸ソ連軍を足止めし、北海道の分断赤化から守ったと同様に、大陸においても臨機の判断によって多数の日本人を救った事を初めて知りました。
竹島問題で防衛白書に言いたい放題の韓国朝鮮、尖閣、沖縄周辺を跳梁跋扈する中国。
普天間基地問題で揺らぐ日米関係と、我が国を取り巻く安全保障環境は悪化の一途です。
民主党左翼政権を倒し、防衛力の増強と、根幹を司る改憲を目指さなければ、やがて我が国は彼らに食い潰されていきます。
感動しました (ライラック)
2013-02-27 06:55:55
私も何気に出会った、稲垣武著の「昭和二十年八月二十日、内蒙古邦人4万人奇跡の脱出」を読んで涙を流しました。日本人の魂を感じました。後世に伝えて行きます。
水母会 (木庭有甲)
2019-01-23 15:34:57
8年前に父が94歳で、母が91歳で亡くなりました。父は、終戦当時「蒙彊電気通信設備株式会社」に勤務し、張家口出張所勤務で母と一緒に居住しておりまし
た。同社の社員会の名称が「水母会」といい、昭和50年代、60年代にはその会合にも出席をし、平成の初めには、張家口にも行きました。響兵団のことは、この兵団のお蔭で無事に帰国できたと聞いております。LSTで、諫早か佐世保に帰国したとのことです。
現在、ロシアとの平和条約締結がクローズアップされていますが、日ソ中立条約を一方的に破り、ポツダム宣言を受諾した我が国が武装解除したにも拘らず、火事場泥棒をしたロシアを信用でき得る筈もありません。1855年以降北方四島は我が国固有の領土です。戦後まだ70余年しか経っていません。昭和天皇が、我が国が復興するまで300年はかかると仰せられた言葉からすると、まだ230年弱の期間があります。子々孫々に顔向けができないような処理をさせるわけには行きません。英霊にも申し訳ない気持ちで一杯です。
帝国陸軍の最後の戦い (福爾摩沙)
2019-02-16 14:12:45
明日から行く台湾・金門島の旅を前に門田隆将氏の「この命、義に捧ぐ」を読み返しているうちに丸一陣地で戦った「響兵団」をネット検索していて、貴ブログにたどり着きました。

畑野さんとは同じ年でしょうか?小生は昭和22年の生まれです。
昭和28年頃から2年間、母は父の入院していた結核療養所の近くの養護施設(孤児院)で兄と小生を連れて住み込みで保母として勤務しました。
その頃の養護施設の子供たちは戦災孤児が殆んどで、小生は昼はその子供たちと一緒に暮らしました。
小生を可愛がってくれた〇〇君は小生より3歳くらい年上でしたが、皆殺しにされた満州開拓団の子で、後から来た引揚日本人が一人で泣いていたのを不憫に思って、日本に連れ帰ったとのこと。
小生の周りにはこのような悲劇を経験した人を沢山いました。

永い間、帝国陸軍は邦人居留民を放置して、ソ連に対し武装解除した腑抜けばかりと思っていましたが、駐蒙軍の奮戦を知り、少し帝国陸軍を見直しています。
四万人の邦人を救った響兵団の戦死者に対して、日本政府はどのような報いをしたのか?
 
我が国の四方は露、支那、南北朝鮮という野心の多い危険な国ばかりで、アメリカも自国第一主義であてにならないので、一刻も早く、憲法第九条の改正が必要だと思います。




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